投稿者: Mitsuhiro

励まし力

 かつて軽登山が趣味だった頃、よく言われたのは疲れたときには他人を励ませ、するとその相手は励まされ、自分自身も力が出るものだと。それは登山をする人には常識のようだ。

 他者を励ますことで自分まで癒やされるのはなぜだろうか。自分は疲れていないぞと虚勢をはって相手へのマウントを取り、気分的優位に立つから、という解答は合っていない気がする。そういうことではない。

 恐らく他者を激励することの行動のうちに、自分を鼓舞する内容が含まれているのだ。あるいは他者を励ます行動そのものが何らかのいい影響をもたらすのかもしれない。

 励ますために使う言葉にヒントがあるのかもしれない。人を励ます言葉を見つけた人は自分自身も励ますことができる、それが大事なことなのだろう。

死の意味

 死の意味を理解することは難しい。死の痛みは概念的ではなく経験的なものだ。しかも自分の死は経験できない。あくまで他人の死をもってその痛みを知るに過ぎない。

 人の死はいつも悲しいかといえば必ずしもそうでもない。ニュースで報道される赤の他人の死の報道で悲嘆に暮れることはない。死者多数の報道を視聴しながら私たちは普通に食事ができる。だがたった一人の死でも肉親や親しい人の死となると茫然自失となる。死の感じ方には死者との関係性が大きく関与する。

 だから、人生経験が少ない若い世代に死の意味を考えさせることは意外に難しい。すぐに死ねと口走る彼らに本当の死の意味は分かっていない。いや年齢の長幼ではない。本当に死の意味が分かるのは自分の死の直前であり、大抵の場合その意味を他人に伝えることはできない。

 私自身も人生の最終コーナー近くにいる(と思われる)くせにいまだに死の意味を納得していない。恐らくそういうものなのだろうという推理は少しずつできるようになってはいるが。

 若い頃に自分の死の場面を漠然と考えたことがある。その大半は外れ、運良く今日まで生きている。この先は分からない。明日かもしれないし10年後かもしれない。ただ確実に近づく死時を想像可能になった今、死の観念はかなり変わって来たのは事実だ。

 若い世代には言いたい死とは難しいものだぞ。

百日紅

 猛暑続きでうんざりしている。ただ、その中でもきれいな花を咲かせる百日紅は夏を彩る心の救いの一つだ。サルスベリの名の通り、樹皮が剥げ落ちたような姿をしているのだが、この暑い中でも勢いは衰えていない。南国を思わせる花も今の季節には向いている。別に夏だけの花ではないが、今年に限っては酷暑に立ち向かう樹木として考えることにした。

雷鳴

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 久しぶりのお湿りは激しい雷雨であった。関東地方南部としては久しぶりの雷雨のような気がする。これまでの異常なほどの安定した猛暑が崩れたのは遠い台風の影響もあるのだろうか。一時的に気温が下がるのはありがたいがあまりに激しい雷鳴には命が縮む思いがする。

 そういえば、今年はゲリラ豪雨という話をあまり聞かない。これからは雷鳴の続く季節になるのだろうか。

道具を大切に扱うことの意味

 海外でプレーしたスポーツ選手が驚くのは、日本のように道具を大切にする国は少ないということだそうだ。日本では道具を大切に扱うことを幼い頃から教えられる。それは道具の値段が高かった時代の習慣が残ったのものともいうがそれだけではなかろう。どうも私たちは道具に特別の意味を見出そうとする伝統を持っているようだ。

 すべてのものに霊性が宿るという多神教の考え方には、日本人の考え方の基底となるものがある。道具を大切な扱うのはその道具にも霊性を感じているからというのは言い過ぎだが、少なくとも自分の大切な道具は単なる物質ではない。そこに何かを感じるからこそ、愛着も湧き感謝の心も起きる。針供養をする文化は細部に亘って様々な価値観を創出している。

 現代でも私たちはロボットに名前をつけ大切にする。そこに人間的要素を見つけようとする。道具に霊性を見出そうとする行動様式は現代も継続している。

 最近、ファミレスなどで動き回っている配膳ロボットの中には猫のような言葉を使うものがある。自動運転式移動ワゴンに動物的な要素を付け加えたのだ。このロボットには一見無駄かと思われる機能がある。機械の一番上のあたりを撫でると喜んだり、怒ったりするというものだ。配膳作業には無関係だが、ロボットに親しみを感じさせる役割を果たしている。霊性を感じさせるための余計なしかし大切な機能だ。

 私たちが道具を大切に扱うことをごく自然に行えるのはこうした民俗が影響している。大量生産大量消費を前提とした西洋文化に批判がなされ、持続可能性が強調されている今、この考え方は見直されてしかるべきだ。

群集心理

 人命に関わる大事故は絶対に避けなくてはならない。コロナ開けで様々なイベントが再開する中で、中断期間にリスク回避の方法がどれだけ継承されているか、人件費削除のために警備に割く人員を減らしていないか懸念される。最近の日本人の心理として人件費削減のためのサービス低下は仕方がないと諦める傾向があるが、これは譲れないものである。

