老いを開き直る

 この齢になるとやろうと思ってもうまくできないことがある。一番の問題は視力の減退だ。誰かから脳の活性化や筋力の維持はある程度なら加齢してもできるが、視力だけはどうしようもないと聞いた。スポーツ選手の引退の要因は視力の衰退にあるという。

 確かに視力の低下は大問題だ。単に見えなくなるというだけのことでは済まない。思考や行動の初期判断において出遅れるからすべてに影響を及ぼす。だから思う以上にダメージが大きい。一流選手にとっては引退を促すことになる。

 ただ、三流以下の私にとってはそこまで高いハードルではないのかもしれない。速攻はできないが粘り強く続けて少しでも前進するというのが残された手である。トータルで負けなければいいと開き直ることにしたい。若い世代とは違う意味のチャレンジは続けたい。

公園の意味

 公園と呼ばれる空間は共有地として機能している。有料の場所もあるが、多くは無料でその維持費は自治体の支出、つまりは税金である。この空間の意味は大きい。

 土地が私有制になるとどうしても格差を生み出す。面積もそうだが、その土地の価値がいろいろな側面から決められ、地価となって表現される。土地を所有しているだけで一種のステータスとなり、それが財産として引き継がれる。もちろん相続には税がかかるが、所有が富のもとでとなることは揺るぎない。

 持たざるものも出入を許されるのが公園だ。当然、モラルやルールは守らなくてはならず、勝手に居座ることはできない。ただ、法令を遵守している限りは追放されることはない。このような余裕を残しておくことは都市生活を送る上ではかなり大切だと思う。

 公園の成立には様々な経緯があり、中にはかなり政治的な事情もあるようだ。それでも私有空間に一定の猶予を設けることはとても大切だと思う。

国内生産できるのか

 トランプ政権の理不尽と言える関税の連続は、国内産業を復活させる目的だと推測されている。生産を他国に任せ、安価な労働力を利用しているのがアメリカの現状だ。ブランド力や技術開発力はあるが、それを自分たちで造れるのかといえばかなりの疑問であるという。

 例えばiPhoneは大部分を中国で生産しており、国内生産は少ない。労働対価の問題はあるがそれよりも、技術者が足りないらしい。安価でかつ高度な職人技を要求されればアメリカ人の多くは音を上げることになる。今の価格と品質を維持するためには海外の労働者に頼るほかない。この現実を無視したトランプ大統領の思惑は富国どころか亡国に繋がるというのである。

 この未来展望を冷笑するのは容易ではあるが、実は日本とて変わらない。多くの製品を海外に依存し、職人技に対しては充分な評価をしてはいない。また、そういった部門の多くは中小企業であり、経営的な危機に常に直面している。

 アメリカの政策の恐らく歴史的な失敗は、資本主義経済の行き詰まりと関係している。日本はこの事態にどう対処するのか。国内生産にどれだけシフトできるのか。そもそも国際経済とは何なのかを再考せねばなるまい。

異常高温

 明日にかけて気温がかなり高くなりそうだ。初夏というより夏そのものの陽気になろうかという。明日は屋外の仕事があるのでいまから恐れている。

 暑熱順化はすぐにはできない。ここ数日は身体とよく相談しながらことを為さねばならない。数日前から起きている倦怠感もこれが原因かもしれない。そうと分かれば対策も立てやすい。

 気がついたらツツジがかなり咲きそろっている。周囲を見回し、異常気象に惑わされないようにしなければ。

絵から出た嘘

 最近は人工知能が作った映像を見ることが当たり前になった。イラスト風のものだけではなく、一見実物と間違えるようなフェイクもある。限定的であるが動画もあって、その動きもかなり滑らかだ。厄介なのは実存する人物を加工したもので、うっかりすると本当にこんなことをしたのかと考えてしまう。

 恐らくそう遠くない未来に全編人工知能が生成した長編映画ができるのだろう。役者もスタッフもいない、作成者のプロンプトだけで作られた壮大な嘘がコンピューターの中で作られてしまうのかも知れない。それはきっといままでみたことがない何かになる。

 でもそれでいいのだろうか。嘘から出た誠が人を感動させられればよいが、逆に混乱の渦に巻き込むことになってしまうのではないか。創作とは何か。鑑賞とは何かを考えさせられる。

自分パビリオン

 自分を表現するパビリオンを造るとしたらどうなるだろうか。予算や工期などは考えないことにしたい。つまり、自分を形として示すにはどうすればいいのかということだ。

 こんな変なことを考えることがたまにある。それほど自分というものが分かっておらず、答が見つからないということなのだ。きれいな建物を建てれば美化しすぎていると思うし、散らかった部屋を再現しても、それは私の一面ではあるがそれだけでもない。醜い面は確かに多い。でも、僅かだが誇れることもないではない。

