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アジャイル

アジャイルとは素早さという意味があるらしい
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 アジャイル(agile)とは機を見て策を変える手法のようである。ソフトウェア開発で使われていたことばが経営学的にも援用されている。刻々と変わる価値観にいかに適応させていくかを重視する方法であって、不確実性の高い現在の社会状況にまさに適応するために生まれた。

 少し前ならばこういう考え方は低く見られがちだった。一貫したポリシーがないかのように見られがちだったのだ。あるいは弱者が生き残るための必死の策と考えられ、余裕のあるものはとるべきではないと考えらえていた感がある。

 アジャイルのような考え方が主流派に加わりつつあるのは、やはり予測不能の時代への対処を何とかしたいと思っているからだろう。特にわが国には前例踏襲の伝統があるといわれ、それが発展を阻害していると言われている。私はこれには反論がある。

 日本文化は中長期的には常にアジャイルで進んできている。伝統を守ると言いながら常に新しい要素に寛容であった。よく考えてみればこの日本語自体が時代とともに様々な外来のものを取り入れて変化しているではないか。

 昨今の時代変化はこれまでとは異なり速度や影響力が多大である。それに対応するには日本列島に住んできた人たちが土着的に身に着けてきた臨機応変性を思い出すのが一番だと思う。神道的なものから仏教や儒教といった宗教的なフレームを受け入れベースにしながら、次は資本主義や西洋科学の概念を模倣し文化に取り入れた。情報化社会となった現在も海外からさまざまな考え方や物品が来ているがこれを貪欲に取り入れ、和風化し、その都度取捨選択して形を変えていく。日本式アジャイルはここにある。

 完成品ばかりを理想としてそれにランクをつけるという考え方も実は歴史は浅い。なければ自分で作ればいい。そう考えてきた。そうして次々に自分の身の丈に合ったものに変えてきたこの国の歴史的土壌に自信を持っていいのではないか。日本文化が他国のそれと比較して特に優れているとは考えていないが、先祖たちが築き上げ、いまの日本人にも受け継がれていることは確かに尊いものがある。

電話番号

 携帯電話を使うようになって確実になくなってしまったのが電話番号を覚えるという努力である。機械の方が記憶してくれるし、かけるときも番号が表示されず、相手の名前をタップするだけだから意識するチャンスがないのだ。おかげで家族の番号すら覚えていない。それどころか自分の番号でさえ時々確認している。

 このような機能がない時代はアドレス帳を持ち歩いていた。手帳の付録に番号控えがあった。よくかける人の番号は強引に語呂合わせして覚えた。何回か口に出していううちに長期記憶に入った。考えてみればいまはこれがない。登録すればあとは記憶から消える。

 これは便利な機能であることは間違いない。数年前にたった一度だけかかってきた番号でも1分足らずの作業で登録すればいつでも取り出せる。前回はいつかかってきたのかも調べようと思えばできる。

 便利さは何か大切なものを奪っていく。電話番号が覚えるべきものではなくなってしまうと、次は会話そのものの価値も無機質なものと考えるようになる。論理的飛躍があるがこれは事実だ。いつでもボタンを押せば他人と繋がると考える錯覚はこういうところから起こるのかもしれない。

疑似的俯瞰

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 地図を見ることは楽しい。最近は紙の地図を広げることはめったになくなった。それでも観光地に行くともらえる地図には心が躍る。さまざまな情報が集められているし、その地に行けばきっと何かがあることが予感できるのがいい。

 最近は車に乗るときにスマートフォンの電子地図を使うことが多い。本来ならば専用のナビゲーションが必要だが簡易的に使っている。グーグルマップでも十分に代用できる。これにはいいことと悪いことがあって、いいことは迷わなくなったことだ。何しろ渋滞状況も考慮して最短の道を教えてくれる。これでいける場所が増えた。悪いこともある。それも迷わなくなったことだ。出発点と目的地が点と線で結ばれ、その周りにあるものがすべて無目的に見えてしまう電子地図がなかったころは周囲の地形や目標物をあらかじめある程度頭に入れてから運転していた。その中で大まかな位置関係や地域の状況がわずかながら分かった。ナビゲーションを使うとそれらが頭に入らない。

 電子地図をナビとしてではなく、自分の住まいの近くを表示してみた。すると様々な発見がある。歩いているときとは少々位置関係が違って見える。実査に進むことはできないが距離的には実は離れていなかったり、遠いと思っていた場所がそれほど離れていなかったりする。知らない店の名前や、公園の所在などが分かる。自分の生活圏を俯瞰するのにこの地図は面白い。地図はどこかに行くためのものだけではなく、自分がどこにいるのかを知るためのものであることに改めて気づかされた。

 鳥のように空を飛べば普段気づかないことに気づくことができる。飛ぶことはできないが地図を使えば疑似的な感覚は得られるのかもしれない。

味覚

 何を美味いかまずいかという尺度はどのようにできあがるのだろうか。普遍的な感覚に思えるが実はまったく特殊なものだ。

 外国人が顔を背けると言われる納豆などの伝統食は確かに日本人でも嫌いな人もいる。そもそも醤油味が苦手だという人には日本は住みにくい国だ。逆に海外の料理の中には味覚的に受けつけないものがある。

 人種による感覚器の違いだという話はあまり聞かない。やはり、食文化が総体的に味覚に影響を与えるのだろう。

 味覚だけではなくすべての感覚にこうした文化的なフィルターがかけられていることは時々思い出さなくてはなるまい。同じものを見ても触っても食べても、別の感覚で捉えられていることを前提にコミュニケーションすることが必要だ。国際問題ではそれが顕著だが、隣人もまた同じ態度で臨むべきなのかもしれない。

