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対策薬

 対策薬を飲み始めた。と言っても花粉症対策である。これを飲むと私の場合、かなり軽減される。ただ副作用があるのが残念だ。

 一番気になるのが喉が渇くことだ。唾液の分泌が減るのだろうか。そうならば防疫面での心配もある。眠気が出ることもあるのは余計困る。最近の薬はかつてほど催眠作用はないが、それでも少し違和感が生じる。

 今年はコロナウイルスに向けた対策を同時にやらねばならず苦労が多い。何とか乗り切らなくては。

別の時代

 もし自分が別の時代を生きていたらと思うことがある。確率的には特権階級である可能性は低い。支配される人生の中で何を考えたのだろうか。

 今のように多数の人々と交流することができる前の人生はいかなるものだったのだろう。知らない人がほとんど意識に上らずに生活する毎日はどんなものだったのか。想像することも難しい。

 別の時代に生きていたらと考えることは楽しい。だが、その答えを知るのはかなり難しい。

タイムトラベル

 最近の通勤電車はとても空いており、かつての過密はない。座ろうと思えば座れるときもあるくらいだ。日本有数の混雑路線でこれなのだから他はどうなのだろう。

 これから訪れる人口減少社会の風景を先取りしているのかもしれない。ただ、それには乗客の年齢が多少若い気がするのだが。

 今後どのような人生が待ち受けているのかなど誰にも分からない。あるのはあまり変わりようがない数値だけだ。そして己も老いていくこと。きれいなデクレッシェンドを演奏できるよう準備を進めたい。

 大きな音、激しいリズムだけが正解ではない。まだできることはいくらでもある。

平常心

 冷静にならなくてはと思いつつも、最近の私はかなり脆い状況にある。いろいろなプレッシャーに苛まれてうまくいかないことが多すぎるのだ。

 平常心を取り戻すための方法は確かに試したことがある。その成功例を思い出そうとしている。ただ、それがまた焦りにならないようにせねばと思う。

分かりやすさ

 分かりやすさを追求することには功罪がある。分からなければ伝わらないのだからなるべく分かりやすくするというのは間違っていない。

 ただ、分かりやすさには落とし穴もある。分かりやすくするためにそれを作った人の意見や解釈がかなり入り込んでいるということだ。

 物事は複雑で難解だ。それにいちいち挑んでいく気持ちは失ってはならないのだろう。

さらなる変化

 緊急事態宣言継続が濃厚になった。社会情勢がさらに変わっていく可能性を感じる。私達は日々の変化にうまく対応してきているがさらなる対応が必要になってくるだろう。

 最近の私達はいろいろなことを諦めている。しかし、その一方でしたたかな気持ちも忘れてはいない。隙きあらば新しい方法で何らかの利益を得たいという願望だ。それが経済的な方面に向かう人もいれば、もっと精神的な幸福感の追求に向かう人もいる。もちろんそれらは連動している。

 さらなる変化にそって人生も変わっていくのだろう。思わぬ側溝に落ちないよう、他人を巻きこまないよう進んでいきたい。

成功は失敗のもと

 今読んでいる野口悠紀雄『リープフロッグ』は経済的な弱者がその条件ゆえに一気に先頭に立っていくという逆転の経済仮説を述べたもので興味深い。強者と弱者の格差が年々開いていくと考えるのが一般的であるが、実は条件さえそろえば一気に状況が変わるというのだ。

 氏は中国を例えにしてこの現象を説明する。古代中国は様々な発明をし、強大な王国を作り上げたものの、その体制を保全するために保守化し、欧米や後進の日本にリープフロッグされたが、いま欧米日本が既得権益を維持するために新技術を開発する力を持ちながらその先に踏み出せないうちに、中国が再逆転したというものだ。これはある意味積極的な発展観であり興味深い。逆転されたら再逆転しようというモチベーションにもつながるものだ。

 ただ、気になったのは現状に満足しているとそれが滅びの原因となっていくということだ。つねに次の段階を考察してあらゆる可能性を考えていかなくてはならないということになる。このレベルにも当てはまることだろう。

