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特別な記憶

 覚えていることの中には、いわゆる特別な記憶というものがある。その多くが自分の生き方に深く関与し、多大なる影響をもたらしている。

 妙なものだが、若くして死んだ友の葬儀に立ち会い、焼き場にまで付き合ったことはいまでも深く心に刻まれている。棺桶が焼かれるところへ移動するときの扉を閉める音は、この世とあの世の境界として深層に刻印されている記憶だ。

 他にも特別な記憶はいくつかあって、何かあるごとに想起される。随分昔のこともあるのに、そこに出来するのは常に瑞々しい記憶なのだ。

 特別な記憶の多くは類型的な誇張がなされていて、真実そのものからは遠い。でも、その中で考えたことは虚偽ではなく、必ず一面の真理を踏まえている。そのような記憶が飛び交い、場合によってはその記憶で横溢されるのも意味のあることだと思う。私たちは新しいことを始めるのは苦手だ。だから、過去の記録をそのまま受け入れるのではなく、いまの生き方にあわせて過去を改変することも、残念ながらあるのである。

記憶の修正

 過去の出来事を思い出すときに、どうしても記憶の修正が起きることは常に実感している。他の人の同じ経験談に接したときにいろいろな差異があることに気づくのだが、それまではこうだと思い込んでいる。

 恐らく他人と比較しても互いに変化したものどうしを並べているにすぎない。写真とか動画などの方が事実との比較には良いのかもしれない。ただ、それらの映像も撮影した者の何らかの解釈が入っているはずだ。真実にはなかなか辿り着けない。

 科学的思考という考え方はそういった個人差を排除したもので、これが近代の私たちの前提になっている。でも、直線と思っていたものが実は曲面の上にあり、光さえも曲がると言われればもうその前提も怪しい。日常生活では気づかないほどの誤差であるにしても、実は真実を掴んでいるものはないという事実は変わらない。

 現実の何を意識し、それを経験として認識して、その中から何が記憶に残るのかは人によって違う。また、その日の体調とか周囲の環境によっても変わってくる。その上に経年の修正も加わるのだから、物事は単純ではない。

メモリーは有限

 使っているスマートフォンの容量が底をついたとの警告が出たので、消せるアプリや一次ファイルなどをかなり削った。結果として何とか復活したものの、これからはこの繰り返しになるのだろう。エントリーモデルの機種なので過度な期待はできない。

 機械の場合はメモリーが数値で表されるので分かりやすいが、人間の場合はかなり複雑だ。いわゆる作業用記憶が加齢とともに逓減していくのは実感している。長期記憶に関してはそれよりは保たれやすいようだが、私の場合はかなり選択的で単に時間だけの問題ではない。大切なことを忘れてしまう代わりに、どうでもよいつまらないことを時々思い出す。

 何を記憶し、何を忘れるのかについて選ぶことはできるのだろうか。意志に基づいて取捨選択するのは、スマホのデーターを消すのとはかなり異なるようだ。忘れてはならないことはやはり脳以外の場所にも記録し、それに定期的に接することで保たなくてはならない。反戦の気持ちというのもまさにそれで、過去に心に結んだ強い思いも、いつの間にか日常の些事に紛れてしまう。

 思い出したくないことも場合によっては取り出し、忘れてよいことは時間の海に流してしまう。そんなこともやらなくてはならない。

身体で覚える

 昔覚えた歌謡曲やアニメの主題歌の歌詞をいまでも忘れないのはなぜなのか。先日、ラジオから私が中学生の頃に流行った曲が流れた。その歌詞をほぼ完璧に思い出し口ずさむことができたことに自分で驚いてしまった。最近はいろいろなことを忘れて困っている。特に人の名前が出てこないときにはいろいろ気を遣う。そんな状態なのにどうして昔の歌の歌詞を覚えているのか。

 演劇において役者が長いセリフを覚えるのはなぜなのか。ミュージシャンが暗譜をして演奏できるのはなぜか。これらも気になっている。おそらく練習した回数が関係しているのではないかということは間違いなかろう。なんども練習しているうちに身体が覚えるのではないか。

 身体で覚えるということをもう少し考えてみる。これは言葉を発音の連続として覚えるのではなく、意味として把握し、なおかつ周囲の状況と重ね合わせてとらえていることを意味する。役者がセリフを覚えられるのは、その場面の状況や相手の役者のリアクションなどを一緒に覚えることによって成り立っているのだろう。役者の身振り、照明の色、舞台の雰囲気、そういったものも覚えているはずだ。人間の記憶の仕方は状況を覚えることにあり、記号の蓄積だけではうまくいかないようだ。この点はコンピュータとはちがう。

 ならば、教育の場面において生徒の学習効率を上げるには、ある知識に対するエピソードを考えさせ、ほかの知識との関連性を意識させることにあるといえる。最終的には各自が構築しなくてはならないとしても、まずはきっかけを与えることが大切なのだ。「うつくし」がかわいいという意味だというこことを一対一の対応で学ぶのではなく、自分がかわいいと思う状況を想起させて、その場で「うつくし」というセリフをいうような場面を想起されば記憶は定着しやすい。

 昔の歌の歌詞を覚えているのは、その歌にまつわる様々な思い出が 周囲に取り巻いているからで、歌うたびにそれが想起されるからなのだろう。単なる言葉の羅列ではない何かを感じたとき、記憶は堅固なものになるらしい。

