投稿者: Mitsuhiro

なるべく黙る

 来年度の教室での目標はなるべく黙ることである。教えずに教える方法を完成したい。

 私の勤務校は模試などの成績の結果に拘る悪しき習慣から抜け出せずにいる。その結果、教え過ぎ自主性が育たない。言われたことはやるがそれ以上にはならない。日本の大学入試がこの言われたことを無批判にやることしか求めないから、これでなんとかなってしまう。結果にコミットするというならば正解に思えるが、私としてはかなり不安だ。将来淘汰されるエリートを輩出していないかと。

 大切なのは自ら学ぶ力だろう。これには人さまざまのやり方がある。それを一つの方法に括るのは間違っている。例えばたくさん宿題を出せば教員は安心だ。やれば成果がでる可能性があるからだ。しかし、無理矢理やらされた生徒はこれを短期記憶で片付ける。だから何も残らない。

 自分で考え、それを他の生徒に説明する機会を意図的に作るのが私の仕事になる。自分の言葉で説明することが真の知識獲得の方法なのだ。

 わたし自身は大学生までは教員の話をひたすら覚えることが学習だと思いこんできた。試験にもその通りのものが出るからだ。しかし、多くの学習内容はテストが終わると忘れてしまう。目的がテストで得点することでそれ以上でもそれ以下でもなかったからだろう。

 真の知識を形成するのは効率が悪い。時間も手間もかかる。でもそれがこれからの教員の役割だ。手間のかかる方法を考え、それに付き合うことだ。時間はかかるし結果が出るのには長期的展望がいる。でもやってみようと考えている。そのためには教え過ぎないことだ。

期待感

 期待感を抱きやすいのがこの季節である。年度の変り目と言うのが大きいが、花開き水温むという自然の移ろいも関係している。

 根拠のない思いだと言われればそれまでだが、人は気持ちで動くものであって、やはりそういう感覚は大切なのだ。私たちには考えたことをどこがで実現させようとする深層心理があるのかもしれない。

 ならば自他に期待感をもたせるのは世のためにも自分のためにもなる。冬は終わった。素晴らしい春になる。これだけでもいい。そのように思い、発言することでほんの少し何かを変えることができる。

 

親指

 スマホが登場するまでは親指が記述に活用されるとは思わなかった。右利きの私がこのブログの大半を左の親指で書いている。

 日本人はスマホの入力を人差し指で行なう人が多いという。パントマイムでスマホの演技をするならば、大げさに人差し指をスワイプする動作になるだろう。

 それでも簡単な入力は親指で済ます人が多い。片手で操作するにはこの指しか使えないからだ。私も右手は電車の吊り革の取っ手を握っているので、左親指しか使えないという事情がある。

 思えばこれは人類の発達史上かなり特異な出来事であるのかもしれない。身体にどのような影響が及んでいるのか興味がある。

どこから始めるのか

 同じような日常の繰り返しでも見方を変えればまったく違った印象になる。どこから始めるのかほ大きな問題の一つだ。

 成長期に何かを始めれば大抵のことは成功し、小さな傷も気にならない。その後に訪れる収穫を待つだけでいい。ところが衰退期に加わったなら、全く違う展開になる。大抵のことは、失敗し、それが破滅の道のように感じるものだ。これはどうしようならない。流れというものだ。

 どこから始めるのかほ自分では選べない。たまたまドアを開くとすでに芝居は始まっている。そこで展開するのが喜劇なのか悲劇なのかは分からない。

 考え方を変えるほかあるまい。衰退ほ長くは続かないかもしれない。流れが変わる可能性もある。万一、このまま下がり続けても、下り道ならではのおもしろい風景もあるはずだ。

 どこから始めるのかは選べないが、それをどのように受け取るのかは自分次第なのかもしれない。

見た目レトロ

 松本零士作品の代表作、銀河鉄道999は蒸気機関車のような姿をしながら、実は驚くべき高性能という設定である。宇宙戦艦ヤマトは発進時に最新兵器としての姿を現すが、銀河鉄道の方は、宇宙空間でも煙を吐きながら進む。これには過去の風景を未来に描くというロマンが表現されている。

 この感性は尊重されていい。最新の機能を持ちながら実は最新鋭というスタイルには憧れる。例えば、昭和世代では懐かしいサニーや2000GTの形なのに実は電気自動車だったり燃料電池対応だったりする車があれば魅力的だろう。最新型なのになぜか窓ガラスはハンドルで回して開けるというのもいい。誰か造ってくれないだろうか。

 人間もそうでありたい。見た目はくたびれた老人であっても実は最先端の技能を持っている。感性も新鮮だ。しかもそれを奢ることなく、謙虚な行き方をしている。そういう人は憧れである。見た目はレトロ、実は最新型というものに憧れる。また、そういうタイプの人になりたい。

感じ取るもの

 とても残念ではあるが、歳を重ねると感受性の感度が落ちる。これは自己防衛の方法として獲得してきたものだ。いちいち細かいことに感じ入ってしまうと先に進めない。その結果不利益になることもある。世の中そういうものという割り切りが、日常を過ごすためには必要である。

 ただ、これも度を過ぎると新しい事態に対応できなくなる。過去の事例と結びつけて分類に落とし込むと、新芽の存在を見逃してしまう。これが老年の問題点だ。見逃すことが続くと結局過去の世界で生きることになる。現実は毎日変わるのでだんだん追いつけなくなる。

 これを防ぐにはどうすればいいだろう。今起きていることや、若い世代の考え方に触れる機会を意図的に作るしかあるまい。かといって若者の輪に加わることは難しい。世代を超えたサークルのようなものに加入している人はそれができるかもしれないが多くの場合は不可能だ。