名を残す

 子どものころは、そしてつい最近まで自分の名前が歴史に残ることを理想として考えていた。人生は短し、芸術は長しという格言も座右の銘としてあった。しかし、最近この考えはいかがなものかと考え始めている。

 死後に名を残すということは結局は他人の行為なのだろう。自分が努力したところでそれは自己満足に過ぎない。自分の存在を記憶するのか忘却するのかは他人任せなのだ。だからそれを自分自身が企図することは実はおかしいのだ。私は最近はそう考えている。

 もしかしたら、これは自分が何もできていないことの自己弁護なのかもしれない。名誉というのものは実に厄介だ。

名付け

 無形の現象になんと名前をつけるか。それが新しい考え方を生み出す原点のようだ。社会現象などの連続的な出来事は実は全てが異なり、同じものなどない。しかし、似たようなことは何度も起こることも事実である。それにどのような名前をつけるかが物事を把握する出発点になるということだ。

 名前がつけられるまでは経験しても記憶されない。正確に言えば記憶しようと思っても手がかりがない。思い止めようとしても手ですくった水が滴り落ちるようにいつかは消えてしまう。それが一旦名前がつくと掌握できるようになる。小異は気にならなくなり、共通する要素を見出していく。それだけに名付けは大切だ。

 でも名前をつけるのは簡単ではない。パターンとして把握するにはそれなりの経験と大胆な推論が必要だ。多くの人はそれを持ち合わせない。だから、ある人が適切なネーミングをすることで初めて見えてくることがあるのだ。私達はそれを学習として把握している。いろいろな本を読むとき、人の話を聞くとき、その名付けられた概念を組み合わせで考えをまとめているのだ。

 では、名付けることは専門家に任せればいいのか。そうではないと思う。私のような一般人でも積極的に名付けを行っていくことが、世界の把握には欠かせない。少なくとも名付けをする意欲だけはいつまでも失ってはいけないと思う。

思いやり

 ソーシャルディスタンスをどのように考えるのか。揺れてきているかもしれない。そもそも感染予防は誰のためなのかという問いを再考してみる。

 未曾有のパンデミックが人々を不安に陥れた昨年の状況においてソーシャルディスタンス(Social distancing)は日本では密閉・密集・密接をさけるとして「さんみつ」として人々の共通理解となっている。それは自らの感染を防ぐという意味でまずは認知されたはずである。日本のように社会性の強い国ではこれはそのまま社会の安定という発想につながった。自分が感染しないことは周囲に感染させないということであり、それが自らをふくむ家族・組織・共同体の利益になるという考えである。だから他国と比較して手指消毒・マスク着用がいち早く行われ、さらに普及率も高い。

 ところが、長く続けているうちにさまざまな解釈が行われ、この行動が変容してきている。初期にはアジア人は感染しにくいという根拠なき判断であり、最近は重篤化するのは高齢者か既往症を持つ人だけであり、若年層は感染しても軽症で済むというものである。いずれも科学的に証明はされていないようだが、ここまでの経験ではある程度あたっているかもしれない。そこで当初生まれた社会的な防疫という観点が薄れ、自分が感染しない、もしくは重篤化しなければいいという考え方が台頭してきているのだ。これは経済活動の維持論とも連動して強いものになっている。

 真実は分からない。ただ言えることは同じウイルスで死ぬ人がいてそれを防ぐために悪戦苦闘している人がおり、同じように働いていても日々労働の機会が奪われている人がいるということだ。その裏で自らは発症することなくキャリアーとなり、自らは現場に立つことなく利益を増やしている人々がいるにもかかわらず。

 自戒を含めて言うならば、人間は社会的な生き物として進化したことを忘れてはならないのではないか。自分が良ければいいという考えが結果的に破綻することを私たちはすべての学問、教育、経験で獲得していたのではなかったのか。あるいはもっと奥にある遺伝情報に組み込まれているのではないか。

 思いやりを持ちましょうというのは感情レベルで話されることが多い。しかし実はもっと切実なものなのかもしれない。私たちが生きていくうえで不可欠なスキルが実はこの日常語の中にあるのかもしれない。