月: 2022年9月

集中できる場所

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 このブログの名前は架空の別荘にしかも書斎があるという想定でつけた。実際の住宅環境は恥ずかしくて言えない。読書するとき、何かを考えるとき、ものを書くときには集中できる場所がほしい。それが自宅にある人は幸せだ。そうではない場合どうすればいいのだろう。

 職場はいそがしく、しかも仕事の山で気が滅入るばかりで落ち着いて本も読めない。帰りのコーヒーショップなどで試みることもあるが、隣の客がおしゃべりだった場合は目的を達成できない。もっと強敵なのが無駄ににぎやかなBGMだ。こどもが多い店は対象外だ。こどもには高校生も含む。レンタルオフィスのようなところはいい。ただ、いちいち金がかかると気軽には使えない。

 図書館はあらゆる意味でいい。静かだし本もある。ただ、パソコンを開くのは気兼ねがするし、打鍵音も気にしてしまう。以前にも書いたスマホとBluetooth接続するキーボードは音がほとんどしないのでこれを使うことは多い。

 ただ、図書館も開館時間が短かったり、閲覧席がすぐにいっぱいになったりするので万能というわけではない。結果としてたどり着いたのが、駅の周辺のベンチである。人通りは多いが、立ち止まる人は少なくおしゃべりに邪魔されることは少ない。基本的にあまり座っている人はいないので座席確保は容易だ。屋根があるところでは全天候型となる。これは少ないが。そして、文字通りのラップトップにすればコンピュータも使える。机のある席が確保できれば、100円ショップで手に入れたスマホ立てと先の携帯キーボードの組み合わせで入力装置が完成する。

 というふうに最近は駅周辺のベンチやテラス席のようなところで隙間時間を過ごすことが増えている。真のノマドワーカーだ。しかも低予算型、低機能型の部類である。この方法を実践するために最も必要なコンピテンシーは「忍耐力」と「恥ずかしがらない力」だろう。

国内生産

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 身の回りにある衣料、電化製品などの多くは中国や東南アジアなどの工場で生産されていることは周知のとおりだ。かつては1ドルが75円くらいまで上がったために国内で製造しても採算が取れないというので海外に生産拠点を移したからだ。

 結果的にこの方法は国内のサプライチェーンを弱体化した。さらに様々な技術が海外に流出し、いまでは日本製以上の性能の製品が作られているものも多い。利益重視で動いてきた各企業と、それを監督できなかった政府や関係機関の失敗である。

 コロナウイルス流行で貿易不可能もしくは制限がされる状況となり、ウクライナの戦争で原料確保が難しい状況が生まれ、さらには歴史的な円安が進行する中で、改めて国内生産の意味が問い直されている。日本で作っても利益が上げられるかもしれないと考える企業が増えたようだ。

 エネルギー資源がない我が国にとって、円安の影響は大きい。単に日本で作ればよいということにはならない。ただ、生産拠点を日本に戻せばそれに関係する雇用は生まれる。農業資源なども国産に切り替える方法で新しい可能性が生まれるかもしれない。環境汚染などの問題にも直面することになるが、昭和のような惨状は再現されないはずだ。ものづくりの在り方が変わるかもしれない。

 おそらく、大量生産大量消費の方法ではなく、高品質長期使用、修理による継続使用のビジネスモデルが日本には向いている。ある程度、国内で循環させていけば為替相場のよくないときはそれで対応できるのではないか。さらに、かつての日本がそうであったように独自の進化がなされていけばかえって世界的に評価されるものもできるかもしれない。

すすき

 スマホの画面から目を離して車窓を見ると圧倒的なすすきの穂が広がっていた。今日も夏日になりそうだが秋の風景は確実に広がりつつある。

読書感想文のすすめ

感想文は嫌な思い出?

 意味のない宿題の代名詞とも言えるのが読書感想文である。無駄であり、害悪だと難ずる人もいる。だが、私は敢えて読書感想文を勧めたい。特に大人に。

 読書感想文が宿題であるのは確かに問題だ。宿題ともなれば他者と共有される品質が要求され、評価されることを意識してしまう。ただ、感想というのは極めて個人的なものであり、どうあるべきかという基準などない。科学的評論を読んでロマンを感じる人もいれば、ミステリーに哲学を感じる人もいていい。感想に正解はない。

 読書するときに何を感じたのかを書き残すのは意味がある。まとまった文にならなければ断片的なメモでいいと思う。何を感じるかは読書のタイミングによっても変わるはずだ。そもそも自分自身が心身ともに刻々と変化しているのだから。

 何を感じたのかをあとから見直すことも意味がある。自分の変化も分かる。大切なのは素直に自分の言葉で書くことだろう。とんでもない誤読をしている可能性もあるがそれも含めて読書感想文に書いておくとよい。

 私の場合は野帳にメモのような感想を書くことにしている。かつては一字一句正確に書き写して引用していたが、いまは自分の言葉でまとめ直している。肝心の機微情報は削ぎ落とすことになるが、自分が感じ取ったことだけでも残せば意味があるのではないかと考えている。

言い当てる

 自分の中に可能性があるとしたらなまだ言語化できていないことに関心を持つことだと考えている。

 自分にはあふれる才能があるなどとは少しも考えていないが、それでもまだできることはあるのではないかなどとかなり楽観的になることもある。そのためには自分の未開拓の側面を知る必要がある。

 ここで言う知るとは言語化のことと考えておく。もっと深層で悟ることもあるかもしれないが、その方面は後まわししよう。自分にできることは何かを手持ちの言葉で探り出す。恐らくできないことに気づいてそれに振り回されるかもしれない。それでもしつこくできることを書き出してみたい。

