月: 2021年2月

別の時代

 もし自分が別の時代を生きていたらと思うことがある。確率的には特権階級である可能性は低い。支配される人生の中で何を考えたのだろうか。

 今のように多数の人々と交流することができる前の人生はいかなるものだったのだろう。知らない人がほとんど意識に上らずに生活する毎日はどんなものだったのか。想像することも難しい。

 別の時代に生きていたらと考えることは楽しい。だが、その答えを知るのはかなり難しい。

ワクチン接種開始

 日本でも新型コロナウイルスに対するワクチン接種が今日から始まる。供給量は少なく、専用の注射器がないために一定量が無駄になるという。医療関係者を優先するそうだ。

 ワクチンの有効性や副作用の有無については確定的ではないとも聞く。ただ、この事実がもたらす社会的影響力は大きく、今後はただ恐れるだけの段階ではなくなるだろう。

 医学的な効果は今後改善されていうに違いない。肝腎なのは社会がコロナウイルスをアフターと考えず、あくまでウィズの時代が続くということを意識すべきだということだ。面倒な話しだが、まだ戦いは始まったばかりだ。

もう一つの難敵

 このところ気温が上昇し、2月も半ばを過ぎたことを実感する。今朝も晴れて暖かく感じる。これから一つ難敵が現れる。スギ花粉である。

 日本人が花粉アレルギーになりやすいのにはいくつかの要因があるという。特に遺伝子レベルの問題についてはもうどうにもならない。森林に杉を植えすぎたのもその一つだ。

 私は小学生の頃にこのアレルギーを発症して随分長くつきあっている。これから4月半ばくらいまでは要警戒だ。ウイルス対策で日頃からマスクを着用していることから例年よりは軽く済むかもしれない。ただ、これからのくしゃみや鼻水は周囲の人に迷惑をかけることになる。いつものように対策薬から始めてみることにする。

デマを読む

 東日本大震災の余震と見られる先日の大きな地震は多数の負傷者を出したものの死者は出なかったようだ。原発などにも事故の報告はない。ただ、今回も問題になったのはネット上に溢れた様々なデマや不適切なメッセージだ。

 ツイッターでは地震の後に人工地震というキーワードがトレンドとなった。人工地震とか地震兵器といった言葉は2011年にも散見されたが、それが非科学的であることは周知されてきたはずだ。今回はジョークとしてこの言葉が扱われている。緊急時の発言としては極めて不適切だ。どうもソーシャルメディアはこの手のメッセージに市民権を与えてしまった。

 送り手の特定はかつてより容易になったといわれる。匿名性はあるレベルを越えると維持されない。ただ、表現する自由に踏み込みすぎるとソーシャルメディア自体の価値が損なわれる。社会としても損失だ。

 結局、私たちがデマを読む力を持たなければ仕方がない。何を信じるべきなのかを日頃から意識しておく必要を感じる。地震のような異常事態でもぶれることがない判断力をいかに身につけるのか。それが大きな課題だ。

10年後の余震

 昨夜、東北地方で大きな地震があった。最大震度は6強という。かつてなら歴史的な大地震とされただろうが、東日本大震災以来、各地で発生した大きな地震にすっかり慣れてしまった。今回はその大きな数値とは裏腹に被害は大きくはないようだ。津波も発生しなかったのは幸いと言える。

 関係者の報道によるとこれは2011年の東日本大震災の余震という。まもなく10年目を迎える大地震はまだ幕を閉じていないことになる。震源地を見ると仙台沖であり、これも先の大地震のそれと近い場所だ。これより南北に離れたところで地震が発生するとされているので、まだ地震発生のエネルギーは解消されていないことになる。

 昨夜はかなり疲れていたこともあり、東京も大きく揺れたが結局そのまま寝てしまった。よくも悪しくも地震には慣れてしまっている。危機に対する私の(もしかしたら日本人の)特性なのだろう。これだけ多くの地震が続いてもすぐに忘れることができるのは、考えてみれば恐ろしい。たくましいとか、したたかとかいろいろな言い方ができるかもしれない。

 10年たって何が変わったのか。防災意識はたしかに高まった。しかし、実行に移していることは少ない。一つだけ言えるのは慌てなくなったということだ。何とかなくと割り切ってしまうことが増えた。収穫なのだろうか、退化なのだろうか。

時間はかかる

 オリンピック組織委員会の森喜朗会長の不適切発言に端を発し、それを擁護する自民党の長老が的外れな発言をしたことや後任として指名した川淵三郎氏がメディア等から密室人事の指摘を受けたことを機に辞退したことなどから事態は混乱している。これは日本社会の体質を象徴化したものとも評されている。

