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非効率で生きる

 時代に逆行するが私は効率を重視しないことに決めた。他の力を借りて瞬時に終えてしまうのは格好いい。でも、そこに自分の達成感が伴わなかったり、感情移入がないものはあえてやらないことにしたい。

 人様にご迷惑をかけないことを前提に大いなる無駄をやっていきたいと考えた。この夏の成果といえばこのことを再認識できたということだろう。私には私のやり方がある。

 

夏休み終了。

 8月も後半に入ったというのに酷暑が続いている。最近は30℃でも涼しいと感じることがあるので完全に皮膚感覚が狂っている。バグっているというのが最近の流行だ。それでも私にとってのいわゆる夏休みは今日で終わりだ。思えば時間があれば何でもできるというものでもないことを証明してしまった。

 何もしなかったわけではないが、何かをしようとして考え抜いて結局何もできなかったということはたくさんある。その方が印象に残るから結局徒労感が先に立っている。やり方を間違っているといえばそれまでだが、あまりにうまく立ち回ろうとしすぎた。もっと失敗してもよかったと考えている。

 ただ、収穫もある。例えばどうしてもうまくいかないときはいっそのこと放棄してしまってもいいという考えを獲得できたことで、ストレスはかなり解消した。できる方法の中でやれることをやればいいというのは一見逃げに感じるが、実は方法論の再検討をした結果だともいえる。できないことは人に任せ、自分ができることを追求するというのでいいのだと考える。そして、結局は小さな積み重ねでしか物事を成し遂げられないことも痛感した。

 昔は夏休みが終わることにこの世の終わりのような悲壮感を覚えたのだが、今はそれほどでもない。むしろやるべきことがある程度決まっている毎日の方が楽な気がする。それほど自分の時間を自分で作っていくことは楽しいが苦しいのだ。これからは日常の中に自分の時間をいかに作っていくか。それを楽しみたいと思う。

力の抜き方を獲得する

 熟練した人は力の抜き方が分かっているという。これはいろいろな分野においていえることで、いかにリラックスして自分の力を発揮できるのかが大事ということである。

 手業やスポーツなどの身体的なものに関してはこの考え方は分かりやすい。力みをなくしたほうがうまくいくという結果は容易に実感できる。これはものを考えるときにも言える。問題解決の方法は熟慮熟考は大切だが、それでもうまくいかないときは一度別のことを考えてみる方がいいらしい。散歩したり、ジョギングしたり、関係ないことをやるといいという。

 力を抜くというと簡単なようだが実際は結構難しい。懸命に努力しているのを止めてしまうことは難しい。現実逃避ではないかと思われてしまう。思考を中断することで必ず成果があがるとは言えないし、かえって失敗に結び付くこともある。だから練習というのは力の入れ方だけではなく、抜き方を学ぶことでもあるのだろう。

熱中できる余裕を

 何かに熱中して時を忘れてしまうという経験は誰にもあるだろう。今はそれを時間の無駄使いと考えてしまうが、実は大切なことだとも思う。何かに打ち込めるというのはそれだけでも幸せなことなのだ。

 恐らく熱中できる余裕を今はなくしている。1日本を読んで何もしなかったとか、限りなく歩き回って何の用事も足さなかったといったことがなくなっている。少なくとも何らかの意味づけをして自己満足をする。それができなければ自責の念に苛まれる。

 よく考えてみれば余裕のない不幸な日々なのだ。すぐに答えを出さなくてはならない最近の風潮に背くことも必要なのかもしれない。そこから始まる何かもある。

オンリーワンの美学

 ナンバーワンにならなくてもいい。オンリーワンを目指せという言葉は流行した歌詞にもあって人口に膾炙している。しかし、これは言うに易し、行うには覚悟がいる。負け惜しみと区別がつきにくいのだ。

 ただやはりオンリーワンの美学は大切だと思う。人を何かの物差しで測るとたちまち序列が生じる。身長順、年収順、家柄の序列、その他何でもいい。たちまちに序列が発生する。ただ物差しが変わればこの順番は一変する。例えばもっとも私の性質を備えたものという基準では紛れもなく1位は私である。

 物差し次第で世界はいくらでも変わるということを私たちはもっと意識していいのではないか。私は他にはいない。極めて不格好で要領がよくないがこれらの条件をすべて満たしているのは私しかいない。不細工と不器用の絶妙なバランスだ。歴史を学ぶとあらゆる美意識も価値観も無常である。たまたま誰かの基準で低い値になったとしても、過去もしくは未来においてその数値がそのままであると誰が保証できようか。

 最近の私は全く時流にはあっていない。それで衰微していくのが既定路線なのかもしれない。でも少し上空に登って見下ろそう。お前の振る舞いは単に時代遅れなのか。それとも真の評価がなされていないのかと。

 老いの繰り言と失笑されそうだが、やるべきことをやり続ければ必ず世の中のためになる。その役を演ずることをまだ諦めたくはないのである。

窮すれば通ず

 中国の四書五経の一つ「易経」に「窮すれば転ず、転ずれば通ず」と読める一説があるという。困難な状況に陥ると、かえってそこに打開策が見つかり、新局面が現れる可能性があるということらしい。楽天的な考え方だが、今の私にとっては頼もしい金言だ。

 いろいろな意味でこれまでの経験が生かせず、新しい事態に対処できなくなっている。しかし、こういう難局こそが自分の生き方を変え、新しい方向性を拓く可能性を生み出すといえるのであろう。成功体験を積み重ねているうちは、次の選択肢が見当たらない。目に入らないといった方がいい。それが手詰まりが起きるとやらなくてはならないことが出来し、それが現状打破につながるのだろう。

