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悲愴ソナタ
ベートーヴェンのピアノソナタ第8番悲愴を最近よく聞き直している。第2楽章の甘美なメロディは特に有名だ。カンタービレの指示があるように演奏者の個性が出やすくそれも興味深い。
音楽史的には激動の時代を生きたベートーヴェンの精神的な側面が反映されているという。悲愴というタイトルだが、なぜか力を感じるところもある。悲嘆に打ちひしがれるような状況の中にあってなんとか立ち直ろうとする人間の強さも表現されている。
最近この音楽が心にしみるようになったのはやはり、周囲の状況があまりにも難しく、漠然とした不安が横溢しているからだろう。逆風をまともに受けながらそれでも前に進む姿をこの楽曲に幻想しようとする自分がいる。
手の演技
演劇に関しては素人だが、演技について時々とても気になることがある。そのうち手の演技について少々記す。
演劇では所作によって感情の表現をすることが多い。精神を体現する手段だ。人が何を考え感じているのかは外側からは分からない。でも表情や身振り手振りでおおよそは察することができる。目が潤んでいるとか、小刻みに震えているとかすればそれだけでその人物が何らかの強い感情にとらわれているということになる。
しかし、こうした細かな身体表現は遠くの客席からは分からない。そこでデフォルメが行われることになる。原則的に無言劇であるバレーでは感情表情がある程度定型化している。あの動きはどの感情を表すのかが決まっている。能や歌舞伎などの伝統的演劇にも所作の型がある。中には非現実的な動きもあるが、型だと思えば受け入れられる。
現代劇やドラマでも型はある。照明やテレビ中継の技術の進歩により、現代の俳優は細かい演技が可能になった。流す涙の筋までカメラが追いかけてくれる。それでも型が必要なのは、分かりやすい表現が求められるからだ。
身体表現の中でも印象的で理解しやすいのが手の演技だ。清岡卓行氏の文章ではないが、手には無限の表現の可能性がある。それをどう活用するのかが役者の技能だ。若い俳優はそれが未開拓であり、ベテランには巧みな人が多い。
ベルアップ

マーラーの交響曲を聴きにいって驚いたことがある。クラリネット吹きがときどき楽器をほぼ水平にまで上げて吹くのだ。リード楽器の吹き方としてはずいぶん不自然だ。トランペットなら当たり前だが、クラリネットがそんな恰好をするとびっくりしてしまう。
調べてみるとベルアップという奏法らしい。そしてマーラーはこの吹き方を譜面で指定しているのだという。繊細な音を出すクラリネットがまるでラッパのように吹かれる。オケの演奏でこれを見るとかなり印象的な光景だ。演奏家もかなり無理をしていることが伝わってくる。
音を遠くに飛ばすためというのはあまり説得力がないようだ。楽器の先をどこに向けようと音の伝わりは変わらない。違うのはやはり見た目の印象だ。聴衆に視覚的なインパクトを与えるというのが第一の効果なのだろう。その意味で私のようなものが現れたことはすでに成功しているともいえるのかもしれない。
息づかい
約束事
カワイイ効果

現代日本の価値観に可愛さというものがある。これは世界に通用する一種の美意識とも言えるかもしれない。
無骨な機械を作ってきた職人たちもなぜか完成した機械に名前をつける。それも可愛らしい人の名前だ。名付けすることで高性能なマシンが親しみやすいものになる。こんなことを繰り返してきた。
デザインにも可愛らしさを強調する。暖かい原色の多い配色や、大きな目をつけるといったことはいろいろな製品に見られるものだ。これは趣味という領域を超えた文化のようなものかもしれない。皆さんの身近にもカワイイ品物はきっとあるはずだ。
可愛さは幼児性を伴うのでやめたほうがいいという考えもある。しかし、可愛いデザインが狙っているのは実は別にあるのは明らかだ。これは使いやすさを高めるための機能的目的で施されている。高性能なマシンでも使いにくければ意味がない。まずは心理的な親和性が大事なのである。この戦略は利用しない道はあるまい。
可愛らしさの基準は人によって異なる。だから、誰もがアニメのキャラのようにする必要はない。どこかに取っつきやすい柔らかなデザインを施すのが、日本のものづくりの重要な方策ではないか。
技巧か真心か

一概には言えないが何かを表現するときに技巧は大切だが、それに走りすぎると難解になる。分かりにくいのが悪いわけではないが、得てして技におぼれて本質を失うことがあるように思えてならない。あるときそれに気づいて基本に戻る。この繰り返しが起きているように思える。
和歌の世界でも最初は神に何かを祈願するものであり、単純で類型的なものだったはずだ。その蓄積の中でさまざまな技巧ができた。おそらく最初のうちは修辞とは思わず、習慣的に繰り返してきたはずだ。あるときその方法が表現するためになんらかの効果をもっていると気づく人が出る。すると今度はその技法を意識して使い始める。洗練されて実に効果的な方法と考えられるようになる。
その技法が広く使われるようになると、鮮度を失ったかのように考えられて陳腐化する。またあれかと考えられるようになるともう刺激はなくなる。さらなる技巧を追求してより複雑な表現技巧が生まれていく。そしてそこに新たな命名がなされ、新しい何かが生まれたかのように考えられている。
高度な技法はその種明かしをしてもらわないと理解できないものになっていく。この表現には古歌のあの雰囲気が裏に隠されているのだ、などという知識なしにはもう分らない。知っている人には意味の複合の効果まであり、表現世界が拡張したかのように感じられるかもしれない。しかし、予備知識なしでは味わえない作品は、すでに表現世界の範囲を超えてきている。
高度で難解な作品ばかりが類型的に作られるようになると、基本に帰りたくなる。素直でわかりやすい表現世界だ。やっぱりこれがいいということになる局面が来る。分かりやすい。でもこれが続くと飽き足らなくなり、再びまた技法の誘惑にはまっていく。こうした繰り返しは詩歌だけではなく、さまざまな表現世界で起きている。
私は何がいいのかは分かっていない。ただ、何かを伝えるとき素直に思いを伝えればいいのか、それともそれを技法に乗せて効果的に伝えるべきなのか、こうした迷いは歴史の中で繰り返されているという事実だけは押さえておきたい。これは時代の風潮でもあるが、一人の表現者のなかでの成長の段階でも起きている。
自画像

自画像を残している画家は多い。中には群像の中に自分の姿を意図的に混入することもあるようだ。なぜ自画像を描くのだろうか。
モデルが雇えないときの窮余の策として鏡に映った自分の姿を描くということはあったようだ。モデル料金もいらず、好きなポーズを好きな時間だけ取らせることができるのは自分自身だ。
でも、十分な収入がある画家も自画像を残している。一種の自己顕示欲を満たすためなのだろうか。先に述べた他の目的の絵画に己の姿を描き込むのは、その意味もあるのかもしれない。それとともに、絵画の世界のリアリティの保証のために、自らの存在を追加したのかもしれない。絵はそれがどんなに精巧なものでもフィクションだ。それがリアルな世界と交流する手段として、自分を登場させたことになる。
もしかしたら風景とともに自分を撮すセルフィにも同じ精神があるのかもしれない。どんなにきれいな風景でもデジタルに変換した時点でリアルではなくなる。電子信号の集合体に過ぎないのだ。そこにせめて自分の姿を加えることで、かろうじて現実味を残したいという気持ちが自撮りの要因の一つかもしれない。

