月: 2021年7月

雑木林

 毎朝通過する車窓からの風景の大半は住宅街だ。しかもかなり密集していてこの方面の開発が成功したことを意味する。

 子供の頃もこの辺りに住んでいたがもっと緑が多かった。雑木林が点々と残り、そこにはいろいろな動植物がいたと思う。今残るのは緑地であり、管理下にある非住宅、非商業地帯である。散歩できるように頻繁に手入れが入るため、かつての禁足地的な雰囲気はない。

 安全性や周囲との関係性を考えると雑木林は都合が悪いのだろう。便利とともに多くのものを失った。ビルや住宅の群れをブナやらシイやら、さまざまな雑木の幻影としてみると不思議な感慨に包まれてしまう。

暑さとの戦い

 東京オリンピックの開催期間に関してはパンデミック以前から疑問に思ってきた。なぜ高温多湿の日々を選ぶのかまったく理解できない。

 ほぼ無観客開催となり、観客の熱中症の危険性はかなり減った。それ以上深刻なのが選手の体調だ。東京が年中熱帯なら仕方ないが、なぜわざわざこの時期にやるのだろう。

 台風などの害の起きる可能性が少ないのは確かだが、何かもっと商業的要因があるに違いない。天気だけはどうしようもならないのだから、スポーツに向いた時期を選ぶべきだった。選手の皆さんには小さなコロナと巨大なコロナの両方に打ち克っていい記録を出してほしい。

線路沿いの植物

 通勤電車からいつも見る風景にいわゆる雑草が線路沿いに生えているものがある。あまりに当たり前の光景なので大半は視界に入っても意識には上がらない。

 過酷な条件と思われる線路際にも結構いろいろな植物がある。過酷と書いたがたまに保線の際に草刈りが入ること以外は、人の出入りが禁じられており、むしろ植物にとってはサンクチュアリのようなものなのだろう。

 あらゆる場所で適合し、命を伝えていく動植物の力には改めて感動せざるを得ない。

心を描く

 心情は形のないものであり、それをどのように表現するのかは芸術家の力量に関わる問題である。

 絵画において人の感情は描かれる人物の表情や所作で表現される。歓喜も苦悩も描かれた人の姿に投影される。さらに人を描かなくても心情描写はなされる風景や静物の描写でも心理は描かれる。

 さらに、色彩や線の形状だけでも感情が分かることもある。こうなると根本的な脳の機能に訴えるものなのだろう。

 小説や詩歌などでも同じことがいえる。言葉の方が伝える幅は広いかもしれない。しかし、形なきものを描く難しさは変わらない。心の描写は永遠のテーマだといえる。

手仕事

 人工知能が何でも代替するようになればますます貴重になるのが一回限りの仕事の成果だろう。一点物の価値が重要になる。

 かつてはブランド信仰があった。有名ブランドさえプリントされていれば価値があると考えられていた。しかし、ものが出回り消費者の目が肥えると、結局大量生産されたブランド品を持つことに価値があるのか疑問視する人がでてきた。ブランドの魔法が解けた人には何が残るのか。それが手仕事による一点物の価値だ。

 生産者の腕がいままで以上に要求されるとともに消費者の目利きの力も大切になるはずだ。これはいい傾向ではないだろうか。

勤勉は日本人の基本なのか

 虎尾達哉『古代日本の官僚』はとても面白かった。日本人の基本的な気性は勤勉であるというのはどうも間違っているらしい。あるいはそのように思いたいという理想がそのように語らせるのかもしれない。本書によれば、古代の官僚は平気で宮廷の儀礼を欠席し、あろうことか出欠を取る際の代返システムまで用意していたという。組織的に怠惰を容認する体制が出来上がっていたことになる。

 日本人は勤勉という前提は考え直した方がいいのかもしれない。もっと柔軟で臨機応変の気質があったと言うべきなのだろう。

同音異義語

 音韻の種類が少ない日本語には数多くの同音異義語がある。漢字で書き分けることで書き言葉の体裁は保たれている。漢字廃止や制限に関する議論はいつでもあるが、この性質上安易な処置は言語の質を損なうことに繋がる。

 この不自由さはときに文芸の利点となることもある。和歌に見られる掛詞や序詞には同音異義語を意図的に活用したものだ。表現の幅を広げることにつながっている。

 同音異義語の言葉が関係する物語を書こうと思っている。文才はないがあくまで楽しみとして。多義語を絡めてもいい。言葉は使いようで可能性が広がる。

異郷を描くこと

 私にはそんな経験はないが遠い異郷のことを絵画なり文学作品なりにすることは意外に難しいかもしれないと思う。描く手がかりとなる表現が見つからないかもしれないからである。

 もちろん、それまでに獲得した語彙や表現方法で、他郷を描くとこはできるはずだ。でもそれは結局は経験をそのまま表現していないのではないだろうか。比喩比況の手法で近似値を語っているに過ぎない。

 都から地方官となった貴族の文学をみると大抵は都の文學そのままである。地名が詠み込まれることでようやく地方性を保っている感がある。生活圏を離れて創作することは意外にも難しい。

雷雨

 このところいわゆるゲリラ豪雨が続いている。雷鳴を伴うことも多い。梅雨の終わりの天候なのか。週末には暑い日々が始まるかもしれないという予報もある。

 オリンピックはせめて猛暑ではない日にやってほしい。そもそも期間の設定がおかしかったのだ。

見たままに

 絵画の話である。見たままに描く、写真のように描くのは分かりやすいリアリズムだろう。遠近法や陰影の表現などを駆使すればこの方面に近づく。写真も厳密には絵画の延長であり、機械の力を借りた平面化だ。

 一方で、写真のように描かないリアリズムもある。感情というベクトルを加えた視界は写真とはかなり違う。そして実際に私たちが目にして感じているのはこちらの方だ。対象に何を感じているのかは絵画でないと表せないのかもしれない。

 絵画のみならず表現されたものには、表層に感知されるものと深層に潜むものがある。深層を楽しむことこそ芸術の真骨頂だと考える。