タグ: 自己啓発

逆境こそ

 コロナ禍の最近の大流行はピークアウトしたようだ。これからも繰り返すかもしれないし、次第に収束していくのかもしれない。いまのところはなんともいえない。病魔が影をひそめたと思ったら、今度は中国の不動産バブルが世界経済を撹乱しつつある。この影響もどこまでいつまで続くのか分からない。

 いまは恐らく逆境の中にあるのだろう。これ以外にも身辺を取り巻く状況に厳しいものが多い。私的問題もある。そうした逆境を悲運として受け取るか、別の兆候と考えるか。私は岐路に立っている。

 変化の多い現状では損失が多く、それ故の心身の打撃も大きい。それだけで疲弊していく何かがある。その一方で、変化に対して寛容になる環境が整っているともいえる。繰り返す転身が単なる逃げには映らない。

 こういう状況は自己変革の絶好の機会なのかもしれない。そう考えるといまの状況もまんざらでもない。

類型思考

 私が対象を型にはめて考えているということは先日も書いたが、これは人物に対する評価にも当てはまる。そしてとても注意しなくてはならない事実でもある。

 個々人のあり方は多様であり、厳密には唯一無二の存在しかない。しかし、それを私は何通りかの型に分類しているような気がする。特に視力が落ちて細かいところが見えなくなったいま、外見上の特徴に関しては分類項目が減っている。よく似た人がいると認識することが増えているのはおそらくそのせいだ。本当は全く似ても似つかない。でも、判別する型が減少すれば同じ範疇に分類されてしまうのであろう。

 気質、性格、コンピテンシーに至るまで分類の方法はかなり大雑把になりつつある。あの人はこういう人だから、という時のこういう人の分かれ目の数が減っている気がするのだ。絵画に喩えてみれば使える絵の具の色とか、筆の種類とかが少しずつ減らされている感じだ。

 こうした傾向に歯止めをかけたい。どうすれば絵の具の色彩を減らさずに済むのか、摩滅した筆を捨てずに描き続けるのにはどうすればいいのか。縮小傾向のなかでもできることはあるのかもしれない。別の絵の具で色を創り出すとか、筆力を減らしても描ける方法を編み出すとか。やれることはまだあるのだろう。まだあきらめる段階は早い。

Photo by Dids on Pexels.com

枠組みの外

 私が何かを見たり聞いたり、考えたりするとき既存の枠組みが大きく作用している。最近、特にこれを実感する場面が多い。

 枠組みを外して考えろとはいうのは易しいがなかなかできるのものではない。枠組みから外れると認識すらできないことが多いのだ。感知できないことは思考の中に取り込めない。

 私の場合、何かのはずみでいつもと違う考えが浮かんだとき、それを残しておく手段が短歌や俳句、詩といった韻文である。これも最近気がついたのだが私の作る短歌は何かおかしい。辻褄が合わない世界の表現はきっとこのフレームアウトした何かを張り込もうとする結果なのではないか。

 韻文のままでは思考に繋がらない。さらに先を追求すると新しい局面に到達するのだろう。

パラリンピックも終了

 いわゆるTOKYO2020大会が今日で終了した。メダルの数が増えたことは選手や競技関係者にとっては嬉しいことだろう。日本人にとっては非常に複雑な大会であった。すぐ近くで行われているのに見ることができない。海外からの選手団を歓迎することもできず、ウイルスの運び屋ではないかなどと勘繰る向きまである。折悪しく開催時期にコロナウイルス感染者が爆発的に増え、緊急事態宣言が出されたままであった。

 日本人は災害に慣れているのか、この状況になっても一部のデモがあっただけで、混乱はまったくない。海外でどのような報道が行わているのかわからないが、東京は極めて平穏である。人出は抑制されているが、それでも集まるところには集まっている。マスク姿の異様性ももうなれてしまっている。医療機関は大変な状態だと言うし、在宅待機を言い渡らされて後に死亡した事例なども紹介されているので事態は深刻なはずなのに、少なくも自分の近辺はほとんど変化がないのだ。

