月: 2021年2月

昔の地形

 近隣の考古学資料を主に展示している小さな博物館に行ってきた。市が開設したもので入場料は無料である。展示によるとこの地域はかなり古くから住居遺跡があり、それが重層的に発掘されているというのだ。人間が生活するのには恵まれた地形であることになる。

 その地形だが過去の史料から見ると時代ごとにおおきく変わっていることがわかる。かつては河川の流域の変遷が地形を変えていたが、近代に入ってからは宅地造成や区画整備などでおおきく地形が変化していることが分かった。いま見る姿がそのまま過去に遡れないことを知ったのである。

 歴史を考えるとき、いろいろな考証は必要だが、大前提としての地形の変化を考慮に入れなくてはならないことを痛感した。現在の風景もこの先さらに変化していくに違いない。

2月も

 まもなく2月も終わる。相変わらず緊急事態宣言下であるが、身辺に大きな変化はない。大きな地震が東北であったのは気がかりだ。しかし、生活には変化はない。

 積雪はなかった。むしろ初夏のような暖かい一日があったのが印象的だ。そしていつものように花粉症が始まった。

 いろいろなことが変わりゆく直前の季節だ。流れに身を任すしかない。そこになにか手応えがあれば私の存在の証となる。

一喜一憂

 昨夜はアメリカの株がかなり下がってしまった。長期金利が引き上げられることへの警戒だという。一喜一憂がトレードの常だが僅かな小遣いの減少でも悲しく感じるのは己が小人の証だ。

 株はあくまで社会勉強の一環として始めた。世の中の仕組みを実感したかったのだ。コロナ禍という特殊事情の中で株価は異常に値上がり、私のような初心者でも結構利益が出ている。ただ確定していないのでまさに絵に描いた餅だ。数字が正の数を示しているのに過ぎない。恐らく日本市場もこれから下降傾向に入る。それも数字が減るだけだ。

 株を老後資金に考えているのも事実だがあまり期待はしていない。毎月積み立てる習慣ができたことだけでもよしと考えることにしている。

本当の風景

 はてして自分は本当の風景を見ているのだろうか。自分が目にしていることは事実なのか。そんな根本的な疑問を捨てきらずにいる。

 百聞は一見にしかずとは古人の教えである。ただ、見てもやはり分からないことがある。また、目にしている映像が真の姿なのか確証はない。脳は映像を都合よく集成することは錯視の芸術などで明らかだ。

 目にしているものが真実だと思いこむことだけは止しておきたい。私という屈折したレンズの存在を認識して置くことにする。

落差

 自分が思う自分と他人からそう見られている自分とが乖離していると感じている。この感覚は私には不定期で繰り返されているが、今回はかなり深い。

 自分が気分によって調子を変えやすい自覚はある。ただ、これも最近程度が上がっている気がする。年齢を重ねると落ち着いていくというのが世の常であろう。どうも私には通用しないらしい。

 自他の感覚の落差はどこにあるのか。おそらく自己評価の基準がずれていることにある。自分はこれまでの経緯に基づいて己を語るのに、他人はいまの私を見て判断する。他人の方がリアルタイムだというのはなんとも不思議だがこれが事実のようだ。哲学書で読んだことがある。自分を一番よく知っているのは必ずしも自分自身とは限らないと。

 落差はじわじわと私を苦しめる。こういうときはどうすればいいのだろう。一つ考えたのは、自分を見放すことだ。可能な限りメタ認知の機会を演出するしかあるまい。自分探しではなく、他人になることを試みてみたいなどと考えている。

春というより

 ここ数日、春というよりは初夏を思わせるような陽気だった。一時的な気温の上昇らしく、この後また下がるらしい。三寒四温ということばがあるがどうも最近はかなり乱高下が激しい気がする。

 緊急事態宣言の取り下げが来月上旬になりそうだと報道されている。人間の安全と経済活動とのバランスが非常に難しいようだ。ウイルスが蔓延して病人が多数出るのと、経済活動が停滞して貧困者が多く出るのとどちらを選ぶのかという選択なのだろう。もちろん、どちらも選びたくないがこれは両立できない。

 一つ先を感じさせる季節は、コロナウイルスへの対応の一つ先の時代を予見させる。照り輝く太陽のもとで、歩みを止めずにいかに前に進むのか。それを試されている気がしてならない。

梅園

 近隣の公園にでかけてみた。梅園はまだ五分咲きくらいだった。品種によってかなり差がある。

 梅はもともと外国から植樹された樹木らしく、万葉集の時代にはかなり大陸が意識されていたようだ。令和の元号の由来ともいわれる大宰府の梅花の宴も、舶来の花を囲むところに意味があったのだろう。平安時代には庭木として定着し、時代が下るごとに梅にエキゾチズムを感じることはなくなった。むしろ和の象徴に感じる。

 梅の木を人々がどのように考えて来たのかをさぐることはこの国の歴史を知る一端だ。

回復の兆候

 日本でもウイルスに対するワクチン接種が始まった。そして早くも副作用の報告も出ている。新しい薬には一定数の副作用の可能性があることは分かっている。そのリスクとトレードオフで集団免疫の形成がなされるという。

 ウイルスの脅威が一段階下がったとしてどんな社会が待っているのだろう。もうかつてのような時代には戻れないことは確かだ。リモートワークの可能性を知ってしまった私たちは、これからも多くをネットワークに依存して行うことになるだろう。そして本当に必要なものだけが対面で行われていく。無駄を省くという建前で余裕が奪われ、効率性という意味不明な数字が大手を振って歩くことになるだろう。

 社会の回復の兆候を素直に喜べない私はかなり卑屈だ。しかし、この状況であるからこそ訴えていかなくてはならないこともある。世の中は効率だけがすべてではない。社会は目的を達成すればいいだけの空間ではない。

移住

 漠然と考えていることにいまの仕事が終わったら地方に移住するということがある。そのためには貯えがなければならないがいまのところそれはない。あまりにも非現実的だ。

 少なくともあと5年以上は先のことで、その頃の社会がどうなっているのかは分からないが、少なくとも東京は離れたいと考えている。

 なぜこのようなことを考えるのか。やはり現状に何か違和感を覚えているからだろう。自分の居場所を決めたことがない私の最後の願望だ。

対策薬

 対策薬を飲み始めた。と言っても花粉症対策である。これを飲むと私の場合、かなり軽減される。ただ副作用があるのが残念だ。

 一番気になるのが喉が渇くことだ。唾液の分泌が減るのだろうか。そうならば防疫面での心配もある。眠気が出ることもあるのは余計困る。最近の薬はかつてほど催眠作用はないが、それでも少し違和感が生じる。

 今年はコロナウイルスに向けた対策を同時にやらねばならず苦労が多い。何とか乗り切らなくては。