タグ: 風習

送り火は再生の儀式なのかもしれない

 かなり前に京都で五山送り火を見た。前日に銀閣寺の裏手の山を登ると、送り火のための準備が進んでいたことを思い出す。16日の夜、ビルの屋上から見たいくつかの送り火は厳かで印象に残った。

 送り火はこの世に訪れた祖霊を冥界に送り返すためにともされるらしい。大文字のような大規模なものではなくても、かつては軒先で焚火する光景を見かけた。

 学生時代、先祖祭りの行事をいくつか見たが、その多くに祭りの終了を印象づける所作があった。片付けることも含めて祭祀になっているのだ。祖霊には期間が終われば確実にお帰りいただかなくてはならない。送り火もそのためのものなのだろう。

 祖霊を返し、再び褻の時間に戻ることは新たな日常の再開を意味する。祖霊祭りは、実はこの世に残された者たちの再生のための手段なのかもしれない。

蒸し暑い日

 日本の夏は湿度が高く、気温以上の圧倒感があります。いわゆる不快指数の高い日が多いのです。これは宿命ですが試練でもあります。

 梅雨前線が列島にかかると、それをめがけて吹き込んでくる太平洋の湿気を含んだ温風が気温と湿度を一気に押し上げます。今日は昨日より最高気温が10℃以上上がるとのことです。マスクのそうでなくても違和感が強い状況を助長する環境になりました。

 気持ちの上で涼をとる方法を文化的に育んできたのが我が国の伝統です。色使いやデザイン、質感、配置など実際の温度を下げる効果がなくても少しでも涼感を覚える方法を育ててきたのです。何でも物理的に冷やせばいいという昨今の方法は、結果的に放射熱を生み出し、気温上昇の原因となる悪循環を招いています。

 先人の知恵に学ぶべきは学び、この国の夏に立ち向かい、共存していこうと思いを新たにしています。

セルフィ

 携帯電話の普及で新たに生まれた習慣といえば自撮りであると思います。かつては少し高価なカメラが一家に1台あり、その撮影担当は大抵父親でした。構図を決めてピントを合わせてから一発勝負で撮影する写真撮影はわずかな緊張を伴うものでした。

 ところがデジタルカメラの普及で取り直しがいくらでも可能になり、さらに携帯電話の機能の一つになると。撮影は身近なものに変わりました。さらに自分の顔を自分で撮るというそれまでにはなかった習慣も誕生したのです。

 旅行先での記念写真でその地にいった証拠として己の姿が入った写真を撮るというのなら分かります。それほど特別な場面ではないのにセルフィを撮る人は結構いるようです。

 おそらくそうした人の行動を単にナルシズムで考えるべきではありません。その人を自撮りにかりかてるのはもっと別の情動が働いているはずです。私は自己確認の欲求によるものとみています。自分がどのように見えているのか、自分が何者なのか。私たちにとって永遠のテーマであるアイデンティティの確認作業の一つの現れなのではないでしょうか。

 私自身はめったに自分の写真を撮りません。しかし、自分に関心がないわけではなく、思っている自分と現実の姿の悲しいほどの乖離を認めたくないからなのです。

初詣の意味

 日本人は無宗教だという錯覚を見事に打ち消す習慣が初詣です。ただ、多神教の民族は一つの神だけに祈りをささげることはなく、すべての神が信仰の対象になります。私もすでに二柱の神に祈りをささげています。

 さて、初詣をすることには副次的な意味があります。それは地域の連帯を確認することです。遠方の名刹を訪れることもありますが、初詣の基本は産土の神への参拝です。そこには地域の住民が集まります。村社会でない限り、同じ地域に住んでいてもほとんどつながりがないのが現状ですが、同じ神社や寺に参拝するということで何らかのつながりを感じることができます。これは教会に通う一部の宗教ほどではないにしても、またかつての檀家のような集団にははるかに及ばないものの一定の意味があります。

 同じ地域に住む者同士が共同体の中で生活しているということを初詣を通して感じることができることは昨今の人間関係の希薄化のなかでは有意義です。同様の働きをするものとして他には地域の祭りもありますが、実施できるところとそうでないところがあるのが実態です。参拝は無意味と考えるのは合理的のようで実は大切な効用を見失っているのかもしれません。

初詣には意味がある