 このウイルスの罪なところはこのように一部の人に深刻な害を与え、それ以外は軽く済んでしまうということだろう。危機感を共有しにくいし、真剣な対応も取りにくい。オリンピックとパラリンピックもだから素直に受け取れない。現代人を分断しようとする悪魔の手段なのだろうか。国際大会は多様な人を結びつけるための手段であったはず。古代オリンピックは不戦の日としての役割もあったはずだ。私達はなにかとても大きな力に対しても勝利を収めなくてはならない事態に追い込まれている。

先輩面にて

 先輩面して一言言おう。今できていることがいつまでもできるとは、思わない方がいい。これは大切なことだ。

 誰もが加齢という不可逆的な流れから逃れることはできない。見た目がいかにあろうとも中身は着実に変化しているのだ。するといままでできていたことができなくなってくる。これは少しずつ自覚できるものではない。あるとき急に立ち現れ、ゆっくりと自覚を促そうとする。抗えないものと観念するには時間はかからない。

 だから後輩諸君には改めて言っておきたい。先延ばししても同じことができる保証はない。やれるときにやっておくのが賢明なのだと。

涼風

 ここ数日、気温が低めで推移している。猛暑に順応した身体にはかなり肌寒く感じられる。これが秋の始まりかというとそうでもないらしい。季節のゆきあいは波のような循環である。

 落ち着いて本でも読みたくなっている。8月は暑すぎた。比較的時間があったというのに。毎年、同じことを思うのだが夏の休みはあまり生産的ではない、私にとっては休養のときなのだ。その意味では目的を果たせたのかもしれない。

 このブログはポジティブになるために書いている。そしてこれからもそうするだろう。

9月

 今日から9月だ。伝統的な暦ではすでに秋は始まっているが、この月を季節の変わり目と考える人は多い。今朝も昨日と比べるとかなり気温が落ち、何かが変わったことを感じさせる。

 日本では夏休みが終わり2学期が始まるのがこの月だ。最近は地域によって様々な形があるので一概には言えなくなっている。再始動の月であることは確かだ。

 集団生活の復活に緊張する子どもがいることがこの時期の年中行事的な出来事である。今年は少し様子が違う。コロナウイルスの感染が一向に収束に向かわないので、登校を辞退するという選択肢があるのだ。行きたくないからの理由が、個人的な問題にとどまらなくなっている。

 生徒、学生諸君には早く平常の学校生活を送っていただきたい。失われた何年などと後で言われないようにやれることはやっておこう。

聞き出すこと

 当事者でないと理解できない苦しみがあることは確かだ。それは心身ともに痛みを感じるものである。名状しがたいものであり、本人以外は決して踏み込むことができない何かだ。まずそこから始めなくてはならない。

 その意味において私たちは、他者の窮状を救うことはできないのかもしれない。陥穽から這い上がるのはあくまで本人であり、手を差し伸べれば解決するというものでもあるまい。ただ、本人が上昇するきっかけを与えることはできるのかもしれない。それは相手が苦しんでいるということを理解することから始まるのだろう。

 相手の苦しみを当事者に言語化してもらうことができれば解決策に近づく。漠然とした不安が言葉に集約されれば、その本質に近づく手がかりが生まれてくる。だから、私たちができるのは苦しみの当事者の言葉を聞き出すことだ。これには粘り強い気持ちが必要であり、その前提の愛情もいる。聞き出すことから、自助のきっかけを引き出せるのだ。

転機

 転機はいつか来る。来たときにどのように振る舞うかが大事なのだろう。

 膠着状態にある毎日の生活の中では想像が難しいが、転機は必ず来るはずだ。それは自らが意図しないことかもしれない。でも、訪れる機会を無駄にしないよう心を柔軟にしておかねばなるまい。

 私は予感を得る才能はないのでただ待つだけだ。そしてやるときはやる。いまはその蓄えの時期なのだ。

コーチ

 少年サッカーのコーチを見る機会があった。小学生の男の子たちが大半で、女の子もいた。

 コーチは乱暴な言葉を使わず、具体的に何をすればいいのかを指示する。ボールを頭より高く蹴り上げてみよう。どうしたら上がるのか、その力ぐあいを覚えておこう。できた子どもには賛辞を送り、できない子にはさらに言葉をかける。できなくても続けさせ、明日はできるようになるという。

 彼らの方法には学ぶべきことが多い。ボールを蹴るのはあくまで子どもたちだ。それを蹴らせることにコーチの存在価値がある。