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記憶の修正

 過去の出来事を思い出すときに、どうしても記憶の修正が起きることは常に実感している。他の人の同じ経験談に接したときにいろいろな差異があることに気づくのだが、それまではこうだと思い込んでいる。

 恐らく他人と比較しても互いに変化したものどうしを並べているにすぎない。写真とか動画などの方が事実との比較には良いのかもしれない。ただ、それらの映像も撮影した者の何らかの解釈が入っているはずだ。真実にはなかなか辿り着けない。

 科学的思考という考え方はそういった個人差を排除したもので、これが近代の私たちの前提になっている。でも、直線と思っていたものが実は曲面の上にあり、光さえも曲がると言われればもうその前提も怪しい。日常生活では気づかないほどの誤差であるにしても、実は真実を掴んでいるものはないという事実は変わらない。

 現実の何を意識し、それを経験として認識して、その中から何が記憶に残るのかは人によって違う。また、その日の体調とか周囲の環境によっても変わってくる。その上に経年の修正も加わるのだから、物事は単純ではない。

形を見出す力

 何の意味もない図形の中に意味のある形を見出してしまうのは人間の能力の一つなのだろう。火星表面の写真にいくつもの動物や人面などを見つけ出してしまうことは有名だ。火星までいかなくても私たちは、身近な幾何学模様や、自然の造形物に同じように何らかの形象を見出す。パレイドリア現象というそうだ。

 最近買おうと思っているスマートフォンのカメラの配置が生き物の目のような配置になっていることが一部の人たちの話題になっている。これはデザイナーがパレイドリア効果を狙って作ったものと考えられる。人の表情は単純化されやすく、いわゆる絵文字の類はこれを最大限に利用したものだ。確かに(^.^)は人面に見える。この力を活用したものが漫画などの画法である。細部まで描きこまなくても脳が勝手に足りない線や面を足してくれる。省けるところまで省けばかえって表現の可能性が高まる。

 どこまで省けるのかを考えていけば抽象画の世界にたどり着く。逆に意図してない自然物を組み合わせて観客に自由にものを見出させる芸術もありうる。そしてそういう作品にこれまで何度か出会ってきた。見る人によって見えるものが変わるという芸術である。

 これは脳の見せる錯覚であるともいえるが、その錯覚のために私たちは複雑な世界をとらえることに成功してきたのだ。単純化とその敷衍が面倒な世界を抽象化してくれる。詳細を見逃すことで物事をとらえやすくし、本当は個々に異なる対象をグループ化しまとめて把握することができるのである。形を見出す力は、人類が長い進化の上で獲得した一つの能力なのだろう。

 

記憶の作るもの

 私たちが世界を感じるとき、いま見ている現実とこれまでに経験したことの記憶との複合で概念を形成している。いまを見ていながら昔のことを考えているのだ。だから、その記憶が豊かであれば、感じ取れる世界は豊かであり、貧弱なものであれば毎日がワイルドなものになる。

 そのように考えると、いかに記憶というものが大事なものかと思い至るのである。記憶の前提となるのが経験であることは言うまでもない。豊かな経験を持つということはそれだけ豊富な記憶を持っているということになる。もちろんこの経験には自分が直接体験したこともあれば、書物や映像などを通して間接的に得た体験もある。

 記憶の特徴として、多くの場合、それが身体の感覚と結びついていることである。私は雪道で転倒し、顎を痛打した経験があるのだが、危機的な状況に陥ったときにその痛みをふと思い出すことがある。全身の神経が一斉に動き出す。それはまるでその時の痛みが再現されるかのようにである。

 こうした記憶の身体性とでもいうべきものは実は大切なものだと考える。私たちは記憶するとき、その内容をそのまま受け取っているわけではない。身体の一部やその延長にある過去の経験との複合で記憶を形成する。

 豊かな記憶を作ることが人生の目的ならば若い頃には様々な経験を積ませることに全力を尽くすべきだ。勉強させさえすれば人生の道が開けると考える親がいるのならば、考えを改めた方がいい。 

