投稿者: Mitsuhiro

熱中できる余裕を

 何かに熱中して時を忘れてしまうという経験は誰にもあるだろう。今はそれを時間の無駄使いと考えてしまうが、実は大切なことだとも思う。何かに打ち込めるというのはそれだけでも幸せなことなのだ。

 恐らく熱中できる余裕を今はなくしている。1日本を読んで何もしなかったとか、限りなく歩き回って何の用事も足さなかったといったことがなくなっている。少なくとも何らかの意味づけをして自己満足をする。それができなければ自責の念に苛まれる。

 よく考えてみれば余裕のない不幸な日々なのだ。すぐに答えを出さなくてはならない最近の風潮に背くことも必要なのかもしれない。そこから始まる何かもある。

心配なアメリカ大統領選挙

 高齢のバイデン大統領の健康状況が不安視される中で、共和党の代表候補のトランプ氏が演説中に狙撃されるという事件が起きた。資本主義社会の頂点にあるアメリカ合衆国のこのような状況は不安としか言いようがない。新しいリーダーが求められている。

 バイデン大統領は伝統的なアメリカの外交を行えるリーダーだったが、さすがに高齢の弊害は否めない。国際社会において存在感を示すべき人物が心身の健康状態を懸念されるようでは不安でならない。討論において精彩を欠いたり、人の名前を言い間違えたりすることが頻繁に起きているようだが、81歳という年齢を考えれば無理もない。本当であれば大統領を支える人として活躍するべきであり、自らが指揮をとるべき年齢ではないと考える。

 元大統領のトランプ氏が今回狙撃の被害者になったことで、民主党の大統領選への戦略は変更せざるを得なくなった。これまでは前政権末期に起きた連邦議会襲撃事件の扇動者として非難する側にあったが、トランプ氏自身が暴力の被害者となったことで、風向きが変わってしまう可能性がある。ただ言えるのは、トランプ氏の政策ではこうした暴力が誘発されやすいということだ。今回は自身にそれが及んだが、この指導者のもとでは常に被害者が出る可能性がある。

 どちらの候補にも問題があり、どちらが次の大統領になっても不安が大きい。こうした状況をアメリカ国民はどう感じているのだろう。別の候補者がなぜ現れないのか、なぜ支持されないのかが不思議でならない。民主主義は行き詰っているのだろうか。

注文出版

 書籍の流通において新しい方法が広まりつつある。PODと呼ばれるもので、注文を受けて印刷し製本して販売するというものだ。プリント・オン・デマンドの略で、不良在庫を出さないため結果としてコスト安になるのだという。

 絶版になった本はなかなか手に入らない。それらをもちろん電子書籍化して再販する方法もあるが、やはり紙面で読みたいというものも多い。特に古典的な作品は電子書籍としてよりも紙面として読みたい。自由に書き込んだり、メモを付けたりしたいものである。こういう場合にPODは役に立つ。

 昔からお世話になっている平凡社の「東洋文庫」でもこのPODサービスが始まるそうだ。古書店では何倍もの値がついていたり、そもそも入手困難な作品も多いので注文すれば手に入るというこのサービスは有益である。ただし、本の仕上がりはおそらくソフトカバーになりオリジナルとはかなり異なるものだろう。こういうこだわりがある人は古書店巡りを続けなくてはならない。

 いろいろな形で書籍が展開されていくことは大切だ。書籍流通の場面で販売会社が大きな役割を占めている日本の出版界にとっては大きな革命にもなるだろうが、良書にアクセスできる手段となるならば大いに注目をしていきたいと思う。

チョコレート、パイナップル

 子どものころじゃん拳の勝ち方で進める歩数がかわるグリコという遊びをよくやった。先日、公園で同じ遊びをしている子どもを見た。伝承されているらしい。

 この遊びでのじゃん拳勝利時の獲得歩数は、

グー グリコ 3歩

チョキ チョコレート 6歩

パー パイナップル 6歩

 であろうかと思う。ただしこの数え方は日本語としては不自然だ。短歌や俳句を作れば分かるが、文字数と音の数とは一致しない。いわゆるモーラという考え方をする。チョのような拗音は1つと考えるが、ナッのような促音は2つになる。レーのような長音は2であり、撥音も1つとして数える。だからチョコレートは5となり、パイナップルは6である。このルールにすれば勝敗が変わるのかもしれない。

 チヨコレエトの水増しがもたらしてきた悲喜劇を云々しても意味がない。ただ子どもの遊びが日本語の特徴を知るきっかけになることは注目していい。

 

駄文を綴るしか

 自分の考えていることを言葉にして吐き出すことは意外にも難しい。私はこのブログで雑念を結構書いているつもりなのだが、実はそれはほんの一部に過ぎない。言い切れないことがたくさんあり、無理に言葉にしてもなにか違う気がする。

 手元にはいつも手帳があるが、すぐに書き込めるようにと用意してもなかなか書くことがない。書こうと思った次の瞬間には興味が別に移って何を書こうとしていたのか思い出せない。デジタルでもアナログでも同じだ。大事なのは例えば自分が経験したことの意味を知っていることだろう。それがなければすぐに消える短期記憶にしかならない。

