人間の人間らしいところは間違えるということだろう。間違えてもすぐにやり直す。また間違えたところから始めるので結果的に新しいものが生まれることもある。それを踏まえて人間を考えるべきだ。
投稿者: Mitsuhiro
外套置く
ふるさとは
統一地方選挙の対象地域ではないが、隣県が知事、県議、市議のすべての選挙が行われるらしく巨大な掲示板が立っている。また、すでに選挙戦が始まっており、様々な候補者が演説している。その中で気になったことがある。
ある候補はふるさと納税の弊害を訴えていた。その内容によると、本来市に入るはずの税金が他の地域に流失している。その額が非常に大きく、損害というほかないというのだ。これは多くの人が考えていることであり、大都市圏の自治体にとっては深刻な問題なのであろう。
ふるさと納税を実施する人の多くはいわゆる返礼品が目当てである。魅力的な返礼品を用意する自治体には税が集まりやすい。人口の少ない地方都市町村にとっては重要な収入源であるから、この制度には意味があるのだ。
ただ、ふるさと納税の目的はあくまで納税者がその地域の支援をしたいという意志に基づくものであり、その結果自分の住んでいる地域の福祉への支援が少々低下するという意識が必要だ。こういう考えを持っている人は少なく、私もいま理屈では理解しても、実感に基づくものではない。都会人であればあるほど、自分の居住地域に対する愛着は低く、仮の住まいという考えが強い。だから、税をどこに収めようとかまわないと考える。
最後まで演説を聞かなかったので、どのような結論なのかは分からない。ただ、言えるのは納税者の態度を責めたところで得票には至らないということだろう。その地域の住民ではないのでそれ以上は言えないが、要するに自分の住まいに愛着が足りないということを言いたいのだろう。
彼は政治家としてどのような政治を展開すべきだろう。まずは自分の住まいに愛着をもたせるような政治を行うことを目指すべきだろう。そのために何をすべきなのかを考えるべきだ。ふるさと納税という視点で考えれば、地方自治体の政治家の仕事の一つは住民の地域社会への関心を高めることだ。税収増につながるのならば、それは立派な仕事といえるだろう。あなたのふるさとはどこなのかとなじる前に、ふるさとを一緒に作りましょうと訴え、それを粛々と実行する人が地方自治体の政治家にはふさわしい。
Someone to watch over you
川崎駅周辺に100以上の監視カメラが設置されるのだという。川崎市長は全国で最も安心できる街にすると記者の取材に対して述べたらしい。川崎は現在訪れるとかなり整然としているが、かつては犯罪も多く発生していたので危ない街という印象がある。おそらくそういう先入観を払拭したいという考えもあるだろう。
川崎に限らず設置者の公私を問わないならばすでに多くの監視カメラが設置されている。警視庁が設置するカメラは分かりやすいが、そのほかにも駅の改札付近のカメラやコンビニエンスストアのカメラ、個々人が防犯のために玄関から外を写しているカメラなどがある。さらにこれは盲点かもしれないがいわゆるドライブレコーダーは移動しながら街の様子を記録し続けている。
すでに現代社会は監視されている社会なのである。いまのところはそれを統合することは難しいかもしれないが、やろうと思えばできてしまうテクノロジーはそろっている。犯罪が起きないようにするため、起きてもすぐに犯人を特定するためにはこうした技術は有益だろう。ただいつも誰かに監視されているということを忘れてはならない。世間の目がゆるさないという日本人が伝統的に持ってきた価値観はすでに形而上学的なものではないということなのだ。
エラ・フィッツジェラルドの名曲 Someone to watch over meのようなロマンティックな状況とは少々違う。
賑わい
コロナの制限が終わって様々な制限が解除されつつある。様々なイベントも復活している。イベントを整然と行うのは日本人の得意技の一つだ。楽しむためには節度が必要なことを社会生活の中で習得できているからだろう。
祭りというのは日本の社会を維持していくための重傷な要素であると感じている。日本文化には晴と褻という対極があって、晴の場面では様々な特殊能力が発揮される。それが日常のブレイクスルーとなり、社会を変えることもある。そしてまた褻の説活に戻って何事もないように秩序を重んじる生活に戻る。これが日本の文化的な特質なのだろう。
日本人の特性は晴の時間にどれだけ日常を逸脱できるかにある。祭りはその逸脱の場であるはずだ。日本人の能力を最大限に活用したいならば、これに対する寛容性を身につけるしかあるまい。
花散らし
ハナミズキの花芽
僕らの知らない道だけど
仕事柄、いろいろなことに躓いている人に声をかけることが多い。そういうときに思うのは人それぞれのやり方があっていいということだ。
同調圧力をかける側の仕事をしておりながら、自己矛盾も感じる。ただ、やるべきことは人によって違う。やり方も人それぞれという事実は忘れてはならない。他人と別のやり方では都合が悪いのは自己利益のために誰かが犠牲になることだ。それは避けるべきだろう。全く何も迷惑をかけないことは不可能だが、それにも節度がある。それを超えるものでなければよいのではないか。
自分の歩いた道は人にも勧めやすい。少なくともその道でどう振る舞えばいいのかを心得ているからだ。対して自分が経験したことのない進み方をしている人にはついそれは間違っているからこちらに来いと言ってしまう。その人の適性など考えることなく。
私はそのやり方は知らないが、でもそれがいいならやってみるといい。そういう余裕をもちたい。
もう見頃
時間のメリハリ
学習するときの時間の使い方は区別すべきだ。目的が学ぶ過程にあるのか結果にあるのかをまず峻別しよう。
一生懸命やれば結果が出るとは私たちが根拠なく信じてきたことだ。恐らくそれは間違っていない。ただこれには条件があって、制限時間が短く設定されていないことだ。長く根気強く続けていればてきるようになることがある。趣味のことやライフワークといったものはこれに属する。長く細くいつまでも続ける学習法が適している。
対して時間制限があるもの、期限が限られているものは時間の使い方が異なる。結果を求められる場合、極論を言えば正解さえ分かればいいのだ。できるだけ効率的になおかつ再現性が高い方法が見つかればなおいい。こうした種の学習は学校で教えることの大半が含まれる。本当はそれではいけないと思うが現実がそうなのだ。
結果が求められるものの学習方法は時間の割り切りが必要だ。普段からある程度の制限時間を設けその中で学ぶことが必要なのだろう。教員の役割はそれを個々人の理解度に応じて調節し提案することだろう。
私自身もこの二つの時間の使い方を意識する必要を感じでいる。だが、しばしばこれを取り違える。