花火の季節

 各地で花火大会が復活し、かなりの人を集めているという。そこで問題になるのは群集心理による事件や事故が発生しないかということだ。2001年の明石市の事故は花火大会の報道とともにいつも想起される。群衆事故として世界的にはソウルの梨泰院のハロウィンでの大惨事が思い出される。その他エンターテーメントや、スポーツイベントなどで数多くの事故が起きてきた。

 参加する側のモラルも低下していないか。世界のスポーツイベントで清掃をして帰る選手と観客に称賛が送られるのは誇りになろうが、ゴミを勝手に捨てていく近隣の人々のいる現実との齟齬が大きすぎる。恐らく私たちには二面性がある。注目されているときには礼儀正しいが、自分と無関係の人々が周囲にいると認識したとき傍若無人になる。かつて中根千枝が指摘したほどであるかはわからないが、我々は余所者に対しては無礼になりがちだ。その意味で日本人は民度が高いとかモラル意識の高い国民と評する人がいるときに疑問を感じるのだ。

 花火大会ではまずは自分だけいい場所を取ろうなどと考えないことだ。そして花火は空中に飛び散る火薬の燃焼の集合体だけでできているのではなく、それを見る人達の感動とか幸福感と複合してできているということを思い出すべきだ。その場にいる人が不愉快になるようならばそれは花火ではないということだ。その場を共有しているという思いが持てれば焦ることはない。事故も起きにくい。モラル違反も起きないだろう。

 群衆事故の悲劇は犠牲者もその周りにいる人にも大抵の場合は悪意はなかったということだ。ただ、後から考えればちょっとした配慮が欠けていたということになる。これから人が集まる行事が増えてくるが、これだけは考えなくてはなるまい。人間の脳はある程度の人数を超えてからは行動の方法が分からないようだ。対応できないという事実を知っていれば、少しは悲劇は防げる。

賃金上げろ

 最低賃金が1000円超えすることがニュースになっている。遅すぎるというのが率直な感想だ。いまは経済を回すときなのにそれができていない。経済の失策を関係者は認めるべきだ。

 2020年の時点の資料を見ても、OECD加盟国の中の最低ランクであり、実態と賃金がリンクしていない。ここは各企業が人材確保のために投資をするときなのだ。恐らく経営者には勇気がいるだろうがここで人材をどれだけ確保できるかで命運は決まるのだろう。

 給料を上げれば物価も上がるが、先に収入増をすることが何よりも大事だ。いまはそれが反対になっている。これではますます消費を控えるようになり、不景気を促進してしまう。この現実を長々と続けているのがいまの日本だ。

 まず賃金を上げなくては何も始まらない。行政はまずこのための施策を優先してほしい。

恩師のこと

 小学2年生のとき横浜市から福岡市に転居した。親の転勤によるものであった。この後も何度か転勤をくり返すことになった。子どもにとっては一大事であったはずなのに、なぜか細かいことは覚えていない。ただ一つ印象的に記憶しているのは水泳の時間だ。

 横浜の郊外にあった小学校は新興住宅地にあって教室が不足し、プレハブ校舎で対応していた。プールはなく、水泳そのものがなかった。だから、泳げるはずもなかった。

 福岡では泳げない子どもは誰もいなかった。みんな嬉しそうにプールの端から端まで泳いでいた。自分だけできないというのは何ともつらい。苦い経験だった。水泳キャップにどれだけ泳げるのかを示すリボンが縫い付けられるので、見た目でどれだけ泳げるのかを衆目にさらすのが嫌だった。今考えても残酷な方法だ。

 その私に救世主が現れた。転校先の担任の先生は、粘り強く私に泳ぎを教えてくれた。まずは水に顔を付ける方法を、そして水中で息を吐き、水面で顔を上げたときに吸い込むという例の泳ぎの基本だ。運動神経が鈍かった私を見捨てずに何とか25メートル泳げるようにしていただいたのは、その担任の先生だ。おかげで魔の時間を少し軽減することができた。

 私の家族はその後すぐにまた転居してしまったので、先生とは離れることになってしまった。いろいろな恩師を感じる中でも印象的なのはこの時の泳ぎを教えてくれた先生だ。先生は別に体育関係者でもなく、穏やかな女性の先生だった。その後も年賀状だけはやりとりをしていて、去年も返事をいただいた。ということはその当時まだお若かったはずだ。

極めること

 どんなに下手でも極めることが大事なのだろう。私たちはすぐに他人と比べてせっかく始めたことでも自ら才能を見限ってしまいがちだ。でも本人が続けることに楽しみを感じている限りは続けるべきなのだろう。

 すぐに上達する天才もいるが、それよりも下手でも楽しくやれる方が幸せな気がする。極めることが大事だ。