月: 2022年5月

ドクダミ

ドクダミは追憶の花?

 ドクダミはいわゆる雑草の部類に入るもので多くの人が目にしているはずだ。どこにでも生えている白い4つの花びら(実は花ではないらしい)は印象的だ。私はこの花にいくつもの思い出がある。

 こどもの頃はこの花は嫌いだった。野遊びのときこの草の放つ独特の臭いが嫌だった。名前に毒がつくのも気味が悪い。これを摘んて乾燥し、煎じて飲むと薬になるといって叔母が飲んていた。一口しか私は飲めなかった。

 学生となり、訳あって俳句を作るようになると、この花が十薬というのだと知った。昔から民間薬として利用されており、多くの人を救って来たことも知識に入った。毒ではなく、毒を矯めるという植物だったのだ。これを知ってドクダミへの関心は高まった。

 学生時代に友人と旅したことがある。何故かその中に北陸の古刹があった。広い境内のあちらこちらにドクダミが群生しており、その奥に踏み込むのを拒んでいるかのようだった。他にもより美しい価値ある植林もあったはずなのに、白い十字ばかりが記憶に残る。

 就職して地方に住むことになり、戸建の家を借りて住み始めたとき、ドクダミは草刈りの対象となった。地下茎で繁殖し切断しても生き残る生命力の強さは難敵としての地位を確立するに十分だった。この強さが毒に勝つ源なのだと敵ながら認めていたのである。

 もう何年も前だか職場の先輩が事故死する不幸があった。慕われていた方だったらしく、葬儀には実に多くの方が参列した。その長い列の脇に十薬の列もあった。これも何故か印象に残っている。

 隣家でドクダミの変わり咲きが栽培されているのを知って驚いたこともある。十字の萼の部分が薔薇の花弁のように八重になっていた。園芸種としてあるらしい。この家の主が花好きであったようで他にもたくさんの植物が植えられていた。通行人の目を楽しませてくれていたのだが、数年前に代替わりしたのか家主が変わったのか、あらかた植物は抜き取られてしまった。ドクダミの変わり咲きもそれから消えてしまった。

 実家の庭もいまは手入れをする人がなく荒れ放題だ。たまに見に行ってもさすがに手に負えない。多くの雑草の中に当然ドクダミも覇権を争っている。この夏には手入れをしなくてはと思いながら何もせずにいまに至っている。

 ドクダミには他にも様々な思い出がある。どうもこの草花には過去の記憶にはりついてくる特性があるようだ。花言葉を調べたところ白い追憶だという。やはりなにかあるのかもしれない。

自己肯定

 ラジオから可愛らしい女性の声が聞こえてきた。曰く、私には才能があるんです、だから私と仕事をすると必ずいいことがあります。冷静に聞くとかなり自信過剰な物言いだ。

 若い世代には自信がない人が多いという。他人からなにか言われると影響されやすく、世間体を気にしすぎる。挫折しやすいなどと。少子化の影響もあって競争の経験が少なく、挑戦よりは現状維持を優先するなどと散々な言われようだ。

 彼らが伸びていくためには適切な自己肯定と失敗を含めた経験が必要だ。先に述べたポジティブなDJもその意味では貴重だと言える。彼女の最初の夢が潰えたときに、それでも再挑戦が可能な社会にすることを私たちは目指さなくてはならない。若い才能を伸ばすことは若くない人々にとっても死活問題なのだから。

少し先

 

未来は分からないけれど

自分に未来を見通す力はない。あればもっとマシな人生を送っているはずだ。ないからいつも時勢に振り回されている。夢や希望を忘れないように心掛けたが、いつも進路変更を続けてきた。そんな愚鈍な者でも感じていた未来がある。

 こどもの頃は当たり前だった買い物かごを提げている主婦の姿が、現代に現れている。エコバッグなどという名前がつき、収納可能なビニール袋だが、この姿が現れるだろうとはかなり前から予感があった。恐らく次は飲み物や液体調味料の量り売りの形態が復活するだろう。

 ブランド品が法外な値段で売られていてもそれを買うことで満足していた時代があった。持っているだけでステータスのように考える人がいた。いまもそのブランド信仰者はいるが若者には少ない。経済的に厳しいこともあるが大量生産で利益を上げすぎたブランド品が、品質やデザインの優位性を示せなくなったことが大きい。数は少ないが価値は高いというものだけが高級ブランドとして認められるようになる。そして長い間使い続けられる。そういうものに価値を感じる時代が来るはずだ。

 我が国の経済力が縮小傾向に向かうことは避けられない。ただし、いまとは別の価値観が生まれ、思うほど貧しくはならないかもしれない。量より質が重視され、質を保つための適度な出費は惜しまないという消費行動が円熟した国家の国民の方向性の一つとなる。

距離感

 渋谷に住んでいたとき銀座は遠いと思っていた。もっと近くの六本木さえかなり時間がかかると思い込んでいた。最近、たまにその地を訪れるとそれらが実は隣接していることに気づいた。

 隣接というのは誇張に過ぎるがそれほど遠くはない。歩いて行ける距離だと知ると少々驚いている。近くに住んでいたときより、離れてからのほうが距離感がつかめたということになる。

 もちろん自分の身体が成長したことや車を運転するようになったことなどは距離感覚に大きな影響を及ぼしているのは確かだ。ただ、それだけではなく東京を俯瞰する視点が区民でなくなったことによって身についたのだろう。こういうことは多方面にあると考えられる。

