月: 2021年7月

道具

 ITがどんなに発達したとしても、それが道具であることに変わりはない。そのことを忘れると道具の道具にされてしまう。

 私たちの知っている大工道具や文房具と比べると、電子化された道具はかなり容態が異なる。人工知能のような道具になるともはや人格さえ感じる。カズオ・イシグロの『クララとお日様』のラストシーンの決まり悪さはもう道具が道具と見えないことによるものだ。

 でも、もう一度考える必要がありる。私たちは道具を使っているのであって、道具に使われてはならない。当たり前なことなのだがいつの間にか忘れられてしまっている。

 道具を使いこなすのは身体だけではない。それを使う精神も健全でなければならないのだ。

たわごと

 野球観戦に行くと独り言を言うおやじさんが必ずいる。興奮すると独り言のボリュームを忘れてしまうようで周囲の人も巻き込むことになる。何でここでカーブを投げるんだ。俺なら絶対ストレートなのに。その声のもとをみるとスポーツには無縁の姿がある。苦笑いが周りに起きる。

 他人事のように書いたが、当事者になったこともあるはずだ。興奮すると記憶は曖昧になるし、その場で消えてゆく音声はもうもとには戻らない。

 ところがいまは少し厄介だ。同じような独り言をソーシャルメディアに書き込む輩がいる。しかも自分の顔を晒すことなく言い続けている。書かれたものは時空を超えて残り続ける。しかも出来心なのか誠心の叫びなのかあとから区別は難しい。本人は書いたあとにいくぶんのカタルシスを得られるかもしれないが、言われた方は永久のダメージを受ける可能性がある。

 ソーシャルメディアへの書き込みが実は書き手の遡及可能であることを技術者は打ち明けた方がいい。ネットというメディアが手続きを踏んでメッセージを送っている以上、どこからどこに送信されているのかは分かるはずなのだ。恐ろしいことだがすべては記録されてしまう。近年のコンピュータの発達を考えると、いままでは不可能と考えられていたことができてしまっているというしかない。

 たわごとを言うならば周囲に気をつけるべきだ。ましてネットに書くべきではない。あなたは過去にこのような発言をしていますと秒単位のログとともに指摘されることになる。

 もちろんこのブログも同じことだ。だから、少なくともここ数年は直接他人に言えないことは書かないようにしている。

スポーツの境界線

主に女子のユニホームを巡って論争が起きている。露出度の高いユニホームをなぜ着なくてはならないのかということで、差別問題にも発展しそうな勢いもある。

ビーチバレーのユニホームがビキニスタイルなのはその方が競技にとって好都合だからかと思っていたが、どうもそうではないらしい。規定がありそれ以外の選択はできないと聞いた。体操ではドイツチームが長袖タイプのユニホームで登場した。これには規定はなく、奇抜でなければ長さは無関係とのこと。身体の美しさを競う芸術性競技においては見せ方はかなり大きな問題になる。今回の選択はチームとして大きな決断だろう。

 陸上競技とりわけ短距離や跳躍系のスポーツではかなり露出度が高いユニホームが使われている。空気抵抗の低減のためという。おそらく何も着用しないのが記録上は良いのかもしれない。

 スポーツが純粋に競技性を追求すると、ユニホームのあり方は無関係となる。それをある方面に固定するのは文化的な問題だろう。日本の国技の中には文化的な要素を強く持っているのものが多い。だから、柔道では礼儀や整容が重んじられ、青い道着には抵抗感を持つ人が多い。大相撲では女性は土俵に触れることすら許されない。

 国技がスポーツ化してさらに国際化したとき、文化的拘束は少しずつ解放される必要がある。何を着るかと言うことに関しても変わらねばならない段階があるのかもしれない。

光の表現

 光を表現することは実は難しい。光そのものは色はないし、物質としての実感もわかない。だから、光そのものは描けず、光によって投影された物体を感知するだけだ。反射する光の種類によって色彩が現れ、形として見える。光とものとの織りなすライブが私たちの世界だという。

 ブラスを表現するにはマイナスを取り上げればいい。それも伝統的な手法だ。闇の中に差す一条の光は分かりやすい。ないところにあるものは感じられる。

 光を表現することに私はもっと関心を持ちたい。比喩的な意味も含めて光を表現することを最近諦めている気がする。光は当たり前ではなく、特別なものでもない。ただ、その正体に関心を持つことはこれからもっと大切になりそうだ。

非国別対抗

 オリンピックで選手の活躍が報じられるとさすがに心躍るものがある。劣悪な環境の中、努力を重ねた成果を出せた選手は素晴らしい。また、たとえ勝負では負けても大きな試合に出られる事自体が称賛すべきだと考える。

 その上で、最近しばしば考えるのはオリンピックはもはや国別対抗にする必要はないのではないかということだ。メダルをいくつ獲ったかということに国力を重ね合わせる時代は終わっている。そうでなくても一部の恵まれた環境の国や地域の選手が勝利しても感動は半減する。

 ならば、もう国対抗はやめて別の枠組みを考えるべきではないか。クラブチームのような形態も考えるが、これも商業的な力関係に左右される。多くのプロスポーツで力の不均衡が起きてしまっているのはそのためだ。ならば、何がいいだろう。原則として個人の自由でチームを組めるといい。もしくは皆で金を出し合い、ほぼ同じ条件でチームを作って公平性を担保するのもいい。

