投稿者: Mitsuhiro

トルコ大地震

 トルコ、シリア両国の地震による死者が5千人を超えるとの報道がある。人道的支援を急ぐべきであり、また現地の情報を来るべき日本の災害でも生かせるようにすべきだろう。

 トルコは断層が多く、地震が発生しやすい条件がそろっているという。その点は日本に似ている。また、日本の様に免震構造を取る建築物が少なく、被災すると大きな被害が出やすいという。この辺りは日本の技術を伝える必要がある。表現は気を付けるべきだが商機にもなるだろう。

 トルコの対日感情は極めて良いという。それは1890年のエルトゥールル号事件が影響していると言われている。紀伊大島の樫野埼で座礁した同船の乗組員を大島村の村民が総出で救出活動にあたり、69名が救出された。死者行方不明者が587名の大惨事であった。生存者は日本の軍艦でイスタンブールまで送り届けられたという。日本の救出活動の様子はトルコに伝えられ、その印象が日本や日本人への好感度につながっているという。

 地震国としても共通する国は今後も大切にしたい。災害時は互いの知恵を出し合い、困難を乗り越えるべきであろう。

運動神経を補うには

 若い同僚と作業をしているとどうしても差がついてしまう。脳の働きにも運動神経は影響し、それが形になって現れるのだろう。ほんの少しの違いでも作業の量が増えれば、厳然たる差となる。これを補うにはどうすればいいだろう。

 まず、大前提として作業の速度は勝負ではない。数分の差に拘る仕事なら参加しない方が皆のためだ。大抵の仕事はそこまで時間には拘らない。大切なのは正確性だ。不適当なものをいかに減らすのかに集中すべきだろう。

 遅い分を何で補うかといえば、経験によるメタ認知を重視することだろう。場面ごとに過去の事例を思い浮かべながら、経験群から外れるものに注意していくという方法だ。

 逆に表現方法は違っても本質をついているものを見逃さないことも、単純作業能力優先組に勝つ方法だ。せっかくの逸材を逃さないのは経験者の役目だ。

 加齢とともに同僚から配慮されることが増えた。親切には心から感謝する。一方でどうしたら彼らに先んじることができるのかを常に考えている。往生際は悪いのだ。

合従連衡

 日本には高い技術力や多額の資本を持っている企業はあるが、海外の超大企業に伍するだけの力はない。アメリカのような大企業を即座に作るのは難しく、国家が企業運営に容易に介入できる中国のようなやり方もできない。だとすればやるべきことは団体戦である。

 同業種が合併せず、独自のサービスを維持できるならば、質的低下を避けて協力しあえる。異業種間の連携ならばイノベーションも起こしやすい。そういうことの調整役をする専門家が必要だ。

 中国の古代戦国時代では群雄割拠の中での生き残りの方法が模索された。それが同盟の組み方である。大国と組んだ小国は結果的に滅ぼされ、小国の同盟はかなり持ちこたえた。現代であれば小よく大を制すもありうる。学ぶべきことはあるはずだ。

後天的な感情

 雑な言葉づかいをしていると感情が雑になるという言説によく出会う。私たちが感情や行動を言葉を通して認識している事実からして的を射たものと言える。

 しかるに現代は語彙の貧困化が進み、社会的地位のある人にも言葉が乏しい人がいる。恐らく彼らの多くは感情表現が偏っており、独善的な面が多い。感情のグラデーションが乏しいから、予想外のことが起きると異常反応をしてしまう。

 感情は後天的に獲得されるものなのかもしれない。そのためにも語彙を増やすことに関心を持つべきだろう。

不合格

 受験シーズンである。少子化が進んでいるとはいえ、人気のある学校への進学はやはり難しい。試験があれば当然不合格もある。

 私も不合格の経験は何度もある。苦い思い出だ。ただその中には合格しなくてよかったのではないかと思うこともある。万一合格してしまっていたら、いまとはまったく異なる人生を送っているはずだ。でもそれがかならずしもいいものとは思えないのだ。

 教育関係者としてはっきり言えるのは、今の入試の方法は理想とは程遠いということだ。短時間に説得力を伴った選抜をするならば今の方法は合理的だ。しかし、これは手際よさや無批判に物事を受け入れる気質には向くがそれ以外には不利なやり方だ。本人の能力を測りきれてはいない。