 自分の考えていることを一覧化することは積年の夢である。自分の思考の後を残せたらいいと思うのだが、そうもいかない。ひたすら無駄だと思いながらも駄文を 綴っていくしかあるまい。

曇天模様

 久しぶりに朝から重い曇天だ。雨も落ちてきた。そういえば梅雨の只中だった。すっかり忘れてしまった。こういう年は大雨になりやすいと聞く。何事もなきことを祈る。

オンリーワンの美学

 ナンバーワンにならなくてもいい。オンリーワンを目指せという言葉は流行した歌詞にもあって人口に膾炙している。しかし、これは言うに易し、行うには覚悟がいる。負け惜しみと区別がつきにくいのだ。

 ただやはりオンリーワンの美学は大切だと思う。人を何かの物差しで測るとたちまち序列が生じる。身長順、年収順、家柄の序列、その他何でもいい。たちまちに序列が発生する。ただ物差しが変わればこの順番は一変する。例えばもっとも私の性質を備えたものという基準では紛れもなく1位は私である。

 物差し次第で世界はいくらでも変わるということを私たちはもっと意識していいのではないか。私は他にはいない。極めて不格好で要領がよくないがこれらの条件をすべて満たしているのは私しかいない。不細工と不器用の絶妙なバランスだ。歴史を学ぶとあらゆる美意識も価値観も無常である。たまたま誰かの基準で低い値になったとしても、過去もしくは未来においてその数値がそのままであると誰が保証できようか。

 最近の私は全く時流にはあっていない。それで衰微していくのが既定路線なのかもしれない。でも少し上空に登って見下ろそう。お前の振る舞いは単に時代遅れなのか。それとも真の評価がなされていないのかと。

 老いの繰り言と失笑されそうだが、やるべきことをやり続ければ必ず世の中のためになる。その役を演ずることをまだ諦めたくはないのである。

新札まだ見ません

 新札が発行されて何日か経ったがいまだに実物を見ていない。職場でも見たのは一人だけだ。今後、こんな話は忘れ去られてしまうのだろうが、新札への切り替えは暫く時間がかかる。

 ましていまはキャッシュレスの時代だ。スマホのバーコードを見せるだけで大抵の買い物ができてしまう。そういえば福沢先生を買い物で使った最後の時はいつだったのか思い出せない。

 紙幣の歴史については教養課程の経済学の時間で学んだ知識がアップデートされていない。要するに石でも葉っぱでも何でもいい。流通しさえすればそれが通貨なのだ。紙幣は現状では究極の物理的通貨であるのに過ぎない。

 とはいえ、なぜ渋沢栄一なのか、津田梅子や北里柴三郎はいかなる人なのか。天皇ではなぜいけないのかなどと考えることでこの国の文化と歴史を考えることはできる。

 通貨に政府と国民が何を見いだそうとするのか。紙幣はそのシンボルとしてはとても興味深い。

夜は防寒を

 異常な高温が続き体調が悪化している。少し前なら耐熱ジョギングをしていたがいまはさすがにその勇気はない。冷房の調節を誤るとたちまち風邪現象に陥る。残念ながら今その気配が濃厚だ。

 冷房を過信せずに身を守るにはやはり防寒しかあるまい。猛暑酷暑だが寝るときは防寒保温の備えを怠ってはならない。これは意識的に断行せねばならぬ鉄則である。暑くても最低限の服を着、布団を掛ける。その覚悟が欠かせない。実におかしな話である。

 体感は相対的であり、周囲の動向に左右される。しかし、己の体調に合わせて振る舞い、悔いなきものにすること。それがいまの私に課されているものである。酷暑の毎日だが夜の冷房は強すぎる。ならば自主防衛する他にあるまい。夜になって別の季節の生き物になる覚悟をせねばなるまい。

 自動温度調節の機器はいくらでもあるがそれを使えるのか、使えこなせるのかという点においては思うままにはならない。せめてこの猛暑を乗り切る知恵をなんとかできたら、と考えるのである。

窮すれば通ず

 中国の四書五経の一つ「易経」に「窮すれば転ず、転ずれば通ず」と読める一説があるという。困難な状況に陥ると、かえってそこに打開策が見つかり、新局面が現れる可能性があるということらしい。楽天的な考え方だが、今の私にとっては頼もしい金言だ。

 いろいろな意味でこれまでの経験が生かせず、新しい事態に対処できなくなっている。しかし、こういう難局こそが自分の生き方を変え、新しい方向性を拓く可能性を生み出すといえるのであろう。成功体験を積み重ねているうちは、次の選択肢が見当たらない。目に入らないといった方がいい。それが手詰まりが起きるとやらなくてはならないことが出来し、それが現状打破につながるのだろう。

 窮する前の段階として「貧すれば鈍する」というのがある。生活苦は人間の正確な判断を失わせ、時に誤った行動に走らせる。そこで自他に大きな損害をもたらしてしまうことがある。そうならないことに気を付け、窮する段階までもっていかなくては通ず状態にはならないのだろう。中国の古典は現代社会を生きる上での生活の知恵になり得るものがある。