歴史の授業

 高校時代にどのような授業を受けたのか。残念なことにほとんど忘れてしまった。教員である私としてとても虚しい気がするが、おそらくほとんどの人の記憶はそんなものだろう。それでも印象的に覚えていることがいくつかある。今回は世界史の授業のことを書いておくことにする。

 その先生は年配で貫禄があった。授業は毎回、講談のようなドラマティックな話しっぷりで、高座が好きだった変な高校生の私にとっては馴染みやすいものだった。この先生の授業には賛否両論があって話が面白いという好評と、覚えるべき用語が何かについて言及がないのでテストでは役に立たないという悪評だった。他のクラスは用語を穴埋めするプリントを配り、そこに当てはまるように説明していくというありがちな授業で、結局試験に出る用語を効率よく学べるというものだった。

 私は今考えても講談調の授業を受けてよかったと思う。歴史は流れとしてあり、因果関係の中で捉えるべきものだ。その流れをいかに言葉にするかが中等教育における歴史学習の要諦だと思うのである。年号や事件名だけを点で覚えても歴史像をつかむことは難しい。

 後で思ったことだが、歴史教育は例え教科書があるにしても教員の解釈が深く影響する。何をどう捉え、結びつけるのかは語り手の裁量による。歴史の概念は極論すれば人によって異なる。そのことに気づかせていただいたのも学恩の一つなのである。

 昨今のようにすぐ答えを求めがる風潮において、歴史語りをする授業スタイルは排除の対象になるのかもしれない。ただ、目先のテストでは点が取れなくても、時代の全体像を考え、さらに他の解釈の可能性を予測できる授業は人生に必要なものであると考えるのである。

ジグザグ最高気温

 このところ最高気温がが日毎に上がったり下がったりしている。三寒四温という言葉があるが、一高一低ともいうべき感がある。

 ただ、日没が日々早まることにさすがに季節の移ろいを感じる。コオロギがかなり多くないていることに気づいた。いつの間にか秋は深まり、痩せ細った秋の束の間の時間が通り過ぎるのだろう。

値上げの10月

 今日から生活用品や郵便料金等が値上がりする。困ったことに必需品が多い。それに見合った賃上げが必要だが追いついていない。

 首相が変わってどのような政策が展開されるのだろう。世間ではリベラル寄りの思想で増税がなされるとの観測がある。ただ、自民党としてできることは限られており、現状維持が基調になるはずだ。慌てて株を売った個人投資家は見事に術中にはまった。

 現状維持ならばこの低成長もしくは停滞を切り抜けなくてはならない。まずはほどほどに金を回すことは大事だ。デフレは貧乏意識と富裕層の海外逃避にある。いい意味での愛国心を期待するしかない。国内の経済が潤えば彼らにこそ利益がもたらされる。目先の利益にとらわれず、同胞の幸福に投資をする人が増えてほしい。羨ましいが我慢することはない。それが未来の一層の利益を齎す。

 持たざる者にもやるべきことがある。好きなことには金を使うこと。そして他者の幸福に繋がることをなんでもいいからやることだろう。今のところ庶民にできることは少ない。ただ従前の振る舞いは日本人の国民性には向いているから達成可能だろう。

 値上げの10月はこれで最終回ではない。政府と財界には利他的な精神をそれぞれのポリシーに付け加えていただきたい。日本という国が世界の範例となることを切望している。

 

九月尽

 小の月であるので今日が月末となる。強烈な残暑は下旬まで続き、最近ようやくそれらしい陽気になってきた。台風の影響でまだ一時的な暑さは続くらしい。しかし、もう半袖は片付けるときになった。

 新暦においていつからが秋なのかについて悩むことがある。かつては9月がその初めだった。夏休みが終われば秋と考えていた。それが最近はなかなか夏が終わらない。旧暦の基準でも収まらない。何しろ中秋の名月はとっくに終わってしまったのだから。

 気候変動を嘆いてばかりいられない。間もなく衆議院は解散し新内閣が組織される。石破氏に関しては様々な論があるが世間が騒ぐほどの変化はないだろう。特に経済政策について大騒ぎしている方々はおそらく変動を創出したいのに相違ない。むしろ変わりそうもないことが懸念材料と私は考える。

