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ダンボールに描かれた絵

捨てる前に芸術を
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 少し前のことであるが絵本画家の展覧会を見に行ったことがある。会場には多くの絵本の原画が飾られていたが、その周りにダンボールに描かれた動物や植物が立てられていた。演劇の書き割りのように縁取りが切り取られていたのだ。

 梱包の際に使い捨てられるダンボールが芸術の対象として大切に扱われていることにちょっとした驚きを感じた。学校の文化祭などでもこの手法はよくとられるが、プロの手にかかるととても使い捨て出来るようなものではなくなる。

 もちろん、耐久性という点においてダンボールの絵、もしくはオブジェは期待できない。すぐに滅びてしまうものだ。ただ、生活の中の芸術としてこういう気楽なデザインなり、美意識は見直されていいと思う。数万円から数十万円の彫刻を買うのは覚悟がいるが、ダンボールでかたどる動物なり植物なり、幾何学オブジェならば気楽に置ける。安っぽくならないよう、気持ちを込めて作ればそれなりに精神的な栄養剤になる。

 いわゆるダンボールアートと呼ばれるものになるととても素人の及ぶ域ではなくなる。まずは気に入った絵や写真を切り抜いて貼り、それを立体として置くということから始めてみたいと思っている。

生活の中の美

 考古学資料のなかに魅力的な芸術を感じることがある。恐らく作られたときは獲物を狩るか、神に祈るかといった実用的な目的を持っていたはずのものだ。それが例えば展示ケースに並べられると美術品に見えてくる。

 今わたしたちが何気なく使って、意識することなく捨てているのものの中にもそうした美は隠されているに違いない。あまりに日常的だと気がつかなくなる。だからものを粗末に使うようになっていく。

 生活の中に美を見つけるにはときにいつもと違うやり方をするのがいいのかもしれない。見方を変えることによって日々の積み重ねの中に消えてしまった美しさを発見できるはずだ。そういう余裕だけは持っていたい。

残響

音のない音

 あるコンサートを聞いて気づいた。よく言われることだが演奏は音符のあるところだけで聞かせるのではない。むしろないところに表現が生まれることもあると。

 演奏中の休符はもちろんだが、演奏前や直後の残響に説得力のある表現がある。これは観客である私の思い込みなのかもしれない。それがもし演奏者が意図して仕掛けているのなら、私はその技法にまんまとやられていることになる。

 日常生活の中にもこれと同じような表現を感じることがある。何も話していないのにある種のメッセージが伝わる。この効果を見直したい。発言や動作だけが伝える方法ではない。

歌枕

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 サントリー美術館で開催中の「歌枕 あなたの知らない心の風景」という展覧会を見てきた。歌枕は和歌の世界でいう名所のことであるが、よく知られているように実際にその地に訪れることはなくてもその風景を歌の中に詠みこんでしまうというものである。そこから歌を素材とした絵画が生まれ、さらには様々な工芸品が生まれた。

 桜といえば吉野、紅葉といえば竜田というように歌枕には固定的なイメージがある。吉野にも紅葉はあるし、夏の茂みもある。しかし、そういうことは捨てられて桜の山として注目される。歌枕としての地名は場所の名前ではなく、当時の美的観念からその地に見出されてきたイメージのまとまりを意味する。もちろん核となる風景はあるのだが、そこに集まってきた印象の積み重ねが形式化して歌の素材として定着すると歌枕になっていく。

 この展示では歌枕を絵画化した屏風や絵巻物が多く並べられている。これらの作品は一度和歌の素材として実景から濃縮されたイメージが、一度和歌として利用され、今度はその作品の世界から風景が想像されて、視覚の世界に再現されたものといえる。いってみれば風景の美的エッセンスが何度か濾しとられているようなものであろう。

 だから歌枕の絵は実景とはかけ離れていても当たり前なのだ。それは美意識によって切り取られたものであり、それがさらに観念的に再構成されて屏風絵のようなものに再び視覚化されていく。その繰り返しの中で洗練度はさらに増していった。わが国の近世絵画に厳密な意味での写実がはないのだと思う。そこには理想的な美のエッセンスを描こうとする営みがあった。

 でもこれが西洋絵画に多大なる影響を与えたのは周知のとおりだ。実物の映像を複製するのではなく、自分が見たまま感じたままの映像を具現化することの重要性への気づきが近代絵画の発展に貢献したのであろう。

 よく言われていることだが、こうしたものの捉え方が和歌やその派生形である俳句を核として生まれ成長してきたことはもっと注目すべきだろう。短詩形に思いを詰め込むために何を捨象して、何を取り出すのか。その中で醸成されてきたさまざまな約束事のなかで押しつぶされないようにどのような工夫をしてきたかといったことは日本の文化を考える上での大きなヒントになる。さらに現況を打破するための哲学ともなりうるかもしれない。

感性

 感性という極めて個人的な要素も実は社会的に規定された枠組みの中で育まれている。まったくの個人の感性というものはなかなかないものだ。

感性は

 美意識にしても死生観にしても個人のオリジナルというわけにはいかない。周囲の人々のそれに大きく影響を受ける。個性的と言われる人も大抵の場合、社会的な平均からの絶対値が多少大きいだけなのだ。