外見と中身

 自分のことをよく分かっていないことが私にはしばしばある。自分がどのようにみられているのかは結局のところ自分ではわからない。だから、自分像は想像の産物だ。その想像が現実と食い違うことがこの原因である。

自分は他人にとっては他人である。自分が他人のことをある印象でとらえるように、自分もまた誰かによって特定の印象で捉えられている。それがどのようなものなのかは分からない。自分の存在を意識するのは、他人に見られているときである。人前だと緊張するのは、他人の目があることを意識することで強く自己を意識するからだろう。その意味では他人に見られることで自分というものができあがるといえる。

鏡に映ったあなたは誰

脳科学の世界には鏡像認知と呼ばれる考え方がある。鏡に映った自分の姿を自分だと認知する能力のことである。人間の場合2歳児になるとこの能力が備わるのだという。逆に言えばそれ以下ならば鏡に映っているものが何者かわからないということになる。脳の発達とともに、おそらく他者とのふれあいの中で自分を認識できるようになっていくということなのではないか。

 鏡に映った自分を、これは自分だと認識し、今日はさえないとか化粧のノリがいいとか悪いとかいう場合、その映像を自分としてとらえるとともに客観視していることになる。鏡に映った像を別の鏡が映しているのを見るとさらに話は複雑になっていく。自分は何者かに写されることによって存在感を増すが、それを観察している自分はその実態を客観的にとらえている。

自分を客観的にとらえるということは実際の自分を別の自分が描写することなのだろう。すると、その描写の仕方によって自意識が変わってしまうことになる。私がしばしば味わう、思っている自分と実際の自分の大きな違いはこんなところに原因があるのだろう。

富士山の見え方

精進湖から見る富士山

 個人の富士山のイメージは絵に描くと分かる。山頂部に水平な部分があって、台形のような形と考えている人は多いだろう。しかし、実物はかなり違う。

 例えば山梨県側から見た富士山はより急峻で野性味を帯びている。山頂部も傾いており、溶岩を流した跡が残っている感がある。現にその形跡である青木ヶ原樹海が溶岩流の広域さを推量する証となっている。

 私たちが富士山に対して漠然としたイメージをもっているが、それは現実の富士山とは程遠い。人生という単位、もしくは人類史というスケールでも収まりがつかないほどの長大な時間をかけて造形されたものは複雑であり、言語でも映像でも捉えることはできない。ごく一面をしかも省略したり誇張したりしてようやく表現できるのだ。

 私たちの目にするもののすべてが実はすべて物事の一面に過ぎないことを考えるべきなのだ。

写真のような記憶

 写真のように見たものを詳細まで覚えていられる人がいる。先日、山下清の展覧会に行ってきたが、彼は放浪時にはスケッチをほとんどせず、帰宅後に見たものを思い出して描いたのだという。しかし、その細部まで詳しく覚えて実景が忠実に表現できていたらしい。

 こういう才能をある人はカメラアイと呼ぶそうだ。ただ、本当に現実と同じかといえばやはりそれは違う。どんなに忠実な記憶にみえてもそれは覚えた本人の解釈が加わっているものだ。山下清の場合、彼が見たいものは大きく描いているが、おそらく見たくないものは意識下で削除している。それが芸術というものなのだろう。

 私たちがなぜ彼らのように映像を記憶できないのか。それは脳の仕組みと関係があるようだ。私たちは常に移り変わる状況に対応するように進化してきたため、ある定点の映像をそのまま保存することに価値を見出さない。だから、新しい情報が入るとその前のことを忘れてしまう。また空間を構図として記憶することもあえて避けているのかもしれない。自分の関心のある対象物だけに意識を集中し、そのほかのものを背景としてぼかすことで意識が散漫になることを防いでいるのだろう。

 だから、カメラアイでないことはそれなりに意味があることと考えたい。また、何らかの事情で空間記憶力を身につけている人はやはり天才として尊重すべきだと考える。

音読、手書き

 情報が何でも手に入る時代になり、私たちの世代はさまざまな矛盾に直面している。子供たちに何かを質問するとかなりよく知っている。中には少し専門的な用語も出てくるので相当な博識なのかと思ってしまう。さすがに現代の子どもは違うと感心する。しかし、この思いは簡単に覆されることが多い。