マスクを外す

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 政府が条件付きでマスクの着用をしなくてもよいケースを発表している。十分に距離が確保され、会話が少ないという状況ではマスクをつけなくてもよいとするものだ。コロナの呪縛から逃れることができるのはうれしいが、まだ不安もある。もっと不安なのはウイルスより人間の方だ。

 マスク警察とか自粛警察と呼ばれた人々の行き過ぎた行動をしたことは記憶に新しい。集団ヒステリーの一種とも考えられる。マスクをしていない人に過度に注意をしたり、暴力的な言動をする人がいた。さらに県外ナンバーの車を傷つけるといったことも行われた。全く無意味な行動に走ってしまうのが人間というものである。

 今回は政府が外してもいいという見解である。ここでまた曖昧な状況が起こる。価値観の異なる人たちが自分の基準で行動すると過剰反応をする人が出てくるのだろう。自分の常識は他人の非常識、その逆もまた真ということが分からない。同調性の強い国民性である日本人にはこうした考え方が理解されにくい。

 集団で生きるしかない人間の定めから起きる問題である。

立ち直り方

 スランプに陥ったとき、その脱出方法というものがあればいい。そう思うがこの歳になってもそれが分からない。情けないことだが事実だ。あえて言うのなら解決しようとしないのが解決法と言えるのかも知れない。

 ラグビーやフットボールの選手を見ていると倒されてもまた立ち上がる。鍛えているからだろう。とても羨ましい。倒されることが当たり前になっている競技は立ち直ることも練習しているのだろう。

 人生の現実はそう簡単にはいかない。ちょっとしたことでダメージを受ける。これもそうなることが当たり前だと思うことにしよう。倒れることを恐れてはならない。

 周りから学ぶことはいろいろある。それが面白い。

メンテナンス

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 印象的な物言いで恐縮だが、最近メンテナンス不足による小さな事故が起きる可能性が増えているように思う。一度完成させたものは常に管理しなくてはならない。そのためには技術的な問題もあるが、第一は人の目である。それが人材不足や意識の変化によっておろそかになっている気がする。

 過去に作られたインフラは更新の時期を迎えているものがある。景気が低迷し、メンテナンス作業に手が回らなくなったものは放置されているものがあるようにしてならない。熟練の職人たちが大量定年の時期を迎え、経験が生かされなくなっているのも原因のようだ。その分を機械制御で管理すると言われているが、コンピュータには与えられた指示以上の行動はできない。愚直なほどの意識がなければ予測不能の事態に備えることは難しい。

システムの保守には注意を払うべきであるし、そこに従事する人にはもっと敬意を持つべきだと考える。効率主義のなかでひそかに切り捨てられるものがこの部署であるとしたら、突然の崩壊に備えることはできない。

少し先

 

未来は分からないけれど

自分に未来を見通す力はない。あればもっとマシな人生を送っているはずだ。ないからいつも時勢に振り回されている。夢や希望を忘れないように心掛けたが、いつも進路変更を続けてきた。そんな愚鈍な者でも感じていた未来がある。

 こどもの頃は当たり前だった買い物かごを提げている主婦の姿が、現代に現れている。エコバッグなどという名前がつき、収納可能なビニール袋だが、この姿が現れるだろうとはかなり前から予感があった。恐らく次は飲み物や液体調味料の量り売りの形態が復活するだろう。

 ブランド品が法外な値段で売られていてもそれを買うことで満足していた時代があった。持っているだけでステータスのように考える人がいた。いまもそのブランド信仰者はいるが若者には少ない。経済的に厳しいこともあるが大量生産で利益を上げすぎたブランド品が、品質やデザインの優位性を示せなくなったことが大きい。数は少ないが価値は高いというものだけが高級ブランドとして認められるようになる。そして長い間使い続けられる。そういうものに価値を感じる時代が来るはずだ。

 我が国の経済力が縮小傾向に向かうことは避けられない。ただし、いまとは別の価値観が生まれ、思うほど貧しくはならないかもしれない。量より質が重視され、質を保つための適度な出費は惜しまないという消費行動が円熟した国家の国民の方向性の一つとなる。

距離感

 渋谷に住んでいたとき銀座は遠いと思っていた。もっと近くの六本木さえかなり時間がかかると思い込んでいた。最近、たまにその地を訪れるとそれらが実は隣接していることに気づいた。

 隣接というのは誇張に過ぎるがそれほど遠くはない。歩いて行ける距離だと知ると少々驚いている。近くに住んでいたときより、離れてからのほうが距離感がつかめたということになる。

 もちろん自分の身体が成長したことや車を運転するようになったことなどは距離感覚に大きな影響を及ぼしているのは確かだ。ただ、それだけではなく東京を俯瞰する視点が区民でなくなったことによって身についたのだろう。こういうことは多方面にあると考えられる。

5月病

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 連休が終わると体調を崩す人がいるという。私などは休日の次の日はいつも憂鬱だが、病気という範疇には入らない。逆に言えばいつも半病人だ。

 5月病の原因の多くは生活のリズムの崩れによるそうだ。休みになれた身体がいきなりアクセルを踏むとエンストする。古いたとえだがこれがその本質らしい。だから、連休明けは思い切り連休ボケをかますのがいい。上司に白い目で見られても、エンストよりはましだ。それどころか休養した分、速く走れるかもしれない。監督者は長い目で見てほしい。選手を短期間でつぶすのはあなたの指導力が足りないのだ。

 とはいえ、いろいろと不安になることは多い。まずは焦らず、他人と比較しないことだろう。自分なりのやり方があると信じるべきだ。5月は気候的にはいい。連休で培ったのんびり過ごす方法を維持することが、実は最もよいパフォーマンスを出す方法なのかもしれない。