AIで文章表現の評価はできるか

 生成AIを私はある程度使う。ただ、私の使用領域に関してはAIの能力はいまだ水準以下でそのままでは使えない。例えば古典文学に関する内容は眉唾物というより虚偽と言えるものが多く、使い物にならない。開発に日本人が関与しないとこういうことになる。

 教育界では生徒に人工知能を使わせることについて批判的な人が多い。ただ、教員が勤務時間の短縮のためならば活用すべきだと考える。たくさんの解答に採点だけではなく機械の力も借りなくてはならない。

限られた時間で採点し、返却まで済ませるのはAIの活用が待たれる。いまのところその水準にはないが近いうちに文章の評価や添削までやってくれる機械が生まれそうな気がする。このとき大切なのは適切に指示ができる国語力なのだろう。機械任せにするためにはその機械よりも豊かな言語環境が必要だ。

暑さのせいに

 気温が上がり、汗ばむほどの陽気になった。暑さでいろいろ滞りそうだった。もう少し経てば何でもない温度であっても身体が慣れるまでには時間が必要なようだ。仕事が、うまくできなかった日は気分転換に限る。次はうまくいくと勝手に決めて今日は暑さのせいにする。

立ち回る

 うまく立ち回る人を目の当たりにしたとき、尊敬するときと軽蔑するときがある。すでに立ち回るという日本語には幾分の批判精神が含まれている。だから、私の立場も自ずと知れてしまう。

 いわゆるコンピテンシーについて述べようとすると、どうしても羨望もしくは嫉妬の気持ちが見え隠れしてしまう。気質に比べてコンピテンシーには後天的要素があるとされるが、それでも生まれつきの側面の方が大きく作用するように思えてならない。立ち回る力はなかなか鍛えることが難しい。

 私のように年季がいったものは特にそうだが、要領よくやれと言われてもやれるようにしかできない。何でできないのかとき言われても説明不可能だ。できないからできないというしかない。

 無駄な抵抗をさせていただけるならば、それでも私のやり方はありではないかと言いたいのだ。不器用な人にしか見えない風景を見ることができることは、世の中全体の福祉としては益となるはずだ。負け惜しみ的な言い訳だが。

 ならば、私の立ち回り方は、できない人間が見ている風景を皆さんにお伝えして、できる人の暴走を抑えることにあるのかも知れない。貴方の見ていない世界がある。そんなに世界は単純ではありませんよと、余計なおせっかいを言うことが、私の役目なのかもしれない。

残念ながら

 このブログを書くために使ってきたスマートフォンが最近不調で困っている。投稿したつもりの記事が結局アップロードされず、記事が渋滞してかなりあとになってようやくそれに気づくといったことがしばしば起きている。年季がきているのだろう。最近のアプリに対応しきれていないことも原因だ。

 ただ、最近の私はこの賞味期限切れのものに対する同情心がある。有効期限が過ぎたからと言って、すぐに廃棄してしまう心性にはどうしても馴染めない。道具は使い続けていくうちに愛着が湧く。古い道具でしか表現しきれない芸術的な瞬間を演じるのは、演じている貴方を見渡してみるのか。こういう選択を敢えてしておきたい。

ワーキングメモリー不足

この話は何度も書いてきたが懲りずにまた記す。私たちが何かを考え、行動するときにはさまざまな記憶力が必要になる。複雑なものでなくても要る。例えば、先ほど見た光景を文章に書き表そうとすれば、短期的な記憶とともに成文化するための長期的な記憶、知識というものが活用される。これが衰えると実に厄介だ。

数年前ならなんでもなかったことにやたらと時間がかかる。短期記憶が足りなくなって、行動をリセットすることが増えているのだ。対策としていつでもメモを取るのだが、仕事のことなどはそうしても日時のこととなるとつい記憶の衰えを無視してしまう。その結果、家族に迷惑をかけているのは申し訳ないというしかない。

 これは底知れない自己嫌悪を伴うから精神衛生上よろしくない。別に手抜きしているのではなく、自然に抜けてしまうのだ。

 そこで私は一段階予防線を、引き上げることにした。些細なことでもメモを取る。それを恥ずかしいことと思わないということだ。上衣のポケットには常にダブルリングメモとポールペンを持つ。更に測量野帳やらA6ノートやらいろいろ持ってそれらに転写しまくっている。凡そ非効率的だが、こうしないといまの脳は覚えてくれない。老兵にはそれなりの戦い方があるのだ。

上着を置いて

 気温が上昇したために今日は上着を置いて出かけた。花粉の飛散は辛いがやはり秋立つ気持ちになる。子どもが遊んでいるのを見ると、こういう日が続いてほしいと願うのだ。少しだけ余裕が出来た日々を楽しんでおこう。

文法という柔らかいもの

 学校で習う文法は金科玉条のようなものと思っていた。学生の頃はそれを覚えることが何よりも大切なことと思い、教員となって教える側に立つと最も頼り甲斐のある物差しと考えるようになった。文章読解と文法の問題を比べると後者の方が何百倍も容易い。そう思っていた。

 ただ、学校文法には様々な疑問点があった。可能動詞の「走れる」は走るとられるが連続した「走られる」とどう違うのか、「本を読まれる」と「本を読める」との違いは何か。可能とか使役とか命名された文法を考えると曖昧さが判断を困難なものにする。文法用語を使うほど分からなくなる気がする。

 こういう感覚的な違和感はいくらでもある。これはとりも直さず文法が実態と、あっていないことを表すのではないか。国語を少し真面目に勉強した者であれば誰もが気づくことなのだが金科玉条の前に誰もが尻込みしてしまう。

 文法というものはどうも自然科学が目指す普遍性とは少し異質なものらしい。もっと柔らかく、可塑的なものらしい。そう考えてこそ見えてくるものがある。

短期決戦という戦略

 短期決戦が今の自分の戦略だ。長期的な戦略を立てても実践できる保証はない。ならば短く刻むしかないのだ。

 衰退していく脳の機能を補うのは情報技術が容易に達成してくれる。人間から見れば無限の記憶力である。これを使えば少々の劣化はカバーできる。大切なのはそれを活かすためのひらめきなのだが、これだけは自分の脳の活力に期待するしかない。

 短期決戦でもやるべきことをやり、積み重ねることで大業は成し遂げられるかもしれない。私には私の戦い方がある。それを信じてやるしかない。

見えない違い

 恐らく目に見える違いはごく一部のことなのだろう。表面的な違いに圧倒されることは多いが、その内面はさほど違わなかったりする。他を威圧しようとするものは、その僅かな違いを誇張して見せるのであろう。

 だから、本当の差異を見抜くことは容易ではない。見た目に踊らされることなく、本質を見なければならないのである。