 同じようなことを多くの人が述べている。私の言っていることはいわば当たり前のことだろう。でもそれを実践できるかどうかは個人差がある。多くの人ができない。それをあえてやってみたい。

葬儀は誰のため

 銃弾に斃れた安倍元首相が国葬されることになった。賛否は分かれる。否定的な意見がやや優勢だ。安倍氏がもし発言できるとしたら、自分の葬儀を国葬にしてほしいだろうか。私はよくわからないがおそらく断るのではないかと考えている。

 国葬は何のためにあるのか。国民が喪にふすためというならばこの行事はやらない方がいい。安倍氏の業績は大きいが、国民の大半には不利益しかもたらさらなかった。つまり、日本経済をその場限りの延命策で持ちこたえさせられたのは大きな功績だが、イノベーションもしばしば発言された女性の活躍も達成できなかった。

 国葬をやることに意味ないかといえば、私はなくはないと考える。これを口実にいろいろなことが始められるのはいいことだろう。統一教会などカルト宗教と政治の関係を見直す機会としてはいい。また安倍氏の死去にかこつけて日本に訪れる弔問使節を外交の相手として活用することは大切だ。

 議員を銃撃してはならない、政治は暴力によってはいけないというメッセージは出るのだろうか。狙撃手の家庭環境には大いに同情するものの、何があっても言論を暴力で消してはならない。それをすれば民主主義は終わるというメッセージはでるのだろうか。安倍氏の功績を評価する以前にこのメッセージを国民にしなければならないが、果たして行われるのか。はなはだ疑問だ。

 葬儀は死者を弔うための行事に見えて、実はまだ生きているものたちが自らの立場を確保したり有利に運びたいがゆえの闘争だ。つまり、棺桶の外側の問題なのである。日本がこの国葬を外交にいかに生かすのかが今後の課題なのであろう。

自画像

I’m here.

 自画像を残している画家は多い。中には群像の中に自分の姿を意図的に混入することもあるようだ。なぜ自画像を描くのだろうか。

 モデルが雇えないときの窮余の策として鏡に映った自分の姿を描くということはあったようだ。モデル料金もいらず、好きなポーズを好きな時間だけ取らせることができるのは自分自身だ。

 でも、十分な収入がある画家も自画像を残している。一種の自己顕示欲を満たすためなのだろうか。先に述べた他の目的の絵画に己の姿を描き込むのは、その意味もあるのかもしれない。それとともに、絵画の世界のリアリティの保証のために、自らの存在を追加したのかもしれない。絵はそれがどんなに精巧なものでもフィクションだ。それがリアルな世界と交流する手段として、自分を登場させたことになる。

 もしかしたら風景とともに自分を撮すセルフィにも同じ精神があるのかもしれない。どんなにきれいな風景でもデジタルに変換した時点でリアルではなくなる。電子信号の集合体に過ぎないのだ。そこにせめて自分の姿を加えることで、かろうじて現実味を残したいという気持ちが自撮りの要因の一つかもしれない。

介護職員の待遇改善は急務

お元気な方を支えたい

 高齢社会が進行する中で介護職の必要性はますます大きくなるばかりだ。ところが介護職員の不足は深刻て、介護する側も高齢者しかいないという状況にある。その原因の一つが介護職への社会的評価が低いことがある。

 高齢者の世話はかなり大変なことは間違いない。私も親の高齢者施設の訪問をして痛感している。人にもよるが幼児よりも手がかかり、しかも手強い。尊厳を保ちながらも、できないことは補わなくてはならない。

 かなりストレスのたまる仕事だ。心をつくして介護しても必ずしも理解されるとは限らない。逆に事実無根の非難がなされることもある。この人に虐待されましたと言われれば、職員の気持ちは折れてしまう。

 その悪循環が続けば介護職のメンタルも持たない。それほど大変な仕事なのだ。それなのに待遇が悪すぎるのはなんとかならないのか。日本人の給料が安いのはまず改善すべき課題だが、加えて職能による評価の再検討も必要だ。大学を出て標準的な能力を身につけることだけに好評価を与えてきた時代はそろそろ終わりにしていい。

 介護職は高度な経験と技能、さらにはメンタルの健全さも要求される。特殊能力が必要とされる仕事であることをもっと評価しなくてはならない。

なぜ風は吹くのか

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 小説などを読むとき、あらすじを大づかみにとらえて読むのは、一つの方法としてはいいと思う。ただ、単なる事実の因果関係だけを追っていても、作品の世界は理解できないこともある。

 例えば、ストーリーの途中に風が吹くという表現があるとする。風自体は登場人物になんらの作用も及ぼさない。その後の展開にも風が原因で起きることはないとする。こういうときになぜ風の描写があるのかを考えるのが読書の楽しみだろう。

 つまり、作家は何らかの意図をもって場面を設定するということだ。無意味な描写はその意味ではないことになる。なぜ天気が雨なのか、舞台はなぜ港町か、朝の場面がなぜ必要かなど考えてみるとより深い読みができる。もちろん、作家にインタビューでもしたら、気分でそうしたんだなどとはぐらかされるかもしれない。ならばその気分の内容を小説をとおして読者は考えるべきなのだろう。

 小説のあらすじを知ってすべてを理解したようにすること、ビデオを早送りして筋だけ確認する人など、こういう点も考慮してほしいと考える。

秋晴れ

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 久しぶりに良く晴れてさわやかな一日になりそうだ。このところ台風の影響で曇ったり急な雨が降ってばかりだったので、心を干したくなる。遠くから町の音が聞こえてくる。耳を澄ませている自分に気づくのである。

 明日からはまた忙しい毎日だ。今日はいつもと違う過ごし方をしてみたい。