投稿者: Mitsuhiro

猛暑観測点史上最多

 猛暑日となった観測点が史上最多になったという。体感的にも暑さの質が異なる気がする。このような天気はいつまで続くのか心配になる。一部地域では渇水の恐れも出ているとのことであり、再び米価の高騰につながらないか不安になる。

 遠くから台風が近づいているようで、これがまた高温傾向に拍車をかけているのかもしれない。この後の予報を見てもまだしばらく続くようだから、全く気が抜けない。

サマータイムやりませんか

 週間天気予報を見ていて衝撃を受けた。これからしばらく猛暑が続き、最高気温が36℃という日が並んでいるのである。最低気温も25℃前後で熱帯夜が続くことになる。あまりにも暑い毎日をどのようにやり過ごせばいいのだろう。

 ここまで熱くなってしまえば、さまざまな方面に弊害がもたらされる。思うに日本もサマータイムをやった方がいい。朝1時間早まれば暑さは少しだけ凌げる。退勤も明るいうちならば、無理な酔客も減ることになるはずだ。

 生活感と最近の気候との不一致、違和感は今後ますます大きくなるのかもしれない。歳時記の項目も少しずつ動かす必要がある気がする。

 

理系信仰そろそろ

 文系より理系の出身の人材の方が合理的で優れている。そういう論調はそろそろその欺瞞に気づいた方がいい。

理系の方が社会的ニーズに叶うという幻想は、いま心地よい噂として広まっている。ならば理工科目に全フリして良いかといえば、恐らくそれは大きな間違いだろう。今の日本の文理分けはあくまで受験のためであって、個々人の資質なりコンピテンシーによるものではない。文系の方が合格しやすいからということで文系学部に進んだ人も多くいるはずで、それは打算的な判断によるものだ。このことを非難するつもりは毛頭ない。逆に将来つぶしがきくとの大人の助言で理系に進んだ人も多いらしい。

理系的な論理的思考力は必要とされる場合が多いが、それはやるべき方法が決まっている場合である。頼るべき方法がない場合には価値の創造から始めなくてはならない。そのとき哲学や歴史、文学を参考にしなくてはならない。どちらも必要であり、択一という話にはならない。

理系的な知識だけで何とかなるという考えは既に過去のものになっていなければならないが、若者に過去の価値観を押し付けてしまう現実は厳然としてある。

自分以外になる方法

 自分以外になってみたいという欲望は時々起きていた。もしあの時、別の選択をしていたら違う人生を歩んでいたはずで、別の今があるはずだ。流行りの言葉で言うのなら、そういう世界線が存在すると勝手に考えることがあった。

 最近はその幻想が起きない。自分以外になるということは自分ではもはやなくなるということで、それはいまの自分を消すことに相違ない。それでは別の自分に変身するのではなく、まったく別の自分に入れ替わることになる。

随分人生に醒めてしまったのかもしれない。なるようにしかなれないし、それ以上を望むならそれなりの覚悟がいる。私の場合はその覚悟がまだ少し残っているが、果たしてどこまでいけるのだろう。

自分以外にはなれないが今とは違う自分になりたいという大きな矛盾を抱えてこの後の月日を送ることにする。

二つの夏

 夕刻蝉の鳴く声を聞いた。ここ数日は猛暑日寸前の高温傾向で、最低気温もかなり高い。かつては蝉の鳴く声に夏の訪れを感じたものだ。

 ここ最近は蝉の鳴かない夏と鳴く夏の二つがある気がする。6月の暑さは夏と変わらなかったが、蝉の羽化の季節よりはるかに前であるため、静かに暑い日が続いた。それが7月になってようやく抜け殻を捨てた蝉が鳴き出して泣き出したのである。ここから蝉のいる夏になった。

 夏の長期化は自然界にさまざまな問題をもたらしている。中には深刻な生存問題も起きているようだ。熊や猿が人里に降りて来て、人を襲うようになっているのも、気候変動との関連があるのだろう。

 自分が子どもの頃に過ごした夏とは違う夏を今は生きている。いまの若者は昔の夏の風情を理解できるのだろうか。想像力の問題というレベルではない、ダイナミックな季節の変化が起きていることに対応していかねばならない。

発信源は特定可能

最近、誹謗中傷をネットに書き込んだことで起訴されるケースが増えている。匿名にしても発信者の特定はかなり正確に行えるようだ。そして立件されればかなりの経済的、社会的ダメージを受けることが分かってきた。落書きと違うのはそれが永遠に保存され、何度も責任追及される可能性があるということだ。