 同じ子どもに同じ分野の別の質問をすると答えられないということがある。それもどちらかといえばだれもが知っている初級レベルの内容と思われることにおいてもその傾向がある。また、先に感心した専門的な話題を別の要素と組み合わせて尋ねると何のことを言っているのか分からないといった反応になる。ここに違和感を覚えてしまうのだ。

 おそらく今の子どもは情報を点として覚え、その数を多めに持っている。だが、その点はほかの点と結びつけられることは少なく、孤立した知識になっているのだ。これはコンピュータで検索した結果をクリップしている状態と同じだ。物知りだが物は知らないという逆説が見られる。

 そこでいま何が足りないのかと考えれば、情報を点ではなく線で、そして面でとらえることの大切さなのだろう。それには読書することや講演を聞くことで一つ知識や情報の背景にあるものを知ることが肝要と言える。読書もそのままにすると、点としての知識吸収になりやすいので、音読の形で自然な人間の認知の手順を再現した方がいいと考えられる。そして、考えたことを手書きでまとめる。音声化と言語化というごく当たり前の活動が人間の脳には欠かせない。これを飛ばすと偽物知りが生まれることになるのではないか。

ミニチュア

 子どもの頃、鉄道模型や帆船模型などに興味が惹かれた。大きなものを俯瞰することができることに素朴な喜びを覚えた。いまでも偶然それらに出会うと懐かしい誘惑にかられる。

 最近、電車の車窓から見える風景がミニチュアのように感じることがある。紛れもない現実の風景をそう感じるのはなぜなのか。

 一つの考えとして私の脳の状態という要因がある。現実をひとかたまりに分節して、それを単位に捉えるあまりに現実をありのままに受け入れられないようになっているのではないだろうか。

 これは加齢も関係があるかもしれない。過去の経験に頼り過ぎるとものを模型のように感じるのか。いろいろな他の可能性も考えつつ自分の認知行動の変化を説明しようとしている。

若葉のグラデーション

 絵心は皆無だが是非描きたいと思うのがいまごろの木々の若葉である。実に繊細で複雑だ。すべてが異なりながら、どれも同じような形をしている。

木の絵を描きたい

 水彩でも油彩でも入門書を立ち読みすると、こうした木々の描き方の指南がある。その通りに真似てみるとなるほどそれらしい絵になりそうだ。ただ、これは木を描いたのではない。木を見て森を見ず、という言葉があるが木さえ見ないで木を描くということになる。

 しかし、本当に見たままの木を描くことはかなり大変なことだ。一つ一つ違う葉の有様をどのように描こう。描きながら刻々と変わる自分の感情をどう制御すればいいのだろうか。

 それでもいつかは自分の目で木を描くことを夢見ている。恐らく、他人が見たら何の絵か分からないものになるかもしれない。ただ、ゴッホの糸杉のように、それがどうであったかより、どう見えたのかの方が大切なのだろう。

 若葉のグラデーションを描くことを目標に加えることにしたい。

経験と感触

 物事の本質を見るためには直感が必要なのだろう。ひらめきと言ってもいい。それはまさに天から降ってくるような感覚だ。

 その直感はどのように培われるのだろうか。天賦のものという表現もある。しかし、これは先天的な要素だけではうまくいかない。経験と感触の記憶のようなものが影響していると言われている。

 天才と言われる人は何もせずに能力を発揮できると信じられている。ただ、その才を表出する前に基盤となった経験をしていることが多いようだ。一見結びつかないような出来事から才能を開花する養分を得る。自分でも意識しないうちに準備ができているということになる。その組み合わせが起きる可能性が低いため、天才は希少なのだ。

 天才にならないまでも、私たちは一見結びつかないが経験やそこから得られた感触が知的活動の基盤になっていることに気づかなくてはなるまい。役に立つことだけをやろうとする昨今の風潮はその意味でかなり危険だ。シンギュラリティを恐れている人間が進んで機械の思考システムに近づこうとしている。