月: 2022年1月

紙芝居

 自宅のWindowsパソコンが急に壊れてしまった。どうも物理的な損壊らしく修理に出せば直るかもしれない。恐らく原価以上の請求になりそうなので諦めざるを得ない。最近は授業もPowerPointで行っており、少なからず家で作っていたところもあるので大いに困ってしまった。

 もちろんかつてのようなチョークアンドトークに戻ることも可能だ。ただこれは色々な意味で非効果非効率だ。書くことに生徒も教員も集中してしまうと、大切なものがぼけてしまう。見ればいいことだけは映写で済ませ、大切なことだけをメモさせたい。

 自宅には更新期限切れのChromebookがある。使えるには使えるが国語教員としては致命的不足がある。縦書き編集ができないのだ。裏技で縦書き風に見せることはできてもそれをいちいち作ることは無駄な時間を費やす。

 そこで割り切って、自筆のノートをスキャナーで読み取り、それを映写することにした。ノートづくりはアナログとデジタルの両生類の私がこれまでもやってきたことで苦はない。職場でスキャンしてPDFにしてそのまま映写すればいい。

 手書きだと自由にレイアウトや図案化も可能だ。ただやはり書くのには時間がかかる。コピーやペーストはリアルに行えばいいと考えた。実物を残す必要がないので切り貼りして再利用すればいい。

 気をつけなくてはならないのは字の大きさだ。普通のノートのように書いていたら細かくて読めない。だから少々大げさなほど大きな字で書けばいい。

 これで暫く試してみようデジアナ両生類にはもしかしたらベストな選択かもしれない。

成人

成人の日は私にとってはもう刺激のないものになっている。成人の定義がまったく現実とあっていない。精神年齢的にはもっと上の年齢を設定すべきだと思うし、経済的にはもっと下でもいい。早く独立して稼げるような仕組みもあればいいと思う反面、しっかりと人格形成をしたほうがいいとも思う。つまり成人の境は非常に曖昧で難しい。

日本の少子化は全く収まりそうもない。この後の時代には大量の高齢者がなんとか自活をして生き、そして力尽きていく。若者はその煽りをうけて苦しい生活を続けるか、もしくは画期的な方法でこれまでにない社会を作る。私は後者になると考えているが、そのためにはあまり年寄りが出しゃばらないほうがいい。

Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

新成人には申し訳ないがいまの日本では黙っていても幸せになれるような状態ではない。自己開拓で新しい時代を作るしかないのだ。起業独立を考え続けてほしいし、過去にとらわれてはならない。誰も知らないことを始める必要がある。

ただし、踏み外してはならないのは利他的な観点だ。自分さえ良ければいいというのは成人の先輩たちが犯してきた大失敗だ。一見良さそうに見えるが実は致命的な結末がある。他者を不幸せにする方法はすぐに自分に跳ね返る。だから、自分を含めた周囲の人を幸せにするという視点を持ち続けるべきであるし、その範囲を広げていかなくてはならない。

だから独立することがだけが能ではない。場合によっては協働し協力することが必要になる。お互いが目的をもって協力すれば相乗効果でより素晴らしいものが生まれるはずだ。もちろん意志をもった者同士が意見を言い合えば衝突もある。それを乗り越える方法も確立していくべきだ。

みなが幸せになるためには何が必要なのか。今何が足りないのかを考えればそこに自立の緒がありそうだ。実は私自身もそれを常に探している。成人になるというのは社会や世界を考えながら生きるということではないかと考えている。



孝行のこと

古典の世界では親孝行が一つの普遍的テーマになっている。儒教の影響だろう。親孝行は無条件の命題だ。だから若い世代がいかなる犠牲をはらっても親に奉仕することが美徳とされている。

では実際にすべてがその理想にかなった人ばかりだったかといえばもちろん否である。孝行話が称揚されるということはそれだけ孝行をすることが困難であったことの裏返しであったはずだからである。姥捨伝承のような棄老伝説はそれが極端化したものであろうが、現実にはそこまではいかなくても完全な高齢者庇護が実現できるわけはあるまい。厳しい現実がこれまでもあったのだ。ただ孝行が社会全体の徳として認識され、実現できるか否かは別として行動規範として共有されていたことは事実だ。

それでも自然のなりゆきで老人が他界し、後継者がその後をつぐという人生の循環がなされているうちはよい。個々の人生には厳しい局面があるが、社会全体としては安定が保たれているのだから。現代の高齢社会のあり方を考えると、孝行するべき若い世代が極端に少なく、老いていく世代が多すぎる。孝行は理想を超えて、非現実的なファンタジーになっていく。もう孝行の幻想からは逃れなくてはならない。

近世の孝行譚を読んでいると共通するのは滅私の考え方である。自分の快楽を犠牲にしても親に尽くそうとする人の姿が描かれている。それを支えていたのは儒教的な精神環境だろう。今の私達にはその考えはない。それぞれの個人には幸福を追求する権利があると考えられ、誰かのために自分の人生を差し出すことは好まれない。これでは社会はバラバラとなり強者が弱者を踏み台にして利益追求をしていくことになる。現代生活はそれを具現化しているともいえる。