 秋からもいろいろなドラマが展開されそうだ。それらに振り回されず、うまく乗り切ることを目指そう。そして、あくまで他人事にしないようにしなければ。

台風

 また台風の接近を心配しなくてはならない。明後日頃、関東の南海上を通過するそうだ。直撃はなく、台風の西側に当たるので最悪の条件ではないが、何があるか分からない。また、その影響で一時的に気温が上がるらしい。いろいろなことが詰まっているこのごろ、日常を吹き飛ばすことだけは止めてほしい。

組み合わせて作る

 何でも既製品で済ませようとすると結局類型的な生活しかできない。かと言って無から創作するのには才能と材料調達力がない。そんな時は既製品を組み合わせ、新しい使い方をするしかないだろう。

 民族学でいうところのブリコラージュの手法はこれからの私の生活には特に大切なものと見える。限られた時間と資金力の中でやりたいことをやるには模造品でもいいから自分で作ってしまうことかもしれない。自分のためだけに使うのならば問題はないはずだ。

 いわゆるプチプラ商品でもうまく組み合わせるといろいろ使えるものになる。本来の使い方ではなくても、代用できる場合はそれで済ませる。それがうまくいけば、結構嬉しいものである。品質や耐久性という点では劣ることは明らかなので、用途を限って使うことになる。そこを間違わなければいいのである。

 パズルのような楽しみを密かな楽しみとしている。いつか紹介したい。

大雨予報

 元台風の熱帯低気圧と前線の影響でこれからまとまった雨になりそうだ。今日は外出の予定があるので濡れ鼠となるのを少しでも避けることを考えなくてはなるまい。傘にレインコート、替えの靴下、そういう物の出番となりそうだ。

 最近は陽射しにしても雨にしても降り方が優しくないのが困る。そしてそれらに対応するために物入りとなり、さらには体調も崩す。健康だけはなんとか維持していきたい。

上着の恩恵

 昨日は東京の最高気温が23.7℃だったらしい。おかげで鼻水が止まらなかった。猛暑に順応していた身体にとって20℃台の温度は対応不可能なのだ。

 ようやく上着を着ることができた。暑苦しさの象徴のような格好をして、服に健康が守られていることを再認識したのである。もはやおしゃれという範疇ではない。私は衣服によって人生を守られていた。そのことを再認識したのである。

 生身の体はいかにも弱い。それをようやく救うのが衣服というものなのである。夏になるとその恩恵を忘れがちになる。でも人間の弱さというのはそこにある。

 話が大きくなった。私が言いたいのは 人間がコントロールできる気温というものはごくわずかということだ。ほんの少しの気温差で体調が変わる。それは私たちの調子が気温に左右されているということだ。

 今日はまた暑くなる予報が出ている。日中は上着を衣紋掛に掛けることになりそうだ。これも久しぶりである。

古典を読む挑み

 万葉集の研究を少しだけやった私に今の学問成果に対して言えることは何もない。だからここから述べることは単なる思い込みだ。最近の流行り言葉で言うなら「単なる個人の感想」である。

 古典文学を読む時の基本的な態度は、その作品が作られた時代の価値観に則って読むと言うことだろう。これが意外と難しい。そもそも過去の人々の価値観など現代人には分からない。分かると言えば欺瞞となる。

 古典作品はぎりぎりのところで実は理解不可能なはずなのだが。それを学者の皆様があたかもそれしかないような説得力で語るのである。その時点で真偽など分かるはずがない。

 ただそれを論じる学者にはそれなりの覚悟がある。古代をなぜかように断じるのか。学者の大半はその功利的な側面を気にしない。自分がそう思ったからそう語るのであって、それ以上に企みはない。

 古典文学を論じる上で正論なるものはない。極めて限られた条件の中で確率の高い推測を続けるしかない。それが古文学者の宿命であり、やるべきことなのだろう。私はそれを志し、途中で投げ出してしまった。だから、古典作品に新たな読みを与え続けている学徒には尊敬の念しかない。

新涼

 俳句で新涼は夏の季語で夏ながら初めて秋の気配を感じたときの皮膚感覚に基づくものである。私の場合、昨夜その新涼を覚えた。9月23日のことである。

 おそらく冬の日から突然現在に訪れたなら全身で暑さを感じるに違いない。連日の猛暑に悩んできた私にとっては肌寒さで震えて仕方ないのだ。鼻水が止まらなくなっている。

 体感というものは相対的であり、暑さも寒さも結局のところ昨日との比較で感じているのに過ぎない。だから新涼という季語が9月下旬まで移動してもおかしくはない。いや、実はおかしいのだが。