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見たままに

 絵画の話である。見たままに描く、写真のように描くのは分かりやすいリアリズムだろう。遠近法や陰影の表現などを駆使すればこの方面に近づく。写真も厳密には絵画の延長であり、機械の力を借りた平面化だ。

 一方で、写真のように描かないリアリズムもある。感情というベクトルを加えた視界は写真とはかなり違う。そして実際に私たちが目にして感じているのはこちらの方だ。対象に何を感じているのかは絵画でないと表せないのかもしれない。

 絵画のみならず表現されたものには、表層に感知されるものと深層に潜むものがある。深層を楽しむことこそ芸術の真骨頂だと考える。

風景画

 きれいな風景を描いた作品はそれだけで価値があるように思える。そこがどこであろうと作品の評価には関係ないはずだ。実際はそうではない。どこの風景で何を描いているのかは作品の鑑賞にかなり影響を与える。

 富嶽百景は相手が富士山であるから、東海道名所図会は名所を描くから価値が上がる。絵画となったから名所となる例もあるが、その前に画家は名所を描こうとしたのだ。地名の価値はその意味で大きい。

 私たちが何かを見るとき、そこに審美的な行動が伴うときには、どうも対象そのもの以外の情報も関与する。風景画も地名があることで価値が上がる。極端なことを言えば、名もなきものを取り上げるのは難しく、名のあるものだけを見ているともいえる。

デザイン

 同じものでも色が異なるだけで気分が変わることがある。図案や造形が加わればもっと効果が大きい。私は結構見た目で左右されている。

 ならば身の回りにあるものにデザインを施してみよう。といっても画才はないので既成のものを貼り付けるだけである。シールもいいが色紙を貼るだけでも変わる。毎日使っているノートに千代紙を貼れば親しみが湧いて手に取る回数が増える。それだけで効率が上がるとは言えないが何かに変化が起きることは確かだ。

 散財しなくてもデザインの魔法はかけられそうだ。いろいろ試してみたい。

抽象画

 抽象的な絵画は苦手だった。単なる色の羅列のように見える絵はよく分からないし、題名をみても無題とあったりするとお手上げだ。笑ってしまったり、時にはイライラすることもあった。

 ところが先日、件の絵画に対したとき不思議な思いになった。脳の何かに作用したのかめまいのようなものを感じたのだ。そこにいろいろな幻影が浮かんだものもある。

 抽象的絵画の中には意図的に描かれたものが多いようだが、中には画家が実際にそのように見えたものを具現化したものもあるということだ。ならばこれは脳の深い層にあるものの見え方と関係を持っているのかもしれない。そう思うからそう見えるだけかもしれないが。

 美術館に行くことが脳の深部に触れることに繋がることは以前から気づいていたが、それを痛感するようになっている。

分岐と繰り返し

 映画やドラマのモチーフの一つに時間軸の往来がある。過去に遡り、未来に訪ねる。それは決して実現できないことだが仮想することはできる。だから創作の域に入る。もし数年後の自分に合えたらと思うことは多い。あるいは過去に遡ってやり直せたらと思うこともある。それは人間としての性なのだろう。

 量子力学の世界では世界は限りなく分岐して様々な平行世界が存在する可能性があるという。それが事実なのかどうかは確認ができない。確証がないということは存在しないということではない。だからその可能性を信じていろいろな空想が生まれる余地があるのだ。

 さらに創作のモチーフとして時間の繰り返しがある。リピートする時間の中で人は運命に逆らえず同じことを繰り返す。何度やっても同じ結末になる。その切なさをテーマにして作品は進行していく。分岐や繰り返しは時間の概念を乗り越えられる創作の特権だ。

 実際は時間の流れに抗うことができない。その性への抵抗が創作の魅力になっているのだろう。

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登場人物

 小説や演劇などのストーリー性のある作品において、すべての登場人物にはその存在意義があるということを教えている。教員である私にとって伝えなくてはならないことの上位にある事実だ。