自己をなくさず、自分本位にもならないという選択はあるのだろうか。自分の幸せを追求することはすばらしいと考える段階ではこの道は開かれない。他人のことを考えるより、自分の将来を考えることに精一杯だからだ。

そのためには私達の考え方が進化しなくてはならない。個々人の幸せは一人の幸福追求では達成できないということを知識ではなく行動で実践できるようなるべきなのだ。地球環境の問題はそれを可視化する。自分さえ良ければいいと思ってやっていることが、やがて環境そのものを破壊し、自らの首を占めることになるのだ。

孝行の対象が自分の親だけではなく、地域や共同体、世界全体に及ぶようにしなければ私達は立ち行かないのだということを毎日の行動で示せるようにならなくてはならないのだろう。すでに知識としては獲得できている。しかし行動は別になっている。自分の人生をすべて捧げる必要はないがだれもが自分以外の存在のために何らかの行動を常に続けること。それができるようになれば、人類の歴史はまだ安泰かもしれない。多くの生物が進化に行き詰まり絶滅したことを考えると、人間が同じ轍を踏むことも考えられる。ただまだ分からない。

エッセンシャルワーカー

 コロナウイルス感染者が急増して再び世間は自粛モードに戻ろうとしている。オミクロン株の影響なのか今回は感染力が強いらしく、医療機関従事者の感染も多いと報じられている。最近のキーワードにエッセンシャルワーカーというのがある。どうも社会インフラの基盤を動かす人たちのことをいうらしい。

 医療や福祉、衛生関係の仕事についてはこの定義があてはめやすい。警察、消防なども同様だ。他にも運輸、流通なども含まれる。世の中は相互依存の関係にあるので何がエッセンシャルなのかは実は分かりにくい。

 教員も含まれるらしい。確かに教員の罹患はいろいろ面倒なことになる。特に真面目に教育している教員ほど他に替えがたい。学校が止まれば、家庭にも影響するから、社会にも多大な影響がある。

 誰もがエッセンシャルワーカーだとは思うが、教育関係者である以上、健康管理には留意しようと考えている。

現役エンジニアから学ぶならテックアカデミー

雪の次の日の注意

 予想以上の積雪になった。といっても雪国経験者に言わせれば大したものではない。ただ、除雪のインフラや住民の経験がない関東南部の住民にとって今朝はかなり危険だ。降雪が一部解けて放射冷却現象のために凍結している。うっかりいつものように歩くと転倒する可能性が高い。

 靴底にグリップがないものは今日はやめた方がいい。またあっても過信はできない。坂道などが凍結している場合は最大限の注意が必要だ。歩くときには少々不格好でも重心を落として小股で歩くのが鉄則だ。歩道橋などはできれば避けて遠回りをした方がいい。自転車、バイクも今日はやめた方がいい。あなたの運転がうまくても周りに巻き込まれる可能性がある。

 冬に札幌の町を歩いた時、凍結した路上をヒールの高い靴で歩いている女性を多数見た。信号が変わりがけに小走りになることもあったが実に自然だった。滑り止めをつけているのかもしれないが、むしろスケートのようにわずかにエッジを効かせていたのかもしれない。そういう達人になれば別だが我々はまねしないほうがいい。

 今日の午前中こそ不要不急の外出はやめた方がいい。でもそうもいかないという人は手袋を忘れずに。そして転倒しても落ち着く。他人が転倒しても笑わない。次は自分の可能性が高い。

降雪か

 関東地方でも雪が積もるかもしれないとの予報が出ている。今朝の冷え込みや湿度、やや厚い雲などを見れば当たるかもしれない。ただし、儚い雪になるだろう。

 北陸に住んでいた頃は雪が降るとなるとちょっとした覚悟と決意がいった。朝の雪掻きは結構な重労働だし下手をすれば腰を痛めたりする。転倒すれば怪我の可能性もある。しかし、やらねば生活がまわらない。雪国ネイティブではない私はその都度緊張した。

 東京に戻って雪国生活のことは年々忘れている。今日も靴の底はかなり滑りやすいものを履いている。ただ、降雪の予報を知ったときのそこはかとない焦燥はまだ残っている。

第6波到来

 コロナ感染者が増えだした。世界的にはすでに多くの国々で感染者が激増していたのに日本は異常なほどの低水準であったが、ここにきてその波に飲まれつつある。多くの人が予想していた通り、年末年始の人々の移動も要因になるはずで全国的に広まる可能性が高い。感染予防には万全を尽くさなくてはなるまい。

 オミクロン株感染者もすでに1200名近くに達し、市中感染としか考えられない事例も増えている。報じられているようにこの新種は感染力は強いが重症化の率は低いようだ。とはいえ確率の話であり、個々の状態はそれでは計れない。警戒は欠かせない。