 デジタル社会は個人の行動を個別に保存し、必要なときに取り出せる能力を持つ。誰がいつ何を書き込んだのかについては記録されているというのが現状だ。

そうした窮屈さ息苦しさを我々の子孫は耐えていかなくてはならない。隣のあの人が何をしたのかをデータベースから検索するちょうどその時、私自身が何者なのかを検索の網が追いかけていることを考慮しなくてはならない。

個人的な思いを記すのは自由だが、それが他人にどのように受け止められるのかは分からない。どう解釈されても説明可能でなければならない。それが難しいならば公開は控えるべきなのだ。

新興政党のせいではなく

 参政党の躍進について色々な意見がある。先日、駅前で演説するのを聞いたが誠に真っ当で何の問題もなさそうだった。演説する若者も誠意が感じられた。ただ気になったのは彼が党是をどのように考えているのかだ。

 演説の内容は選挙に行くことによって日本を変えようという選挙管理委員会が言うような内容が大半だった。政治に参加しましょう。あなたが変えるのです。という訴えは的を射たものでこれまで投票所に行かず、不満だけ述べてきた層に一定の訴求力があった。

 ただ創憲案の内容や、外国人の今後の扱いについての話は一切なく、党の主張というものがこの若者に伝わっているのか、あるいは核心は語らないように指示されているのか分からなかった。こんな疑問を持ったのは党首の発信するメッセージと駅前の若者の言いたいことの距離がかなり離れているからだ。この党の性質かもしれない。イデオロギーとか党是よりも、各自が言いたいことをいう政党なのだ。

 ここから私は二つの可能性を感じる。勢いで議員になった方々がこのまま自分の視点で政治活動をすれば党としてのまとまりを欠き、離党が相次いでしまうのではないかと言うことだ。これは多くの識者が似たような予測を立てている。

 もう一つは時々の国民のふんわりとした不満を掴み続け、それを吸収する新しいタイプの政党として生き残ると言うことである。今は右派の立場で得票数を伸ばしたがリベラルにも左派にも、時流によって変わり得るカメレオンになると言うことである。政治をビジネスと考える人たちにとってはこれで十分に満足できる組織だ。

 私の予測は間違っていることを信じたい。中にはナチスの政策との類似性を指摘する人もいる。ナチスは選挙で選ばれた政党であったことを考えれば、今回の選挙結果は新興政党の躍進という問題ではなく、国民が政治を疎かにしてきたことに猛省を促すきっかけとして考えるべきなのだろう。

 

歳を重ねると

 歳を重ねるとそれなりに得られるものとに失うものとの循環を感じられるようになる。得られるものが多ければよいが、しばしば失敗を重ねることになる。経験だけではやれることに限界がある。

 だから、若者のように貪欲に何かに挑戦することは大切だ。そこから開ける世界がある。いくつになってもその次を目指すことは欠かせない。

 でも、身体がついていかないということがある。ここで言う身体には脳の働きも、含まれる。どうも脳の働きが以前のようには機敏ではない。残念ながら身体的にな衰えは多面的な影響を及ぼす。

 それでも立ち止まったり、うろたえたりしてはならない。今の自分にはそれなりのやり方がある。それを粛々とこなしていくしかないのだ。続けていくうちにできるようになることは日常の様々な出来事の中に見いだせる。前のように走れなくても、毎日歩き続ければそれなりの成果は得られるものだ。

参院選その後

 参院選は予想通り与党の敗北に終わった。自民党が両院において少数与党になるのは初めてらしく、新たな歴史の幕開きとなりそうだ。

 新しい考え方が実現するのは大いに歓迎だが、野党側の党利主義がどこまで実行されるのかが懸念される。必要なのは国民の福祉であり、党の利益ではない。少数党の乱立は利点も欠点もある。欠点が強調されると政治的な衰退を齎す。戦国時代なら亡国の予兆だ。

 現在の日本は今すぐその事態には至らない。ただ、油断すれば何も決まらず何もできない国になり得ない。政党の構成は変わってもしたたかに生き抜く日本風だけは維持してほしいと祈るのである。

経験の共有

 経験の共有は難しい。同世代でも無理があるが異世代ならば余計に困難である。

今年は終戦から80年ということでこの後、様々な切り口で戦争体験の継承というテーマが語られるはずだ。私たちには辛いことは忘れるという本能があるようだ。それは生存のために獲得されたものなのだろう。

戦争の経験ほど強烈なものはないだろう。それでも直接体験したものでなければその恐怖は伝わらない。伝えられる側に相当の受容力なり想像力が要求される。その受け取る力は徐々にその能力を逓減しつつある。

過去の歴史で戦争が繰り返されてきたのはこのような経験衰退のメカニズムによるのかもしれない。ならば手を打たねばならないと思うのである。