今日から12月だ。気がつけば今年ももう一月しかない。今年から始めたこともあるが、できなかったことの方がはるかに多い。しかし、この歳になったら欲張りはよくない。むしろ、始めたことがあったことを喜ぶべきだろう。
欠けていく記憶
久しぶりに訪れた場所が、どこかかつてと違う。違和感を覚えながらもその原因が分からないということはよくある。記憶というものは柔らかく伸縮自在だから厄介だ。
記憶の核となる風景や出来事、人物などが変わってしまったときはさすがに分かりやすい。だが、それより少し劣る場合は曖昧さに紛れやすい。記憶の欠損をうまく補えないまま時を過ごしてしまう。
そのうちに何がどうなったのか分からなくなる。得られるのは概観的な印象が何か違っているということだけだ。よく分からないけれど何かが違う。分かるのはそれだけだ。
記憶というものはかなりあやふやだし、自分の都合のいいようにいくらでも改変してしまう。そのことを自覚しないとひどい間違いをしてしまう。文字に残すとか、映像化するとか、記憶の延長策はいろいろあるが、結局本人の頭脳に残るメモリはさほど多くはないのだから、記録資料をみてもそれが本当か否かは知り得ない。
何でも記録できると信じてしまったのは現代社会の根本的な誤りかもしれない。過去の出来事をいつまでも事実として保持できるとは限らない。少なくとも一人の人間としては。
SNS年齢制限は妥当だが
オーストラリアの上下両院で16歳未満のソーシャルメディアの使用を制限する法案が可決された。国民からの支持も強いらしい。ソーシャルメディアに流れる情報は玉石混交であり、個人や団体への根拠薄弱な誹謗中傷も日常的に出ている。加えてAIを使ったフェイク画像、動画も多く、いわゆるメディアリテラシーがなければ虚偽の情報に翻弄されてしまう。
オーストラリアはインターネットが非常に普及しており、若年層がソーシャルメディアの閲覧をきっかけに犯行に及んだり、自殺したりするケースが多いのだという。情報によって追い詰められた人の行動が悲惨な結末に至るのはどの国も同じようだ。
若年層が被害に合いやすい現状では制限をかけるのも仕方がない。無法地帯に踏み込む準備ができるまでの猶予だ。ただ、これは年齢だけが解決するものではない。いくつになっても条件はあまり変わらない。SNSで繰り広げられるはかない嘘話に精神を吸い取られている人は年齢に関わらず多い。
情報を規制されるのは大いに問題があるが、ときには自らメディアとの距離をとるのもいいのかもしれない。
こらえ時
太陽光発電に新機軸
フィルム型のパネルで太陽光発電ができる新技術が注目されている。日本人が発明したというペロブスカイト太陽電池は、軽量で薄く曲げて使うこともできるという。
ならば、いわゆるソーラーパネルの設置による森林破壊や、パネル廃棄時の無駄なコストについては解消される可能性が高い。フィルムの扱いについても、森林破壊ではなく、現在ある建築物に貼り付ける形で運用できれば心配はなくなる。廃棄にかかるコストも軽減されそうだ。
この発電システムで必要なのは新機軸へ移行するときに起こる制度上の問題点をよく考える必要があることだ。既得権やインフラとの関係、過渡期の作業工程を俯瞰的に予測しておかなければならない。ここ数十年にわたって繰り返してきた失敗を避けるためにも。
クリスマスデコレーション
木星
新蕎麦の味わい
役に立ちたい
少しでも誰かの役に立ちたいという気持ちは多くの人が持っているはずだ。自己の利益に繋がればもっといいが、そうでなくとも構わない。何らかの利益が他人にもたらされば嬉しいという意識は恐らく多くの人が持つではないだろうか。
これを偽善と呼ぶ人もいる。ただ、偽善もときには役に立つということなのだ。私たちは自分のために何かをすることを日々行っている。自分の幸福追求のために行動することに疑問はない。ただ、それが他人の利益と交錯するときにには躊躇いや滞りが生まれる。自分が利益を得ることは嬉しいが、そのために他人が不幸になることを自覚すると素直に喜べなくなる。
そのために自己が他者に及ぼす影響について考えないという思考停止の習慣がついている。人のことを気にしないという方法である。この方法で日々を乗り越えたとしても、いつかは矛盾を感じてしまう。他者の窮状を知ると動けなくなる人は多い。私たちは一人だけ幸せになるということを良しとしない傾向がある。
他者の役に立つことは言うほどたやすいものではない。人のためになると思うものでもかえって害となることも多い。ただ、どこかで誰かの役に立ちたいと考えるのは人類の進化の過程で刷り込まれたものであると考える。
差別の醸成
我が国が国際社会の立場や経済的地位に関して停滞し、衰退の途をたどりつつあることは多くの人たちに実感されている。働いても増えない報酬、着実に進行する物価上昇の流れをどうすることもできない。その中で密かに差別が生まれ、多方面に拡散しつつある。
人種差別のような露骨なものではなく、ほぼ等質の者同士がある基準で優劣を設定する。俯瞰的に見ればほぼ等しいのに、あたかも天と地の隔たりがあるかのような演出がおこなわれる。自分および自分の属する集団こそが正義であり、あとは邪道だと言わんばかりだ。
出身大学や所属する会社名にランクつけて階層化することは昔からあるが今はそれを露骨に言って躊躇いがない。どのような哲学を持ち、いかなる意識を持っているかより、所属する集団によって優劣をつけようとする。潜在的でたちの悪い差別意識が隠れている。
努力してもなかなか報われない社会を生きていると、向上心を持つ価値が危ういものとなる。既得権に縋り、自分の持つ物差し以外で考えることが難しくなるようだ。有名大学の出身であるか否かは一つの基準に過ぎず、今何を目指しているのかの方がはるかに大切なはずなのに。
様々な方面で芽生える差別の意識を危惧しているのは私だけではないはずだ。ネットで他人を冷笑して自己満足している人たちが増えて行くのが不気味であり、衰退する集団の凶兆のように思えてならない。