オリンピックが開催されるフランスのパリの気温をネットで調べると、最高気温が30℃より少し低いくらいで、最低気温は10℃台の後半の日が多い。東京よりは随分ましだ。
オリンピックは何事も起きなければいい。早くもサッカーの試合で観客の乱入があったようだ。人が傷つくことがないように、友好の輪が広がるように祈りたい。
戦闘地域は会期中の戦闘を一切やめてほしい。商業化したオリンピックだがこの基本精神だけはなんとか生き残ってほしい。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
江戸時代の随筆を読んでいると人間というものはいつの時代でも愚かで何をするか分からないものだと思う。そしてそういう人たちのことをいちいち記録していくことに価値を見出すというのも面白い。いわゆる「奇人伝」の類は類書が多く、どれもがくだらなくそして面白い。
人間の生きざまに関心が持てるというのは文化的には大切だと考える。他者に関心がなくなると想像力も創造力も失われる気がする。自分とは違う価値観を持っている人を見逃さないというものの見方が大切なのである。もちろんその多くは噂話で信憑性が低く、中には明らかな嘘も含まれている。文学とは言えないが、その嘘には文学に生まれ変わりそうな気配が感じられるものも多数見つけることができる。
こういうものを読むときは何らかの目的は持たない。それで何かが得られるということは期待していない。結果的に日本の文化のあり方を知ることができるのかもしれないが、それはあくまで結果的にそうなるということに過ぎない。でも、そういう読み方も必要な気がする。何のためでもないが、興味が惹かれることを少しずつ読んでは味わっていく。それが読書の楽しみであり、ある意味理想である。そんなものを読んで何になるのという問いを堂々とやり過ごしたい。
バイデン大統領が次の大統領選挙から撤退する旨の発表があった。有能な大統領とはいえ、高齢には勝てない。最近のふるまいからしてアメリカ大統領の職は重過ぎると感じていたため、勇退は大いに歓迎である。日本国民としては大いに賛辞を贈りたい。
トランプ大統領候補はおそらく人間的には魅力的な人なのだろう。しかし、彼のような考えの人がアメリカのトップに就くのは不安しかない。自国優先で国際的感覚に欠如しており、ポピュリズムの操作には長けているが人を幸せにはできない。それは先の任期で証明されたはずなのにアメリカの国民は不都合なところには目をつぶってしまう。
カマラ・ハリス副大統領は、父はジャマイカ系、母はインド系である。両親は離婚しているというアメリカ人には多いケースである。私としては性別やルーツは考慮のほかである。アメリカ人の考え方もかなり重層的らしく、白人男性至上主義はいまだに残っているようだ。そうするとハリス氏はかなりの逆境となる。
トランプ氏が銃撃を受けた後の演説の報道を見ると、かつて独善的、煽情的な論調が戻ってきてしまったと思われる。共和党はもっといい党のはずなのにすっかりトランプ党になってしまっているのが残念だ。選挙に勝つことを優先してしまうアメリカ的民主主義の限界を見事に体現している。アメリカでも割の合わない仕事をしている労働者階級を、民主党が吸収できるのか、共和党が懐柔するのかで選挙の情勢は大きく変わる。民主主義の哀れさが露呈するのがアメリカの政治の在り方なのだろう。
日本人の私にとっては誰が大統領になっても付き合っていくしかない。そして非力ながら、かれらのすきをついて異議を唱えて何とか立ち回るしかない。トランプさんよりハリスさんの方が気持ちを分かってくれるかもしれないという期待が少し大きいだけだ。私の言うことではないが、アメリカ国民には誇り持ってリーダーを選んでほしいと思う。
水難事故になりかけたことがある。小学生の頃だった。海水浴に来た私は調子に乗って弟の浮き輪を少し沖に進ませていた。足がつくうちはよかった。どうもその海は引き潮があるらしく、少しずつ沖に流されていた。それに気づかなかったのである。
浜で父が慌てているのが見えた。かなり波が強くなっていたらしい。足が浮いて動揺してきた。少しずつ増してきた恐怖はその時跳ね上がった。弟は浮き輪に揺られていたので気づかなかった。溺れるかもしれないと思ったとき、恐怖が形になってきたのだろう。
幸いそれに気づいた近くの大人が私たちを陸まで導いてくれたので、海神の供物にならずに済んだ。おそらく小学生には耐えられなくても大人なら何とかなる程度の波だったのだろう。海水浴での海難事故の多くはこのような境界的な状況で起きると推測する。
この時の記憶は数年おきに脳裏に浮かび上がる。よほど根源的な恐怖体験であり、長期記憶に刷り込まれて今に至るのであろう。浜辺での遊泳はうかつにはできないことを身に染みた。結果的には有益な体験であったともいえる。
このような人生観を変える体験はおそらくこれまで何度となく繰り返しているはずだ。ただ、その大抵は時間とともに忘却の波にのまれていく。恐怖を乗り越えたのではない。未解決のままなのだ。なんとかしなければ、と思う気持ちが記憶の隅に堆積されていく。それが強みにも弱みにもなっていく。水難未遂のこの経験はそのうちの一つであり、これからも引きずっていくものなのだろう。
先日、救急車が駅前の交差点に差し掛かったとき、ドライバーは停車し、道を開けるのに協力していた。こういう機会には何度も遭遇しているが、協力の精神が形に表れるのは気持ちがいい。
ところが件の救急車は交差点内で立ち往生してしまった。歩行者が止まらないのだ。中には駆け足でその前を通り過ぎようとする人もいる。どういう訳か歩行者の方が非協力的なのだ。
自分が交差点に取り残されることの方を心配してしまうのか。余裕がないのか。歩行者優先の精神が緊急時にも働いてしまうのか。交通ルール、マナーの欠如なのか。原因は分からない。
人の判断力は状況によっていくらでも変動する。問題はいますべきことを常に考えることなのだろう。
関東地方は梅雨明けだそうだ。はっきりしない梅雨だった。夏と冬に侵食されてその他の季節が希薄になっていく現象に梅雨も巻き込まれているらしい。
これからかなり高温の毎日が続くが、雨も恐らく降るだろう。ゲリラ雷雨のような短期集中型の大雨だ。スコールのような雨という形容があるがもはや日本はスコールの降る国になったのだ。それに見合うインフラを造らなくては立ち行かなくなっている。
古典文学の世界では春秋こそが詩情溢れる季節であり、夏冬はその間の季節に過ぎない。その不粋な季節が今やこの国を覆い尽くそうとしている。ならば文化というものも少しずつ変わらざるを得ない。未来の日本が果たしてどのような情緒を重んじているのか。気になってきた。私はもうこの世にはいない世界だが。