月: 2022年12月

卯年にむけて

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 来年は卯年である。ウサギにかこつけて飛躍の年という人がいる。またボウの音が古代の「茂」の音に通うところから、植物が繁茂している状態になるということもあるようだ。そこから繫栄なり、発展なりを連想する向きもある。

 いずれも後付けの説明のようで、本来は子から数えて4番目を意味するだけの記号であったというのが事実に近いらしい。ベトナムではウサギではなくネコの年らしい。何を当てるのかも民族によって違うのだ。

 でもそれが非科学的であろうと、歴史に基づかない民間語源説であろうと信じる者は救われるのかもしれない。ウサギのように飛躍し、植物が生い茂るように自分の夢を広げていく、そんな1年を期待する。

 年賀状に「卯」の字を書きながら、思うのは自分はもちろん社会の飛躍と安定である。

虚礼ではなく

 年賀状を書く季節になった。先輩の中にはこれで賀状交換は終わりにしたいとおっしゃる方もいる。寂しいが仕方がない。これはもともと義務でやるものでもないし、いわゆる義理でもない。いわゆる虚礼にならないように私も方針転換をする。つまり、来年からは出したい人だけに出すことにする。

 これまでは仕事上の関係とか、公平性(?)とかいろいろ忖度して賀状を書いていた。これからは年齢や経歴や過去の関係とかを考えずに出したい人にだけ出すことにする。それが虚礼ではなく本当の挨拶だといえると信じることにする。だから、一枚にかける時間は長くし、思いをしっかりと書く。それが書けない人には出さない。この方針で行くことにする。

 私から年賀状をもらったらきっと「読み応え」はあると思う。ただ、それも相手がどう思うかは様々だ。それは気にしない。挨拶したい人だけに丁寧にあいさつする。それが私の方法ということだ。このくらいのわがままは許される年齢にはなっていると思う。

アニメソングは永遠

 アニメの主題歌の世界では第一人者の水木一郎さんが亡くなった。肺がんだったという。その歌声は子供のころから聴いており、誰もが代表作と考えるであろうマジンガーZのほかにも宇宙海賊キャプテンハーロックなどの歌唱も印象的だった。仮面ライダーやウルトラマンシリーズなどいろいろな曲でその歌声を残されている。

 子どものころに繰り返し聞いた曲はなぜか忘れない。簡単でドラマティックなメロディーラインということもあるのだろうが、それ以上に感情をこめて歌っていたこと、つまり歌の世界にのめりこむことができたことが大きく関係しているようだ。

 アニメソングはその意味で私たちの世代の底層にある何かであり、それはこれからも変わることがない。若者の曲を聴いているときもこのメロディラインはどこかで聞いたことがあると思うとき、それがアニメソングであったりする。ならば、日本のポップ音楽の典型を示す何かが含まれているのかもしれない。

 水木さんのご冥福をお祈りいたします。夢と勇気をありがとうございました。

保育と介護

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 最近、保育と介護の現場でのトラブルが大きく報じられている。虐待と考えられる行動をして問題となり、立件された例がある。ここにはももちろん保育士や介護士の個人の資質の問題もあるが、それにとどまらない諸問題があると考えられる。

 圧倒的な人材不足はその第1要因だ。厚生労働省のサイトにリンクされている「保育人材確保のための『魅力ある職場づくり』に向けて」という平成26年(2014)8月付のデータによれば平成29年末に7.4万人の保育士が不足すると予測されていた。現状がどうなのかは分からないが、求人に見合う希望者がいないのが課題とされている。その原因は給与の安さ、休日のとりにくさ、人間関係の複雑さなど仕事に関する魅力の低さが原因している。

 介護士の方も同様である予測では2025年には32万人、2030年には69万人の介護士が不足するという。少子高齢化に加えて、介護職の持つイメージ、実際の労働環境の悪さ、待遇の悪さなどが挙げられている。もちろん施設による差が大きいので一概には言えないが、これらが人材確保に悪影響を及ぼしているのは確かだ。

 このような背景がある中で、いい人材が確保しにくいという現実がある。私自身が介護される側に回りつつある中で、例えば退職者が施設のお世話になる前に職員として働くことはできないのかというプランを考えてみなくてはならない。体が丈夫であれば介護士として貢献することができるのではないかということだ。