 ならばせめて若い世代の支持を集めている文化現象に触れてみるのがいい。音楽やファッションの世界にも興味を持とう。漫画や小説も少しは読むといい。おそらくその多くは性に合わないはずだがそれでも日常とは異なる体験ができる。それが感性の老化を緩やかにするのなら、それもいいではないか。

 実はこの話、若者に対して行う先輩の価値観を知ろうというメッセージの裏返しとして考えた。

自動運転車待望

 高齢者が起こす自動車事故が増えている。若い世代には分からないかもしれないが運動神経の衰えは自覚しにくい。だから、いつまでも大丈夫だと思って運転すると思わぬ事故を引き起こす。

 こういう事故の後、必ずどうして高齢者なのに運転するのか分からないという批判が出る。しかし、多くの場合わがままとか自己本位などではなく、運転しなくてはならない事情があるのだ。

 高齢者が運転しなくてもいい社会を作るのがこの国の一番の目標だ。例えばコミュニティバスや相乗りできるタクシーなどは実現しやすい。法整備を急ぐべきだ。テクノロジーの発達も期待したい。完全自動運転の自動車はいつになったらできるのだろう。

 自動車事故が過去の記憶の中だけになるような社会を実現するのはそれほど遠い未来ではないだろう。超高齢社会でかつ複雑な国土をもつこの国が自動運転システムを開発することで世界に希望を与えよう。目的を持てば実現は可能になる。

高温予想

 週間天気予報によると、3月7日(火)以降は最高気温が20℃近くの日が続き、最低気温も10℃を超える日がありそうだという。この時期としてはかなり気温が高く、桜の開花が早まる可能性もあるという。暖かくなるのはよいのだが、季節には段取りがあり、それなりの意味があるはずだ。春が駆け足になることを手放しでは喜べない。

 日本気象協会の予報では東京のソメイヨシノの開花は3月18日ということだ。とても4月まで花は持たない。少し前、温暖化の影響で桜は3月に咲くようになるということが科学ニュース扱いで取り上げられ、まさかそんなことはあるまいという感想を持ったものだが、すでに現実になっている。近隣の桜祭りが花期に間に合いそうもないため中止するというニュースがあった。祭りなら残念で済むが、生活に関するものになると静観できない。

 まずは体調を崩さないようにすることが私の課題だ。ここ数年春先に弱い。気をつけなくては。

教え合い

 コロナの影響で遠慮していた授業の方法に話し合いやいわゆるペアワークがある。これは、実は効果的な方法なので封じ手が解禁されることはとても嬉しい。

 私たちが何かを学ぶとき、最終的な目標は自分の言葉で表現できることだ。それを実現するためには結局は学んだことを他人に説明することが一番であると考える。教員が知識を伝達することは効率がよさそうに見えて実は中長期的には効果が出ないことがある。大量の知識を暗記して吐き出すことはすでに機械が行う分野であり、いま必要なのは自分の知識とすることだ。これは古典教育でも同じである。単なる知識の短期的な保管の作業はあまり意味がない。

 教え合いを授業の中で実践するにはどうすればいいのだろう。自由にやってくれでは質的な保証ができない。かといって教員がすべてのグループに入ることも無理だろう。ならば、生徒同士での学び方、教え方に工夫をするしかあるまい。

 例えば短い古文(日本の古典文学)を学ぶとき、グループごとに何文かを割り当てて教員の代わりに授業してもらうのはどうだろう。必ず二つのグループに指名し、そのうちのどちらかに発表させ、どちらかにコメンテーター役をしてもらう。そして生徒の説明が一通り終わったら、必要事項や訂正事項があれば教員が補足する。この方法では読解はあまり進まないが、そもそも全文を細かく訳す必要はない。授業でできなかったところはプリントか何かで配布すればいいことだ。

 発表するにあたってグループ内で教え合いは自然に生まれるはずだ。苦手な生徒はそこで方法を学ぶし、特異な生徒は人に教えることでより知識が確定する。こういう方法をとると面白いかもしれない。いずれにしてもこれは教員にかなりの覚悟がいる。自分が教えた方がはるかに早く効率的に授業が進められるのに、生徒の作業を見守らなくてはならないからだ。

 ただこの方が身になる知識になることは確かだろう。すべての授業で行うことは無理でも、大半の授業をこの形態にしてみようと考えている。私は見守り役だ。そして、やがて自分より優秀な学習者に育つのを発見することになるはずだ。

脱マスク間近

 13日からマスク着用は個人の判断となる。多くの企業ではこの方針に従うと発表しているが、接客を中心とするサービス業では従業員のマスク着用を続けると公表している。

 私の場合はコロナウイルス以上に花粉の飛散が問題なのでしばらくマスク生活は続けることになる。恐らく多くの方々はマスク生活を止めることになるだろう。すでにコロナはインフルエンザと同等の病気と認識されている。

 マスク生活が終わると何が起きるだろう。一時的な感染者増加は起きるはずだ。しかし、かつての脅威はない。むしろ人々の活動が活発になることによる様々な変化の方が気になる。再び喧騒の世界に我々は復帰できるのだろうか。

 学んだことがあるとすればソーシャルディスタンスをとっても社会は維持できるということだ。人口減少の未来を少しだけ予見できた。人的資源が失われても社会をどのように運用するのかを知ることができた。だから、決して慌てる必要はない。

 むしろこの自由になった空間で私たちは日常を楽しむべきだ。そしてダウンサイジングする社会をどう切り盛りするのか考えるべきだ。マスクを外したらまずはこの国の将来を考えよう。自分ためにも家族のためにも。