 不合格になった皆さんには声を大にして言いたい。試験はあくまで能力の一部を測るものであり、それかあなたの本質とは言えない。自分の良さを理解し得ない学校や組織はあなたから見切りをつけ、もつとあなたを評価してくれる場所を見つけるべきだと。

 これは私自身もいつも考えていることだ。自分は選ばれるだけではなく、自分が選ぶべきだと。

星空アプリ

 彗星の位置を知りたくて星空アプリを使用している。夜空に向けると画面上に星座の絵と名前が出る。一等星の名前も表示される。

 惑星の位置も分る。人工衛星まで表示される。そして彗星もわかるのである。

 大体の位置をアプリで確認したあと目当ての彗星を探した。5等級の明るさでは東京の夜空ではかなり見えにくい。ぼんやりとした光のようなものを見つけたのでそれを彗星にすることにした。認定トライのようなものだ。

祭りの復活

 コロナで中止していた各地の祭礼が復活しつつある。マスクの規制がなくなれば一気に増えるはずだ。

 祭りには地域の人々の心をまとめる力がある。それが多少浪費をしても続いてきた理由にほかなるまい。祭りのために日常の利害関係を超えて地域がまとまる。祭りの催行が皆の目標になるのである。

 人々のつながりはメディアを通さずに直接触れ合うことが基本になければならない。この部分が抜けて、ソーシャルメディアの方ばかりを重視するから、人間関係がおかしくなるのだろう。もちろん、地縁にもさまざまな問題はある。それ以上に益となるものが多いと思う。

 幼いころ、下町の祭礼は楽しみであった。なぜ、こんなに大人たちが熱狂するのかは分からなかったが、その日ばかりは待ちゆく人が優しくなるような気がした。祭りの復活は共同体の維持のためには欠かせない。ようやくそれが再開することをうれしく思うばかりだ。

 立春である。地球と太陽の位置関係に名付けをしたのに過ぎないのだが、それでも何か変わったような気がするがおもしろい。物理学者は時間は存在しないという。これも人間の脳が生み出した幻影なのだろうか。

 春はいろいろなことの始まりと考えるのが日本の伝統的な季節感だ。元旦よりも4月の方が開始の時期と考えられる。年度の開始月であるからだが、もう身体に染みついている。他国ではこれが通用しないというから、時間観というのは文化の一つということになる。

 存在しない時間、もしくはあったとしても相対的な時間に一喜一憂するのはなぜだろう。幻覚に囚われているうちに何か大切なことを見失っているのではないか。もし、時間が幻想であり幻覚ならば、私はここに存在するということも夢の一部に過ぎないことになる。

 この仮説は科学的に証明されるとしても実感としては肯んずることはできない。たとえいまここにいる自分が幻覚であり、他にも自分は存在し別の場所にいるとしても、それぞれの自分が実感できる世界は一つである。他は想像するしかない。ならば、あくまで自分という座標軸においては今いる周囲しか見渡せない。

 限られた世界に閉じ込められているからこそ時間は感じられ、感情がわき起こる。喜びも悲しみも見渡せる地平が限定されているからこそ発動するのだろう。

 春に何かを素直に感じるのはその意味で当たり前だ。ただ、その情念が知覚しうる条件のもとで起きているということを心の片隅で考えておくのは、危機的状況を救う命綱にはなるかもしれない。

貧すれど

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 貧すれば鈍するということばがある。貧困が生活の質を下げ、モラルやマナーといった基本的に大切なものを守れない人が出てくるという意味だろう。わが国は世界的も礼節を重んじる習慣があると認められているように思うが、最近それが危うくなっている。それはやはり忍び寄る貧困と関係があるのだろうか。

 昔から社会的な問題行動を起こす人はいた。基本的な社会生活に必要な協調性が薄く、独善的ですぐに文句をいう人である。これは最近の科学では脳の機能低下と関係があるといわれている。機能低下は加齢によって誰でも起こるが、それ以外でも栄養不足や運動不足、過度のストレスなどによっても起こるらしい。これらは貧困と相関がありそうだ。ならば、貧困が進めば問題は一層大きくなっていくということになる。