 ただ、私たちはなんどもの流行を経験し、単に閉じこもるだけでは立ち行かなくなることを悟りつつある。動けるものは動かなくてならない。動かせるものは動かさなくてはならない。こうするとまた別の意味の格差が生まれるという可能性もある。条件が悪い人を助ける方法も確立しなくてはならないのだろう。

 分配という言葉は先の選挙での争点になっていた。一見理想的な話のようだが、経済の専門家に言わせればそうでもないらしい。格差ができるのは資本主義の宿命であり、格差がないことは資本主義がうまく機能していないことなのだという。なんとも残念なことだが、そもそも貨幣経済そのものが差を生み出すことで利益をもたらす仕組みであるのだからある意味当然ともいえる。

 だから、首相が一時固執したような金融課税のような方策は資本主義国としては要注意なのだそうだ。富裕層が見切りをつけるとその国の経済が立ち行かなくなる。むしろビジネスチャンスが多い方がいいというのである。政府も最近その方向に転換しようとしているようだ。

 富裕層が増えれば経済活動が活性化するのかといえばそうでもないような気がする。格差が拡張すれば結局大きな社会問題になる。等しく豊かにという社会主義的方策を続ける中国も、どうやら資本主義の軛からは逃れられそうもない。

 制度的な分配策よりも自主的な篤志を促す方策の方が結局はいいのかもしれない。自主的に困っている人や頑張ろうとしている人に援助できるシステムを作るのはどうだろうか。寄付に対するより大きな減税や褒賞をより分かりやすい形に示すのもいい。昔の日本はかなりのムラ社会ではあったが、同一集団に対しては相互扶助の機能も働いていたようだ。その長所は生かすべきでないか。

 コロナウイルスが大流行するたびに思うのは、人間は支えあわなくては無力だということだ。嵐が吹くときは助け合わなくてはならない。

仕事始め

 今日から仕事を再開する。年が変わっただけのことであるが、時間に区切りをつけて気分を変えるのは人類の叡智と考え、それにあやかることにしたい。

 やるべきことを書き出してから始めることにしようということは、昨年も途中までやっていた。いわゆるバレットジャーナル風ノートに書いていたのだがどうも続かなかったので、今年はスマホやタブレットのタスク管理アプリで行う。自分もこうしてデジタルの世界に取り込まれていくのだと実感している。

 毎年思うが今年も自己改革したいと考えている。挫折するまでは。

数学的思考

 ある人のインタビュー記事を読んでいたら、多くの人には数学的思考がなさすぎるという。そのために事実誤認が生まれ、さまざまな悪影響に繋がるというのだ。

 確かに私は物事を経験的な感覚でしか捉えていない。そしてその多くは間違っている。だか、私以外の人も同じような間違いをおかしているので困らないのだろう。

 日常些事ならばそれで済む。ただしこれが累積し、継続性を持つようになると大きな問題になる。科学的思考がとれなくなると、思い違いで酷い結果が増幅してしまう。それは損失以外の何者でもない。

 不利益を受けるのが自分だけならば自業自得だ。それが他者に影響するとなると問題は別次元になる。後生に課題を残すならばさらに問題だ。SDGsよりも大切なのはまずは思い込みによるエラーを減らすことにあるのかもしれない。

 数学の理論を学び直すのは容易ではない。ただ、単純な算術でもよいから、理をもって考える癖をつけなくてはならないと痛感する。

今年の目標

 このブログは主に自分を励ますために使っている。読者の皆さんにもこの自己暗示が何らかの役に立つのではないかと考えて公開を続けている。お付き合いいただいて本当にありがたく感謝に堪えない。

 今年の目標を書いておこう。言ってしまった限りやらざるを得ない。そういう状況に追い込むのが目的だ。

 まずは古典文学の紹介サイトを作りたい。長年、国語の教員をやってきたが最近はその場しのぎの消耗する授業ばかりになっている。このあたりで受け手の心に訴える話を残さなくてはならないと考えたのだ。さしあたっては大人向けの古典文学再入門のコンテンツにしたいと考えている。もちろん最終的には有料サイトにすることを目指したいが、とりあえずは多くの方に見ていただけるものにする。いまご覧になっているブログにもリンクをはる。

 次にボランティア活動の開始だ。多忙を理由に地域との繋がりがまったく築けていない。私のようなシニア予備軍世代でもできることを少しずつ始めよう。何をするのかは具体的には決まっていない。少しでも私の経験を活かせるものがあればやってみよう。

 そして、最後は健康の維持だ。これが他人に迷惑をかけない最善の策かもしれない。何もしないと衰えてくる身体のあちこちを健全に保つためにやるべきことを続けよう。ブログでもこの点を話題にしていこうと考えている。

 ほかにもいろいろあるが風呂敷を広げ過ぎるのもなんだと思う。この記事の読者の皆様には願わくはこれらの記事が空しくならぬよう少しだけ関心をお持ちいただければ幸いである。