 主役脇役あるいは端役という言い方があり、確かに小説、演劇などの創作において登場人物のもたらすメッセージに濃淡があるのは事実だ。だが、作品全体の構成から考えるとすべての登場人物には役割がある。その役を果たすことによって作品が作られていく。

 創作者はそれぞれの人物に託して世界を形成する。こういうことは実際に作者になったり、役者となって演じてみると納得できる。そういう機会を与えることも大切だ。

国王の肖像

 上野の森美術館で開催中の美術展を観てきた。英国の歴代の国王の肖像画や写真を集めたものであった。権力者の画像は普通の絵画とは違うと実感した。

 英国に限らず権力者が必ずしも聖人とは限らない。むしろ庶民より拘束度が低いために醜態も残りやすい。そして公式記録としてつまり歴史として刻まれることになる。

 写真がなかった時代には国王の肖像画は様々な目的を持っていた。写実的であればいい訳ではなく、むしろ弱点を隠蔽し、ときにそれを補強する必要があった。時代の価値観に合わない部分は描かず、理想的な人物にしなければならなかったのだろう。それを自覚した君主は日常生活と公務の顔を変えていたかもしれない。肖像画のみならず、本人の生活それ自体が二重化、多重化していたのだろう。

 エリザベス1世の背景に暗く描かれるスペイン無敵艦隊の背景を観たとき、明るく笑うダイアナ妃の写真を観たときも画像というものの役割を感じざるを得なかった。

陶芸

 陶芸の展示を観てきた。難易度の高い美意識涵養の場になった。東アジアの美は奥深い。

 陶器の芸術性は難解だと感じている。本来、何らかの用途のために作られた陶磁器は実用性という裏打ちがある。それが芸術性の方面に傾くときに別の様相を見せはじめる。

 釉薬のたれ具合に何かを感じるのは完全に見る側の美意識の問題になる。作者は当然何かを狙って窯に入れるのだろうが、出来上がったものは偶然性が極めて高い。それに価値を見出すのは、一種の伝統といえる。

 陶芸の美を味わうためにはまずこの審美の伝統に入らなくてはならない。その上で自らの美意識を発動する必要がある。これはどの芸術にもあてはまるが陶芸は特にこの点が意識される。

朗読劇

 密を避けることが義務づけられつつある社会情勢の中で、演劇は公演が制限されている。小劇場での感染も報告されており、厳しい状況が続いているのだ。その中で妥協点として考えられるのが朗読劇ではないか。

 向かいあわず接近しない。演劇の大半の要素を切り捨てた朗読劇は、それ自体で味わいがあるものだ。ただし、物足りなさが伴うのも事実である。いま、制約が設けられた状況にあってその欠乏感までもが効果的な表現方法になる可能性が出てきた。

 ソーシャルディスタンスなどという言い方もあるが、要するに触れあえない悲しみ、もどかしさを伴う状況にあるわけである。それが果たせないやるせなさを朗読劇の方法で表現できるかもしれない。

 久しぶりに脚本を書いてみようかという思いになっている。創作にはある意味こうした現状打破のエネルギーが必要なのかもしれない。

落書きを通して

 最近、下手くそなスケッチをすることが多くなりました。絵を描いてみて思うのは自分は対象をよく見てこなかったということです。

 絵を描く時には立体を平面化するという技術的な問題があります。それよりも障害になるのは既成概念だと感じています。対象を写しているのではなく、自らの思い込みを描いてしまうのです。みたとおりに描こうとすればたちまち違和感が生じて筆が止まってしまう。そして自らの常識に従って偽の姿を描いてしまうのです。

 私は見たとおりに描ける人が芸術家なのだと考えます。見たとおりに書き上げることができる柔軟さと我慢強さは並大抵の努力では得られない。たくさん描いてたくさん失敗する中で得られることなのだと感じるのです。

 落書きを通して自分が何を見ているのかを確認する作業を繰り返していきたいと考えています。