 実際はそうかんたんには行かないだろう。それでは誰がスポンサーになるのだ。選手やチームにどのように思い入れを持つのか。帰属意識のないスポーツなどそもそも存在するのか。難問は色々あるが、非国別対抗の枠組みを考えてもいいのではないか。例えば7月生まれチームのようなものを考えている。笑うことなかれ。

ハンディファン

 手持ちの扇風機を持ち歩く人が増えている。我が家でもこれをサーキュレーターとして使っているが、電池が長持ちして意外にも使える。

 扇風機のようなものを持ち歩くことは以前から一部の人がやっていた。柔らかいビニール製の羽を使えば仮に皮膚に当てたとしてもめったに怪我はしない。ただ問題は電池の持ちであった。乾電池をその都度消費するのも面倒だしもったいない。だから広まることはなかった。

 ところがUSBポートなどから簡単に充電ができるようになり、稼働時間もそこそこ長く、質量も気にならないハンディファンは使い勝手がいい。ヒット商品になるのもうべなるかな。

 気になるのは風向きエチケットがどう守られていくか。大量の充電池の再利用のめどはあるのかといったところだ。傘がサブスクリプションで提供される時代だから、次はこれかもしれない。

台風

 オリンピック期間中の天候異変はある程度は仕方がない。天気は誰にも操作できない。とりわけ台風は全く人智を越えている。

 今回のオリンピックは日本のおもてなしはあまり発揮できていない。一年延びて経費がない中で、なおかつもてなしの本質である対面的サービスが禁じられているとあってはできることは限られている。コロナのせいで素直にゲストに接することもできない。だから、せめて試合をする環境だけはフェアでよいものにしてほしい。オリンピックはスポーツの祭典なのだから。

 高温多湿はどうしようもないが、台風だけは何とか軽く済ませてほしい。屋外のスポーツは天候に左右される。実力が発揮できるように、台風のない国からの選手が不利にならないように願うばかりだ。

俳句的積み重ね

 目の前にあるものを表現するのはかなり難しい。非定型だし、常に変化をしていてとらえどころがない。どこかに価値の物差しをおいて、そこに引っかかるものだけを描くしかない。たいていの場合それに絶望し、表現すること自体をあきらめてしまう。

 芸術家と呼ばれる人はこの点についてストイックであり楽天家でもある。自分のアンテナで捉えたものを表現することに躊躇しない。だから、多くの場合難解であり、その中のいくつかは多くの人の心を捉える。おそらく芸術作品というのものはそういうものなのだろう。

 私が持っている貧弱な概念と言葉でいうならば、俳句的な表現で世界を描くことを目指していくべきだと考えている。俳句の伝えられる情報量は少なく、自ら表現の方向性を閉じてしまっている部分がある。季語の扱いなどはその典型だ。実に窮屈であり、扱いにくい。これは人間の思考の仕方と同じだともいえる。限られたメモリの中で、かたよって狭い視野に、ゆがんだレンズを使って世界を見ている。それが人間の生理的な問題であり、歴史であり文化であり、様々な要因があることはなんとなくわかる。

 それを前提にしながらあきらめずに表現するしかないのだろう。目に見えること、感じられることを愚直に表現しつづけられること。それが芸術につながると考える。

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夜の野生動物

 かなりの人口を抱える街でも意外な動物を見かけることがある。今年は蛇の脱走が話題になったが本来いないはずの動物が繁殖してしまう例は多いようだ。

 先日、近隣の街角で犬でも猫でもない動物が道路を渡るのを見た。ハクビシンではないかと思ったがよくはわからなかった。住宅地の中を平然と歩いていた。

 おそらく誰かに連れてこられた動物がこの列島で命をつないでいる。招かれざる客と思うなかれ。我々人類も同類も知れないのだ。

未来のイベント

 今日から連休だ。オリンピックのための国家的な取り組みだが、ウイルス対策のため盛り上がらない。こんなことはめったにないことだろうから、ある意味貴重な時代を生きているといえるのかもしれない。

 考え方を変えるとスポーツやイベントのあり方の変節点であるともいえる。もしかしたら今後もイベントのあり方は変わってしまうのかもしれない。多数の人が一か所に集まり観衆としてイベントを支えるということ自体が珍しい現象になってしまうかもしれないと考えるのだ。

 もちろん私はこうしたイベントに意義を感じていないわけではない。むしろ、様々な立場の人が同じ空間を共有し、感動を共にすることには大きな意味があると思う。それがなければ世界はますます分断に向かい技術的にはつながっていても心が通じ合わない社会になるような気がしてならない。

 その上で、さらなる変化を想像する。人が同じ場所にいなくても心を通じ合わせることができる能力を身につける段階に至るのでないだろうか。もちろん例えば3次元映像のようなテクノロジーの支援もあるはずだが、私が問題にしたいのは空間的な乖離を超越する心の交流ができる能力を人間が獲得することがあるのではないかということだ。

 この夢想が現実となればイベントに人が密集しなくてもいい。巨大なスタジアムもいらなくなる。人の付き合い方もビジネスも大きく変わる。それがどんな風になるのかは分からない。そういう可能性もあるのではないかと考えるのだ。