投稿者: Mitsuhiro

夏日でも

 今日の東京の予想最高気温は25℃だそうだ。夏日と分類される一日になりそうだが、これまでの暑さになれた身体にとってはかなり涼しく感じる。ただ、熱帯低気圧が湿度を絶えず供給しているとのことで爽快さとは程遠い。

 気がつけば9月も中旬になっている。おそらく来週には肌寒さを覚える時間帯もくるのだろう。ここ数年は夏が長く秋が短いという感覚がある。気候変動なのか何なのか分からないが、何かが起きていることは確かなのだ。

マルチタスク

 コンピュータのOSのMS−DOSを始めたころ、マルチタスクという言葉があるのを知った。複数の作業を同時にこなす便利な機能を理解するまでには結構時間がかかった。機能の使いにくさというよりはその概念に私がついていけなかった。

 Windowsの時代になり、さらにコンピュータの性能が向上するとこれは当たり前になった。何かをやっている裏で別のことをするというのが当然の毎日になった。パソコンの中だけではなく、私たちの日常は常にマルチタスクで動いている。しかし、それを意識するとなぜかうまく身体が使えなくなる。

 紙面やアプリにやるべきことを書き出して頭を整理することはあるが、それをすることによってマルチタスクができる訳ではない。むしろ、それぞれの業務が断片化され、繋がりが消えてしまう。私の頭は意識的なマルチタスクにはいまだについてゆけてない。

 ならば、そつなくすべてをこなすという考え方を止めた方がいいのではないか。最近はそう考えるようになっている。集中して何かをやる方が結果的にうまくいくと。

警報はご遠慮なく

 台風10号に関する警報が行き過ぎだったのではないかという話があるようだ。確かに80メートルの風は吹かなかった。

 しかし、現在の予報技術には限界があり、規模も進路も来てみないと分からない。最悪の事態を予測して警告するのは責任者の当然の行動だ。

 問題なのは警報慣れしてしまうことだ。我が国はさまざまな天災を受けるリスクを抱えているが、人々はかなり冷静に生活している。それは素晴らしいことだ。ただ、常にいろいろな可能性を考えておくことは、自らの宿命に勝つために不可欠だ。

自分が

 自分などいなくても世界は変わらない。そう考えて人生をはかなむ経験は誰にでもあるだろう。私もかなり頻繁にそういう思いになる。いわゆる魔が差すときは絶望感という色合いを帯びた感情が目の前を覆うことがある。そんなときはこういう風に思うことにしている。

 たしかに自分がいなくても世界は全く変わらないかもしれない。でもはたしてそうだろうか。自分という存在は世界に何も影響を及ぼしていないのだろうか。おそらくそれも違うのだろう。自分の価値観に沿うか沿わぬかは別としてきっと幾分かの影響を及ぼしているに相違ない。それがたとえ微々たるものであったとしても。たとえはっきりとは分からなくても、そのために世界は動き、場合によっては他人も動かす。

 自分の存在意義を考えるときにはそういう風に考えることにしている。私などいなくても構わないのではなく、私がいるために世界に何らかの影響が出ているに違いないと考えるのだ。私の場合の自我意識の調整はこうしてかなり恣意的に行っている。

価値を与える

 いま必要なのは価値の付与を行うことなのだろう。何もない、意味がないと思われているものに価値を与えることによって新たなチャンスが生み出される。それが昔から行われてきた革新というものの本質なのだろう。

 日常生活に埋没しているとどんどん見えなくなっていくが、実は毎日は非常に新鮮でそこにはなにがしかの価値がある。その価値を見出し、ラベルをつけて普遍化すれば人々が幸せになれる何かが見出されるのかもしれない。価値を見つけ、価値を与えることこそ現在社会においてとても大切なことなのであろう。

 そのためには日ごろから毎日をよく観察していかなくてはならないだろう。そして、日々の行動を悲観的にとらえるのではなく、むしろ宝の山のような魅力的なものとして観る態度が必要になってくる。それがもっとも大切なことであり、そこからいろいろなことにつながりが出てくるのだ。価値を与えることの重要性を改めて考えるのである。

台風の余波

 台風10号は九州の西の海上を北に進み、今日にも朝鮮半島に上陸する。台風は上陸するかいなかではなく、暴風域に入ることで危険性が増す。九州でも多数の怪我人が出ている。また広域で停電が発生しているらしい。