 私は父が特養でお世話になったとき、時々訪問しその厳しい現実を見てきた。思い通りにならないからだと心を持つ高齢者は想像以上に大変なお相手だ。暴言に見えるその言い方、人による障害の度合いの差、排泄物のにおいなど思い出すだけで困難が想像できる。しかし、それを支えてくださった介護士の方々には感謝している。もし可能であれば少しでも恩返しがしたいとは思うのだ。

 話がそれたが、保育にしても介護にしても人生においては重要な仕事にも関わらず、その評価が低く、それゆえに人材が確保できない。そういう状況ではさまざまな社会問題が発生しやすい。まずはこの現状を知り、こうした仕事の魅力を高め、多くの方が志してもらえる仕事にしていくことが急務ではないか。

感情の名前

 自己暗示の手段として感情の把握というのがあるらしい。自分がいまどのような感情に包まれているのかを把握すれば対処の仕方があるというのだ。

 冷静に考えればこの考えには矛盾がある。人の感情は多種多様で限りない連続体である。常に動いていて変化は止まらない。いまどんな感情なのかを説明することは走っている自動車のタイヤの文字を読むより難しい。

 それでも敢えて感情に名前をつけるのだ。全力で走ったあとで、ふとなぜ走るのか疑問になって叫んだときの気持ち、などと状況を限定すればその時の感情として標識化できるのかもしれない。

 感情に命名するとある程度その感情を把握することが可能になる。場合によっては制御も可能だ。こうして自己暗示するための手段になりうるということだ。

 付けられた名前は所詮近似値のようなものだ。でも、不正確でも自分の内面の一部を掴むことで安心感が得られる。それが自己暗示には大事だということだろう。

まず景気回復

 防衛費の増強などを目的として増税が論議されている。国債頼みにしないというのは一つの見識だとは思うが、このタイミングで増税など無理というものである。なぜそういう感覚がないのか。

 まず賃金をあげることを優先すべきだ。税収はそのあとで考えるべきである。金を循環させる方法を考えるならば、税金を上げるより、むしろ減税の方がいい。ただ、財源の確保が必要ならばそのあとの動向で判断していけばいいのだ。いまは何よりも景気回復と個人の賃金を上げ、消費者の気持ちを向上させる方が優先事項だろう。

 安物買いの銭失いの国民病にかかっていると思われる今、少し高くても長く使えるものを求める心の余裕がいる。そのためにも賃金を上げよう。給与を積極的に上げた企業に補助金を出すなどの方策も面白いのではないか。

偶然

 地球の歴史をたどる理論にふれると、現在のあり方が実に偶然の産物であることが分かる。生命の発生にしても、数多くあった大量絶滅にしても人智を超えた自然現象であった事が分かる。

 今日のさまざまな人間の活動も実はそういう長い地球の歴史からすると偶然の組み合わせで一瞬で消え去るものに過ぎない。そういうことを直観し、長く心に留めることができればさまざまな悩みはなくなるはずだと考えてしまう。

 実際にはちょっとしたことで心が動き、近隣の幸福を羨望し、自身の不幸を嘆息する。結構恵まれていていても、まるで不幸のどん底にあるかのように感じてしまう。それが生活の実感というものだ。

 何を目標に生きればいいのか。時々そういうことを思う。しかし、その思いは続かず、また日常の些事にとりこまれてしまう。それが私の弱みというものだ。

 逆に考えることにしよう。弱みは強みだ。自分をときに上から考えて知ったかぶりできる力は持っていると。そういうことがこのあと何かの役に立つかもしれないと。

放課後公民館

 公民館は非営利的な社会的文化的な活動の拠点としていまでも一定の役割を果たしている。文化教室や高齢者の集会所など多種多様な機能を持っているが、必ずしも十分に活用されていないのではないか。公立小中学校の校舎などを利用してもっと多くの市民が参加できる仕組みを作るべきだと考える。

 文化講座のようなものは、有名な講師を雇って行う企業の有料講座もいいが、ほぼ実費程度でできる公民館のサークルも大切だ。できれば地域の中から講師を出し、互いに教えあうような仕組みがあると理想である。それには公立の小中学校や、場所を無償もしくは安価で提供する企業などの協力を仰ぎたい。安全管理上の問題などの法整備を行えば、付加的な投資は少なくても実現できる。授業料は安く抑えたい。ただ、寄付は受け付けることとして満足度に合わせて、追加で払うという形にする。講師のやる気も変わるはずだ。もちろん、もっとハイレベルな内容を求める人は専門的な先生を擁したそういう講座に行けばよい。授業料を払う価値がきっとあるはずだ。