 さらには社会的な風潮、世相も影響する。特に日本人の気質の一つである同調志向は、この傾向を具現化しやすい。誰かのもたらした悪影響がたちまちに広まってしまう。ソーシャルメディアの無責任な発言がそれに拍車をかける。経済的貧困と精神的貧困が負の相乗効果をもたらし、正義や礼節の感覚を鈍化させてしまう。

 残念ながら昭和期にあったような経済成長は望めない。これから起きるのはやや角度のきつい降下線であると予測されている。その中で少子高齢化は進み、活力は一層失われる。イノベーションを期待するが、おそらく現状維持ができればいいということだろう。あくまで現在の経済的価値観での話であるが。

 ならば貧すれば鈍するではなく、貧すれど鈍せずの道を歩むしかない。まずは貧困の定義を変える必要がある。十分に有り余る物資を使い捨てするのが豊かであるという価値観をやめ、今あるもの、今あるシステムを大切にして、それを改良するという方法を取り、それが達成されることに幸福感を求めるようにしていくべきだ。いわゆるブリコラージュの発想も本来日本人に備わっていた考え方だと言える。結果的にそれが環境問題や、人口減少問題の解決の糸口になることは素人にも予測できる。

 こういう発想の転換にはきっかけが必要だ。歴史的には困難な時代に偉大なる指導者や思想的なカリスマが登場して人々の考え方を変えていったように思う。それが平和的に行われず、天変地異や革命、戦争などの悲劇の時期と多くの場合に重なっていたことは注意しなくてはならない。もちろんこうしたことはあってはならない。起こしてはならない。昔の人と異なるのは私たちはかなりの人が文字が読め、話し合うことが可能だ。だから、実際に悲劇が起きなくても、それを想像し、その対処を論理的に考えることができる。端的に言えば歴史に学ぶことができる。事例学習ができる。

 徐々に衰退に向かう社会において次に起こりうることは何か。それを考えることも必要だ。そしてそれを考えさせるきっかけを作ることも必要だと思う。そのためには歴史をもっと学び、思想を学ぶことをおろそかにしてはならない。最近はテクノロジー偏重の教育がなされつつあり、また社会的なニーズもそちらに傾いている。しかし、そもそも社会を成り立たせている仕組みや、その仕組みを支えている基本的な姿勢、ものの考え方について多くの人が意識し、その重要性に気づくべきだ。

 貧すれど理想を忘れないことを多くの人が目指すことができるか否かがこの国だけではなく、現代人の命運を握っていると言えそうだ。

節分

 今日は節分、二十四節気の立春の前日で、今日で暦上の冬が終わる。

 豆まきの日としても知られているが、これは歴史的にはそれほど古くはさかのぼらない。追儺という悪霊退散の儀式があったことは、8世紀初めの記録が『続日本紀』にあり、平安時代には大晦日の宮廷行事として行われていたことが記録に残る。古代中国から日本が取り入れた行事の一つだ。本来は悪霊を追い払う役の者たちが、次第に鬼そのものを演じるようになり、それが出ていく様を演じることで邪気の消えることを願う行事になっていったと考えられている。

 中世に入るとこの行事は行われなくなり、江戸時代も宮廷行事としては行われていない。似た行事は民間に伝わったようで、大晦日が新年の前の日であることが、立春の前の日になっていったのはその過程にあるようだ。旧暦では元旦と立春は近い日となり、年によっては一致する。

 鬼が悪霊と同意義になっていくのにも歴史がある。中国の「鬼」は祖霊を意味することが多かった。日本でも民間行事のなかで鬼の姿をした者を丁重に迎える祭りをする地域は多い。それが異類と感じられ、さらには害をなす邪鬼として考えられるようになっていく。こうした聖俗の逆転はいろいろな事例が認められる。鬼門が丑寅にある連想から、角をはやし、虎の毛皮を身に着けた鬼の姿が確立していった。

 春の前に鬼を追い出したいという願いは、東アジア一帯の文化にあるのかもしれない。禊や祓の行事も季節のはざまで行われる。定期的な掃除のように罪や穢れ、邪気は日常から離れたところに送り出そうとするのだ。科学の知識が普及したあとでも、こうした考えは根底に流れ続ける。それは生活の知恵でもある。残念なのは悪因悪行は現代社会ではそれほど簡単には退散してくれないことだ。ただ、季節の流れの中に日常の見直しの行事を置いたことは先人の知恵として受け継いでいくべきだろう。