 自分を表す展示物は何だろう。毎日持ち歩いている文房具や眼鏡の類、このブログを書くときに使っているスマートフォン、くたびれた服や靴、それらは私を表せるだろうか。

 これまで読んだ本、観た舞台や映画のタイトル、それを一覧すれば私が分かってもらえるだろうか。何がどれも物足りないし、違っている気さえする。自分を形で表現するのは思ったより難しい。

 それならいっそ私自身がパビリオンに立ってこれが私ですと連呼したらどうだろうか。自己紹介なら私そのもののはずだ。でも、これもどこか胡散臭い。なぜだろう。

効率化は早く帰ることとは違うようだ

Excelの関数を少しずつ覚えたおかげでできることが広がった。かつては手作業でやっていたことの大半は関数の知識だけでもなんとかなる。プログラムを施せばもっとできることが増えるのだろうが、いまのところ人の作ったもののマイナーチェンジが関の山だ。ただ、これらを使って仕事の時間が減ったかといえば答えは否である。

 私の仕事は対面的なものなので、結局人と付き合う時間は確保しなくてはならない。コンピュータ任せにした仕事で浮いた分を、個人とのコミュニケーションに費やすから、仕事時間はあまり変わらない。対人時間を増やした分だけ仕事のやり甲斐は向上した。単純作業に費やす時間は減らした方がいい。

 働き方改革政策の影響で退勤時間は厳しく制限されるようになった。時間内に終わらせる為に自動化はやはり欠かせない。そして、その分直接対象者と話し合う時間を設けるべきだろう。私の職場の話なのだが、これは我が国の復活のためにも不可欠だと考える。

初燕

 今朝、私としては今季初めてツバメの姿を見つけた。数日前に鳴き声は聞いていたので少し前から飛来していたのだろう。寒暖の差が激しいこの頃だがそれでも季節は確実に遷移しているようだ。

万博参加の意味

 万博を何度も主宰し、これまではそこそこの成功をしてきた日本だが、かつては先進国主催の博覧会にゲスト参加する身であった。1867年パリ万博は日本が初めて参加したものとして知られている。江戸幕府だけではなく、薩摩、佐賀の討幕を狙っていた藩が参加したことでもわかるように、日本という国家がかなり危ういものであることを世界に知らしめたものでもあった。

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 ただ、これら複数の日本の組織が出品した内容はかなり衝撃的であったらしい。周知のとおり、浮世絵などの伝統的な絵画手法は、ヨーロッパの芸術家に多大な影響を与え、いわゆるジャポニスムをもたらしている。フランスの人々にとっては経験したことがない造形や詳細の在り方がすべて刺激的だったのだろう。その意味では日本の万博参加は初めから成功していたといってよいのかもしれない。

 今回の関西万博に参加する国や地域、企業は何を目標に出品しているのだろうか。中にはまだ完成していないものもあるという。かつてのパリでの日本のように、ここから自国・自組織の存在感を高める国があるのだろうか。

万博とカラーテレビ

 大阪で関西万博が始まった。大阪での万博といえば1970年の大阪万博が思い出される。私自身はまだ子供であり、親にも経済的な余裕がなかったのだろうか、連れて行ってはもらえなかった。父は仕事で訪れたらしくソ連館の記念メダルを土産として買って帰った(はずだ)。どうもこのあたりのいきさつはよく分からない。

 1970年の時点では多くの家庭がモノクロのテレビを所有していた。カラーは高価であったし、放送そのものも完全にカラー化していなかったので切り替える家庭は少なかったのだろう。ただ、万博の中継を見るためにカラーテレビを買おうという動きはあった。我が家にもそんな話題が出ていたはずだが、おそらくすぐにはできなかったのだろう。ウルトラマンもウルトラセブンもモノクロテレビで見ていたことになる。再放送をカラーテレビで見たため記憶が更新されてしまってその当時の印象は分からない。

 1972年の札幌オリンピックの頃にカラーテレビが我が家にやってきたのではないかと考えらえる。でも、覚えているのはダイヤルを回して色調整をしてみるというもので、今から考えるとかなりぼやけた感じのものだった。しかし、それでもリアルさが増して驚いたことをわずかに覚えている。高度経済成長期に入って、モノの価格があがり、人々の生活が派手になり、公害などの社会問題が取りざたされた。それらをカラーテレビで見ていたことになるが、子どもの自分にはよく分からないことばかりだった。

 今回の万博でもさまざまな新技術が紹介されているらしい。また、これを機に民間に普及するものもあるのかもしれない。かつてのような勢いのない日本にSociety5.0は来るのか。行事の成否はもちろん、今後の生活について考えさせられている。