 窮する前の段階として「貧すれば鈍する」というのがある。生活苦は人間の正確な判断を失わせ、時に誤った行動に走らせる。そこで自他に大きな損害をもたらしてしまうことがある。そうならないことに気を付け、窮する段階までもっていかなくては通ず状態にはならないのだろう。中国の古典は現代社会を生きる上での生活の知恵になり得るものがある。

悪意なき中傷

 自分自身への反省として書く。悪意がないのに人を傷つけてしまったことが何度もある。たとえば話の流れで特定の年齢や立場の人のことを悪くいってしまったことがある。言ってしまった後にそれに気づいてもどうしようもない。大変申し訳ない思いになる。

 それならばまだいいが、より深刻なのは誰かを傷つけたことを自覚できないときだ。悪意がないのだからそれは罪ではないともいえるのかもしれない。しかし、言われたほうの立場を慮るにそれでは済まされない気がする。そんなことを気にしていたら何も言えなくなるという声も聞こえてくるが本当にそれでいいのだろうか。

 最近自分が年配者になり、若い人の発言を聞いているとしばしば加齢に対する衰えを嘆いたり、あるいはできることができない人に対して一概に非難したりすることを聞く。彼らには悪意はないし、特定の人に向けて発言しているのではないことは明らかだ。しかし、例えば私のような年齢の人がいる前でそれを口に出してしまったり、相槌をうって談笑するのはやはり配慮が足りないというしかないのではないか。

 最初に述べたように私も先輩のいる前で高齢者の批判をしたり、能力の衰えを揶揄する一般論を展開したことがある。もちろん、その先輩は微笑んでいて特に不快な様子はなかったが、果たして本心はどうだったのだろう。私は今自分がその立場になって過去の自分の軽率な振る舞いに恥じ入るのだ。

 ソーシャルメディアが普及して自分の未整理の考えを公開してしまうことが当たり前になった。読者を想定せずに発信してしまうことに抵抗がなくなった。というよりどんな読者がいるのかの想像力を失ってしまっている。そんな時代の中にあってリアルなコミュニケーションでも相手に対する配慮がなくなってはいまいかと心配になるのだ。

水無月尽

 2024年も半分終わることになる。私にとっては下降傾向の期間で辛いことが多かった。自分の衰えを痛感することは痛恨の極みであった。

 それとともにデクレッシェンドの中で何ができるのかを学んだ期間でもあった。老兵の戦い方を少しだけ理解できた。

 ただ現実はそれほど甘くはない。この厳しい現実の中で自分の最適化を図ることは不可欠だ。次のステップをいま必死に模索しなくてはならない。

 自分を安売りしたくはないが、他者からどう見えるのかに目配せもいる。今年の下半期は自分を冷静に評価し、次のステップに進むために使いたい。

アンケートの読み方

 何が人気か、どれが優れているのかなどのアンケート調査がある。様々なものがあって世間での評価を知る一助にはなるようだ。ただ、その結果が真実なのかは慎重に考えなくてはならない。アンケートに対するリテラシーが必要だ。

 新聞社や放送局が行っているアンケートもよく見ると調査方法や調査母体に偏りがあることが多い。そもそも標本数が少ないのにそれが現実であるかのように語られるのは間違いである。そんなことはわかっているはずなのに数字となって示されるとうっかり信じてしまうものである。

 よく言われるように質問の仕方や順番によっても結果は変わる。どのように問われ、何を答えさせようとしたのか。調査の現場まで遡って考えなくてはアンケートの数字は鵜呑みにできない。好きなラーメンの味くらいなら罪がないが、政治的な判断や、信条、経済的な判断にかかわるものなどならば、偏向した情報は大きな問題になる。

 インターネットによる投票をアンケートで使うときも同じことがいえる。そもそもネットのアンケートに回答しようとする行為自体に行動的な偏向がある。さらに、強い関心があるか不満があるといった極端な意見が反映しやすい。現状に満足していたり、どちらでもないといった考えを持つ人は回答のためにわざわざ時間と手間をかけないだろう。

 だから、アンケートを読むときには様々なバイアスがあることを前提に読まなくてはなるまい。それが真実に近づくための方法である。

まずは考えてみること

 今日は書くことがなかなか思いつかない。こういう時は天気の話を書くのだが、それも最近多すぎる気がしている。書くことが思いつかなくなった原因の一つが深く物事を考えなくなったことである。これまでの経験に照らし合わせて、書く必要性を感じなくなってしまっているのだ。これは大きな思い違いであることは分かっている。

 自分の体が日々変化し、細胞レベルではどんどん入れ替わっているというのに、昔考えたことがいまでも当てはまるとは思えない。やはり変わっているのだ。だから、同じようなことを繰り返して書いてもそれには意味がある。それを忘れてはならないのだろう。

 なんでも効率的に無駄なく、冗長性を排除するという考えに染まると自由な発想ができなくなる。すでに自分より有能な人が考えて結論を出していることを自分が考えても意味がないなどと考え出すと、結局何も考えないことになってしまう。これは私だけではなく、現代人にある意味共通している現実のように思う。さらに相手がコンピューターになると無力感が甚大なものとなる。

 稚拙でも準備不足でも自分で考え、そこにあるもので解決を試みることが何よりも大切なのだろう。