 東京は台風から離れているがこの規模になると遠隔地にも影響が及ぶ。今朝も急に激しい雨が降ってきた。この傾向はしばらく続きそうだ。気温も上がるので不快指数も上がることになるだろう。

 日本は数々の天災がある国土だが、台風や豪雨による被害は統計的にはもっとも大きなものに違いない。それなりの備えと覚悟はあるが、なれてしまってはいけない。この事実が国民性の形成の大きな要因であると改めて考えている。

考えさせる、失敗させる

 主体的な行動をとる訓練をさせるのが教員としての私の課題だとこのごろ痛感している。日本の教育は受動的な人間を育成するには長けているが、自ら発信する生徒を生み出していないとはよく言われることだ。一律に同じことをすることをよしとする教育方法では自分で考える力はつきにくい。

 ならば何でも生徒任せにすればよいのか。それも違うだろう。生徒同士で語らせてそこから成長させる効果はもちろんある。なにかいい発見があるかもしれないし、まったく何もないかもしれない。場合によっては低きに流れることもある。ただそれを傍観しているだけでは教員としての存在価値は小さなものになる。ただ座らせて、監督する。それならば教員でなくてもできる。私たちがやるべきことは生徒の思考を発動させることであり、それを促進する触媒となることだ。それにはいわゆるコーチング的な要素も必要になるだろうし、メンター的な役割もいるかもしれない。場面によって様々な役を演じ分ける役者にならなくてはならないと感じている。

 かつては尊師と仰がれればあとは弟子が勝手に自己研鑽してくれるような風土があった。しかし、現代のように多様化し、高度に情報化された時代では無条件に尊敬されるような存在にはなれない(少なくとも私は)。ならば、学習意欲を刺激するような様々な方策を繰り出していくしかない。

 生徒に主体意識を持たせるには自分で考えさせ、失敗してもいい風土を作り、できたことはどんなことでも評価することを続けていくのがいい。褒めるというだけではなく、場合によっては助言も必要だ。どちらにしても既定の枠内のなかに押し込めるのではなく、伸びていく方向に従って指導法を変えていくしかない。

 私がいつも思うのは自分が引退したあとのこの国、この地域、世界を託せる人物を作るという考えである。自分より劣った人物を育成しているのではない、自分をはるかに超えていく人材をたまたまこの時期に教えているのだと考えることにしている。そうした敬意が今の教育には欠けているように感じるからだ。

最強台風

 台風9号は日本には大きな被害はなかったが韓国には甚大な被害をもたらしている。だがこれで終わりではないようだ。

 続く10号は九州に接近しており、上陸の可能性もあるという。そして問題なのは最大瞬間風速が80メートルに達するかもしれないという予報である。仮にこれが本当だとするとコンクリート製の建物でも安心できない状態になるらしい。

 このところの東京の天候は温帯の都市とは思えない。

夜のランニング

 ちょっとした用があって公園の中を通り抜けた。すると設置されたランニングコースに何名かの人たちがジョギングをしている。もうすぐ9時になろうかという時間にかなりのランナーが汗をかいている。

 外出自粛の要請はなくなったといえ、感染対策の風潮は蔓延しており、運動不足になりやすい。リモートワークをしている人は通勤という運動の機会さえもない。私たちは経済的生産者である前に生き物であり、体調を維持する上では何らかの行動が必要だ。それがランニングである人もいる。

 走っている人の大半は社会人と思われる男性だった。この公園は最近整備されたので走路も照明も揃っている。こういうところがもっと必要になるのかもしれない。

トップ人事

 次の首相が誰になるのか。大きな問題だが、我が国の場合は意外にもあっさりと決まりそうだ。

 自民党はいくつかの派閥の連合で構成されており、党内に党があるといってよい。それは強みでもあり、弱みでもある、一つがくじけてもすぐに他から人材を出せる反面、それを見込むあまりに新しい政策を展開することは難しい。強いリーダーシップよりは多くに納得される平均的な能力を持った人物が選ばれやすいのだ。

 誰が次の首相になってもそれほど大きな政策転換はない。ならば癖のない、人のよい人を首相しておこう。そんな選び方が我が国のリーダーを決めている。今回は党員参加の選挙もしないようだ。ごく少数の人たちで決まることになる。

 政治的空白ができないのは強みだ。だが、これでいいのだろうか。次の人材がいない現状を私は単純に危惧している。