みかんの花

みかんの花が咲いている

 近隣の庭木の?みかんの花が満開になっている。ずっと蕾だったのが気づいたら開いていた。その実が目立つのに比べるとやや地味な白い花であるからか気づいている人は少ないようだ。

 花の付き方は良好で今年も多くの結実が見込めそうだ。毎年実がなるのを見ているが木の持ち主が摘果しているのを見たことはない。ヒヨドリやその他の小鳥が甘熟した実をつつくばかりだ。

 毎年、みかん泥棒を試みることを思うが、自制心の方が勝ってできていない。実は相当おかしな味なのだろうなどと勝手な言い訳をつけて見送り続けている。

 ただ、あのときじくのかぐのこのみを見てみたいという気持ちは強い。木もそして自分も健康にあらねばならない。

割に合わない

 戦争が終わらない。なぜここまで戦い続けるのか分からない。核兵器や化学兵器を使わないところには一抹の正義は残っていると見るべきなのか。

 様々な歴史の教訓で戦争は割に合わないことは周知の事実だろう。破壊した分だけ修復に費用がいる。何よりも憎しみという負の遺産は数世紀にわたって禍根を残す。それが大きな損失に繋がる。

 対立が感情的な要因によるのならばそれを制御する必要がある。怒りや恨みでは何も解決できない。功利的な目的ならば他の方法を探すべきだ。戦争はあらゆる面で割に合わない。

石楠花

シャクナゲ鮮やか

 近隣の庭で石楠花の花が見頃になった。鮮やかな赤の花である。唱歌に黄昏の色に喩えられたのが有名だが、その黄昏は随分華やかだったことになる。

 躑躅が咲き揃い街のあちこちに彩りの仕切りを作っている。石楠花は群生させるのには向かないのか。独立して植えられていることが多い。主役といった趣きがある。その鮮やかさは確かに目を奪う。

 多忙な毎日が再開した。次は夏まで長い休みは取れまい。折々の花鳥に励まされながら、遅速を恥じて進み行くしかあるまい。

5月病

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 連休が終わると体調を崩す人がいるという。私などは休日の次の日はいつも憂鬱だが、病気という範疇には入らない。逆に言えばいつも半病人だ。

 5月病の原因の多くは生活のリズムの崩れによるそうだ。休みになれた身体がいきなりアクセルを踏むとエンストする。古いたとえだがこれがその本質らしい。だから、連休明けは思い切り連休ボケをかますのがいい。上司に白い目で見られても、エンストよりはましだ。それどころか休養した分、速く走れるかもしれない。監督者は長い目で見てほしい。選手を短期間でつぶすのはあなたの指導力が足りないのだ。

 とはいえ、いろいろと不安になることは多い。まずは焦らず、他人と比較しないことだろう。自分なりのやり方があると信じるべきだ。5月は気候的にはいい。連休で培ったのんびり過ごす方法を維持することが、実は最もよいパフォーマンスを出す方法なのかもしれない。

連休最終日

 あっという間に連休も最後の日になってしまった。遠出はできなかったが何冊かの本を読むことはできたのでよしとしよう。休んでいて気づいたのは日常が多忙過ぎるということと、その中にはやらなくてもいいことが含まれているという事実だ、無駄とは言えないが省いていいものは止めていく覚悟がいる。そう確認したのがこの休みの収穫と言えるのかもしれない。

休めましたか。

都合のいい世界

その機械は現実からの目隠し?
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 メタバースという仮想世界に対してアメリカのメタなどの会社が覇権を握ろうと躍起になっているらしい。とてつもないビジネスチャンスがあるらしいのだ。現実では実現できないさまざまな願望を疑似的に満たしてくれるもう一つの世界を演出してくれるというのだ。

 仮想現実というのはゲームの世界だけかと思っていた。しかし、このメタバースの世界はそのなかで商売を行ったり、教育を受けたりすることができるらしい。疑似的な交友関係や結婚も可能になるかもしれないとか。しかもそれは現実社会では得られない自分にとって都合のいい条件で満たされているというのだ。

 もう一つの世界という言い方は多分間違っている。その世界はたぶん一つではない。個々人が思い描く理想をそれらしく見せてくれるものであるから、人それぞれにメタバースがあることになる。他人との接点を持とうとすると、折り合いをつけなくてはならなくなる。すると共有メタバースのようなまた新たな世界が用意されるのかもしれない。

 こうした都合のいい世界を演出するのは技術力を持った巨大企業だ。前述のメタもそうだが、いわゆるGAFAM(社名変更でこういえなくなったが)などのハイテク産業が新たな世界を構築して商業世界を飲み込もうとしている。日本はコンテンツの面で優位にあるが、それもいつまで続くか分からない。ポケモンもドラゴンボールもアメリカの漫画と思っている人が少なからずいる。私たちはメタバースという新世界を楽しむと言いながら、実は企業にとって都合のいい世界を間借りして現実逃避をしているのに過ぎない。

 メタバースに商機があるのは事実だ。チャレンジする価値はある。ただ、現実社会を捨ててまで没入するべきではない。現実を忘れて仮想世界でいくら活躍しても、それは夢物語に過ぎないのだ。このように考えると、メタバースは宗教にも文学にも見えてくる。現実社会を豊かにする材料としてあるのならば存在価値はあるのかもしれない。