 学校の校舎を会場にすることの利点は子供から大人まで参加できる場所として提供できることだ。私は児童生徒のクラブ活動も地域社会との共同で行うべきだと考えているが、子供のころから世代の違う人との交流ができれば本人たちに益するはずだ。もちろん、種類や内容に応じなんでも混合というわけではない。民謡や踊りの教室など地域文化に関わるものは放課後公民館には向いている。

 地域住民が支えあうという仕組みを作れば様々な社会問題の解決、もしくは困難の緩和に結びつく。金儲けより社会に貢献したいという人はたくさんいるはずだ。彼らの活躍を応援する仕組みを作れないか。

ヨーヨーの名人

 子ども時代の思い出としてコカ・コーラが販促で展開していたヨーヨーをおまけにつけるキャンペーンがあった。福岡に転校したばかりの私はまだ友人が少なかった。コーラーの王冠の裏をめくり、あたりマークがあるとヨーヨーがもらえた。ヨーヨーはそれ以前からあったが、いろいろな技ができるのはこれしかないと信じていた。

これは当時はやったタイプではありません。

 ある日、ヨーヨーのチャンピオンが直々に演技をしてくれるという。記憶では学校の近くの広場だった。子供たちの人垣の中でチャンピオンのお兄さん(だったと思う)がいろいろな技を見せてくれた。「犬の散歩」という空回りしたヨーヨーを地面近くで滑らせながら犬に見立てる技は、手品を見ているような気がした。

 まんまと商略に乗っ取られた子供たちは(含む私)はコーラを飲み続け、ある日「あたり」を手にした。それで名人のようにやってみたがうまくいかない。私には向いていなかった。ヨーヨーを通してできた友人たちの中にはあの空回りができるようになったものもいた。それができれば様々な技が展開できたはずだが、なぜがそれ以上は進まなかった。

 いまの子供たちに同じ遊びを紹介しても喜んでもらえるだろうか。テレビゲームよりはできることは少ないが、できたときに達成感はビデオゲームには及ばないものがある。ただ、周囲に配慮しなくては少々危険であり、家具を壊して怒られないようにしなければならないが。

具体例の豊富さ

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 いろいろな自己啓発系の本を読んできて思うのは、述べられていることを要約すると古典の先哲の述べていることとそうは変わらないということだ。新しい考え方というが実は、何百年も前の人が残したこととあまり内容が変わらないということ多々ある。何が違うかといえば、それは具体例をどれだけ示せるのかということだ。

 私たちが何かを理解しようとするとき、意見や主張にあたる部分だけを読んだり、聞いたりして納得できることは少ない。説得されるためには自分の経験や知識と重なる具体例があることが関係する。自分の経験に近いからもしかしたらそうかもしれないと納得することができるというわけである。どんなに正しいことを言われても、それが身近なものでなければ自分の問題として理解することができない。どうも私たちの頭脳というのはそういう仕組みになっているらしい。

 よく売れている本を読むと、その具体例が非常に豊富だ。中にはできすぎではないかという例もある。これはクリティカルリーディングが求められる領域だ。それを差し引いてもなるほどと思わされる事例がたくさんある意見に対して納得をしやすい。

 この手の本を書く人はインタヴューに力を入れている。その蓄積が作品の成否に大きく関与すると言ってもいい。偉大な宗教者や哲学者もそうした具体例をたくさん持っている。本当に体験したこともあれば、人の輪を通じて入手した事例もあるのだろう。それを言語化し、自分の考えに結びつけられたものが思想を展開できたのだと思う。これは今も昔も変わらないのだろう。

 自分のことを振り返るに、やはり圧倒的に言語化という方面ができていない。これといった経験はしてきていないし、人に誇れる行動もない。でも、ささやかな経験の中から受け取ったことはたくさんあったはずで、そのたびに自分の言動を修正してきた。そのほとんどを忘れてしまい。言葉にできない。感動の体験を少しでも言葉にすることをこれからの小さな目標にしていこうと考えている。このブログはそのごく一端を記すためのメディアである。