 感性というものも自分だけを見ていても説明できない。これは文化や芸術を考えるときに忘れてはならない。

似顔絵

顔の印象はどこで決まるのか

 まったく下手なのだが絵を描くことには興味がある。人の顔を描いていて思うのが僅かな違いで印象が激変するということだ。

 顔を描いているとき、ほんの少しの線の有無で雰囲気がかなり変わってしまうことに気づく。だから絵を描くときこれがどのような効果をもたらすのかを常に考えている。

 絵ではなく実際の顔認識ではどうなのだろう。誰かを誰かに似ているという話を聞くとき、納得するときと疑問を感じるときとがある。顔の印象を決定づける要素が人によって異なるのではないか。先の絵の話で言えばどの線を描いてその人らしさを捉えるのかが人によって違う可能性がある。

 写真から似顔絵風のイメージを生成するアプリがある。やってみると同意できないことが多い。我々の視覚はかなり主観的なもののようだ。

絵画の下層

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「窓辺で手紙を読む女」(ヨハネス・フェルメール, ca. 1659)が東京都美術館で展示されている。今まで知られている絵とは異なり、背景に天使の画中画が描かれている。調査の結果、この天使の絵は完成後、作者以外の何者かによって塗りつぶされ今の形になったという。そこで上塗りされた絵の具を取り除き、改変前の姿を復元したというのだ。なお上記のリンクは改変前である。

油絵のように塗り重ねていく絵の場合は、このように塗りつぶされた奥にある下層の絵画を復元することができるようだ。その繊細かつ大胆な作業風景も博物館では動画で展示していた。非常に興味深いものであった。絵画修復の技術は日本絵画においても行われている。以前、この技術を利用して高精度の文化財複製をしたスーパークローンの展示を見たことがある。色褪せる前のもとの姿は常識を覆すものもあったが、新鮮な驚きをもたらしてくれた。そして、この技術を知ることで、原作は今見るものとは違ったのかもしれないという当たり前だが気づきにくいことを再確認させてもらった気がする。

芸術作品でさえ、完成に至るまでのさまざまな過程を経てきているのだ。最初から一直線に今の形につながっているのではない。改変にはさまざまな理由があるように、私たちの生き方にも時代の影響でつねに変化が加えられている。今見えていることだけで物事を判断するのはかなり一面的なものだということになる。その下層に隠れているものはなにかを考えることは常に必要だ。

芸術の目

 情報技術の発展により、知識やスキルはあっという間に共有され、結果として便利だがつまらない世の中を作っている。こういう状況に今の日本は対応できておらず、イノベーションも起こせない。だから、敗北感と閉塞感が募りる。考えてみよう。日本文化で世界的な評価を得ているものは独創性に富んだものであり、多くはそれ以前の伝統に根ざしていえる。アニメが江戸時代以前の日本の絵画と地続きなことは例えば浮世絵を見れば想像がつく。

 ゲームの世界の背景にある漫画やアニメの世界は、組織的なくびきから逃れてきたアウトロー的な存在であり、その中には反社会的なものやエログロ、ナンセンスも許容されてきた。その寛容性から新しいものが生まれたのだ。こういう風土は作ろうと思って作れるものではない。管理しようとすればますますつまらないものになる。多様性の中に可能性を見出すことをしていかなくてはならない。多くの駄作の中に光るものが出てくるのだ。駄作に分類したものも実はそうではない可能性もある。

 情報技術は芸術の世界にもさまざまな利益をもたらしているが、逆に大切な要素を削ぎ落としつつある。作品はこうあるべきだという価値観を共有することは、逆に言えばそれ以外の可能性を見えなくしてしまうのだ。そのためには芸術活動をしている皆さんには自分の創作を信じていただきたい。また多くの人が芸術家を、それができなくても創作活動を目指すべきだ。芸術の目をもつことが今後の世界を救う方法だと確信している。

俳句的積み重ね

 目の前にあるものを表現するのはかなり難しい。非定型だし、常に変化をしていてとらえどころがない。どこかに価値の物差しをおいて、そこに引っかかるものだけを描くしかない。たいていの場合それに絶望し、表現すること自体をあきらめてしまう。

 芸術家と呼ばれる人はこの点についてストイックであり楽天家でもある。自分のアンテナで捉えたものを表現することに躊躇しない。だから、多くの場合難解であり、その中のいくつかは多くの人の心を捉える。おそらく芸術作品というのものはそういうものなのだろう。

 私が持っている貧弱な概念と言葉でいうならば、俳句的な表現で世界を描くことを目指していくべきだと考えている。俳句の伝えられる情報量は少なく、自ら表現の方向性を閉じてしまっている部分がある。季語の扱いなどはその典型だ。実に窮屈であり、扱いにくい。これは人間の思考の仕方と同じだともいえる。限られたメモリの中で、かたよって狭い視野に、ゆがんだレンズを使って世界を見ている。それが人間の生理的な問題であり、歴史であり文化であり、様々な要因があることはなんとなくわかる。

 それを前提にしながらあきらめずに表現するしかないのだろう。目に見えること、感じられることを愚直に表現しつづけられること。それが芸術につながると考える。

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異郷を描くこと

 私にはそんな経験はないが遠い異郷のことを絵画なり文学作品なりにすることは意外に難しいかもしれないと思う。描く手がかりとなる表現が見つからないかもしれないからである。

 もちろん、それまでに獲得した語彙や表現方法で、他郷を描くとこはできるはずだ。でもそれは結局は経験をそのまま表現していないのではないだろうか。比喩比況の手法で近似値を語っているに過ぎない。

 都から地方官となった貴族の文学をみると大抵は都の文學そのままである。地名が詠み込まれることでようやく地方性を保っている感がある。生活圏を離れて創作することは意外にも難しい。