 女性が多い委員会は時間がかかるとの指摘はまったく根拠がないばかりか性差別とも捉えられる発言だが、問題はそれだけではない。時間がかかることを非とする考え方が不適切なのだと考える。民主主義は決定までの手続きにやたらと時間がかかる。面倒でもやらなくてはならないことは飛ばせない。川淵氏は日本のプロスポーツを営業ベースで成功させたリーダーであり、オリンピックの指揮者としてもふさわしい。ただ今回の件で大事な人材の活躍の場は損なわれた。

 時間をかければいいというものでもない。日本社会が衰退している原因の一つに決定の遅さがあるといわれている。いつまでも決めないのはかつては美徳であったが、場合によってはそうではない。今回のようにオリンピック開催が危ぶまれている事態においては早くリーダーを決めなくてはならない。待ってはいられない。そこでどのように誰がなるのかを公開し、それに乗っ取って決めるべきなのだ。多くの人に納得がいく方法で。そこに時間をかけるのは仕方がないのだ。

 次のリーダーは女性にすべきだという意見もある。ふさわしい人もいるはずだ。ぜひ次は手続きを踏んでほしい。大切なのは皆に納得させる手順を踏んでおくことだ。それがあれば性別も年齢も限定すべきではない。

芸術家

 芸術家の定義はいくらでもあると思う。ただ、私が思うに、芸術家とは価値を創出する能力のある人のことを言うのだと思う。絵の描き方が上手な人はそれだけでは職人というジャンルに属する。その作品が一定の評価を得て、しかも他とは代えがたいなにかを感じさせるものを作ることできたときに芸術家になるのだろう。

 おそらく厳密に言うとこの世に生まれた人の全てが芸術家だといえる。誰一人同じ人生を歩めない。同じように生きていると思わせるのは巧みな社会の仕組みによるものである。誰一人同じ人生を歩んでいないことを考えれば誰もが芸術家になる素質はある。

 ただ芸術家であるかどうかはその独自性を個人が受け入れられるか否かだろう。人と違うことをすれば変人と思われ、場合によっては共同体から追放される。その覚悟があるものだけが芸術家と称されるのだろう。

建国

 建国記念の日という日本の祝日は不思議な日である。日本の国家としての歴史は長く天皇制という軸で考えれば有史以前にさかのぼるのかもしれない。だから建国は伝説の世界にあり、特定の日に位置づけるのは本当は無理なのだ。初代天皇とされる神武天皇の即位日を現在の暦に換算したところ2月11日だというのが一応の理由だが、そもそも実在したか不明の人物のことは根拠にはできない。

 今日は国とは何かを考える日であろう。利益が共通する周囲の人物と共同体を立ち上げ、公共の福祉を優先しつつ、他国と協調し、時に争い集団を形成する。それが国家の始まりならば、今のような形態はどこまで続くのだろう。人が知り合える限界を様々なテクノロジーが飛躍的に拡張した。時空を超えて知り合える機会を創出できている。でも、真の意味で理解し合える人の数の限界はそれほど簡単には増えない。ソーシャルメディアで「友達」になるとは意味が違うのだ。

 国とは何なのか友達集団よりもはるかに大きい。でもイデオロギーなり文化なりを共有していると幻想できる人々の集団だ。そこには愛国心のような感情も現れる。オリンピックで自国の選手が活躍するとわがことのように喜んでしまうこともある。一方で国より自己の利益を優先することも多い。自国の業者がいくらコストダウンしても、海外製品には価格面で全く太刀打ちできない。だから安い海外製品を買う。それが自国経済に打撃を与えることを知っていても。

 国とは何かを考え直す一日にしてみたい。

タイムトラベル

 最近の通勤電車はとても空いており、かつての過密はない。座ろうと思えば座れるときもあるくらいだ。日本有数の混雑路線でこれなのだから他はどうなのだろう。

 これから訪れる人口減少社会の風景を先取りしているのかもしれない。ただ、それには乗客の年齢が多少若い気がするのだが。

 今後どのような人生が待ち受けているのかなど誰にも分からない。あるのはあまり変わりようがない数値だけだ。そして己も老いていくこと。きれいなデクレッシェンドを演奏できるよう準備を進めたい。

 大きな音、激しいリズムだけが正解ではない。まだできることはいくらでもある。

レンタル

 クルマを久しぶりにレンタルすることを検討している。今までは所有するのが当たり前だったがもしかしたら使うときにだけ借りる方がいいのかもしれないと考えている。

 レンタルとかシェアとかサブスクリプションとか物の所有の方法が変わりつつある。何が最もいい方法なのかをその都度考えることが必要なようだ。

 ビデオレンタルは次第に実店舗さえ不要になりつつある。クルマも営業所なしで借りられるサービスが登場している。次は何が現れるのだろう。そして、それにどう対処すべきなのか。