ワーキングメモリー不足

この話は何度も書いてきたが懲りずにまた記す。私たちが何かを考え、行動するときにはさまざまな記憶力が必要になる。複雑なものでなくても要る。例えば、先ほど見た光景を文章に書き表そうとすれば、短期的な記憶とともに成文化するための長期的な記憶、知識というものが活用される。これが衰えると実に厄介だ。

数年前ならなんでもなかったことにやたらと時間がかかる。短期記憶が足りなくなって、行動をリセットすることが増えているのだ。対策としていつでもメモを取るのだが、仕事のことなどはそうしても日時のこととなるとつい記憶の衰えを無視してしまう。その結果、家族に迷惑をかけているのは申し訳ないというしかない。

 これは底知れない自己嫌悪を伴うから精神衛生上よろしくない。別に手抜きしているのではなく、自然に抜けてしまうのだ。

 そこで私は一段階予防線を、引き上げることにした。些細なことでもメモを取る。それを恥ずかしいことと思わないということだ。上衣のポケットには常にダブルリングメモとポールペンを持つ。更に測量野帳やらA6ノートやらいろいろ持ってそれらに転写しまくっている。凡そ非効率的だが、こうしないといまの脳は覚えてくれない。老兵にはそれなりの戦い方があるのだ。

短期記憶

 短期記憶は読書の際にも大切だ。筋を追って読んでいく際に、ワーキングメモリーはフル活用される。歳をとるとそれが衰えている気がして残念だ。こればかりは諦めずに食い下がるしかない。メモを取りながら読むことが多くなったのはそのためなのかも知れない。

記憶はいつか

 記憶はいつか消えていく。歳をとるとその速度が速くなっていくのを実感する。さまざまな媒体に記録しても、それはすでに自分の記憶ではなく、何かが省略され、何かが誇張された現実に似て非なるものである。

 ならば現実は直ぐに消え去る儚いものなのだろうか。私たちはその問いを全力で打ち消そうとする。記憶が消えても、いかに現実を過ごしたのか。それが周囲の他者にいかなる利益をもたらしたのかという尺度を持ち出して有意義なものであることを死守しようとする。これは実はとても大事なことだ。

 人生を一人の視点からしか見なければ、人の死は全ての終わりだが、人類という単位で見れば、個々人がそれぞれ積み重ねてきたまとまりのようなものである。それぞれ皆違いながら、多くの共通点を持つ。記憶を組みあわせれば人間としての共通経験が形成される。その意味では人間の記憶は意外にも長い。

 いずれ忘れることであってもそれを考えることにはやはり意味がある。

 

恐怖の記憶

 水難事故になりかけたことがある。小学生の頃だった。海水浴に来た私は調子に乗って弟の浮き輪を少し沖に進ませていた。足がつくうちはよかった。どうもその海は引き潮があるらしく、少しずつ沖に流されていた。それに気づかなかったのである。

 浜で父が慌てているのが見えた。かなり波が強くなっていたらしい。足が浮いて動揺してきた。少しずつ増してきた恐怖はその時跳ね上がった。弟は浮き輪に揺られていたので気づかなかった。溺れるかもしれないと思ったとき、恐怖が形になってきたのだろう。

 幸いそれに気づいた近くの大人が私たちを陸まで導いてくれたので、海神の供物にならずに済んだ。おそらく小学生には耐えられなくても大人なら何とかなる程度の波だったのだろう。海水浴での海難事故の多くはこのような境界的な状況で起きると推測する。

 この時の記憶は数年おきに脳裏に浮かび上がる。よほど根源的な恐怖体験であり、長期記憶に刷り込まれて今に至るのであろう。浜辺での遊泳はうかつにはできないことを身に染みた。結果的には有益な体験であったともいえる。

 このような人生観を変える体験はおそらくこれまで何度となく繰り返しているはずだ。ただ、その大抵は時間とともに忘却の波にのまれていく。恐怖を乗り越えたのではない。未解決のままなのだ。なんとかしなければ、と思う気持ちが記憶の隅に堆積されていく。それが強みにも弱みにもなっていく。水難未遂のこの経験はそのうちの一つであり、これからも引きずっていくものなのだろう。

突然思い出すのはなぜ

 過去に覚えたことが唐突に思い出されることがある。今朝は化学で使われる用語をなぜか思い出した。濫読の際にたまたま目にしたもので、詳しいわけではない。きっかけも思い浮かばない。

 そういうことは時々起こる。いつもは思い出そうとしても思い出せないのに、いわば無駄に出てくることがある。このメカニズムは何なんだろう。記憶というものがどのように成り立っているのかには興味がある。脳の衰えを感じ始めているからだろうか。

 コンピューターのようにデジタル化したメモリーをコマンドで取り出すのとは違う何かがあるのだろう。

形見の力: 記憶を緩やかに保つ方法

 記憶はものに寄って出てくる。私たちの記憶力は有限なものでいつかは消え去ってしまう。ただ、それを緩やかにするにはある物質、物体を拠り所にする方法がある。思い出の品を介在させることで記憶の消滅は軽減できる。

 古語で言う形見がそれに当たる。記憶のよすがになるものが形見である。考えてみれば私たちは身分証明書という小さなカードを通して、自分の名前や所属というものを記憶に定着させる。自分を証明するためのカードと考えられているが、実は逆で、カードが自分の存在を裏付けてくれる。それがなければ記憶の保持期間が過ぎてしまい、自分が何者だかわからなくなってしまうのである。

 だから思い出の品を残すのは実は大切なことなのだろう。最近はものを溜め込むことにかなり消極的な意見が目立つが、ものがなければできないこともある。