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次の月食

次に見られるのはいつ?

 明日、皆既月食になるという。晴れればちょうどいい時間に見られる。星の重なりが生み出す現象に過ぎないと知っても気になるものである。

 月食は比較的頻繁にある現象だが、それでも見られる偶然は嬉しいものだ。小学生のころ、東京で見られる日食や月食のデータを見て、2000年代は遠い未来だと思っていた。その頃自分はどのような生活をしているのだろう。果たして生きているのだろうかなどと漠然と考えていた

 その2000年はとうに過ぎ、さらに22年も過ぎている。残念ながら博士にも大臣にもなれていない。日々の生活に満足できていない己がある。逆に言えば何とか生きていて、ブログを書けるだけの生活はできている。これは幸せということなのだろう。

 日食や月食があると次の機会はいつなのかが気になる。恐らくその時までは生きていないだろうと溜め息をつき、いやそれでいいのだと考えたりする。

世代想像力

 思いやりという言葉の指す範囲は広範だ。残念ながら私達には基本的に他人の感情を理解する能力はない。ただそうではないかと想像するだけだ。

 年齢の違う相手への想像はさらに難しい。子どもの頃、大人たちの考えが理解できず、大人になると子どものことが分からなくなる。自分も子どもだったはずなのになぜか理解ができない。

 老齢の方々のことも理解が届かない。どうしてそういう行動を取るのか、なぜそのようなことを言うのか。理解が一つ一つ止まってしまう。認知症などの身体的要因もあるが、そういう障害がない人でもどうしても分からないことがある。

 こういうときに働かせなくてはならないのが想像力だ。子どもは、老人はこう考えているのかもしれないという可能性をどれだけ思いつけるか。その中の蓋然性をどれだけ忍耐強く考えられるのか。それしかない。

 人は変わりゆくもの。そしてその変化は決して外観や身体能力だけではないということを再考したい。

比喩

 だれでも使う修辞に比喩がある。修辞といったが多くの人にそういう意識はない。ごく自然に使う。「ような」などの語を用いる直喩は日常的な表現方法だ。私たちが比喩を使うのはなぜか。使うことにどのような意味があるのだろうか。

 比喩にもいろいろな種類があるが、最も分かりやすい直喩は例えるものと例えられるものが明示的に分かる。この例えるものと、例えられるものの関係を考えてみよう。例えるものは発言者にとって身近なものであり、何かを述べるときの基準になりえる。対して例えられるものはその正体が不明確なこともあり、それを例えるものを使って説明使用していると言える。

 別の表現をすれば既知の事実を使って未知の事実を説明するときに使われるのが比喩ということになる。例える材料が多い人はこの手法をふんだんに使うことができ、表現を深めることができることになる。自分の知っている事実を使って、未知の事実を説明するための手段ということになる。

 ならばこの比喩の方法をうまく使いこなすためには、自らが様々な経験を積み、人々の共通体験を知ることが必要だ。これは実はとても大切だと思う。これからの話し方にこの見識を生かしたい。

海を見ること

 波打ち際で海を見ることにはそれなりの価値があると思う。なぜ波が起こるのか。波のエネルギーはどこから生まれどこに消えるのか。それを思うだけで静かな気持ちになれる。

 日常の様々なことが些事と考えられるのは海があるからだ。海が遠い人は夜空を仰ぐといい。私たちは自分の存在の小ささを知り謙虚な気持ちになれる。

 あらゆる誘惑や疑惑、欺瞞、悪意その他のマイナスな感情を海に放とう。空に投げよう。海は、空はそれを受け容れてくれるはずだ。

懐かしい曲

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 ネットラジオから昔聴いて感動し何度も聞いた曲が流れてきた。久しぶりに聞くと確かにいい曲だと思うが新しい発見もある。

 流行歌ということばがあるが、流行にはいくつかの要因がある。楽曲のよさはもちろんだが、それに加えて聴く側の環境、時代、世相などの要因が絡む。世間的な流行はなくても個人的に魅了される歌というものもある。それも、聞く側の問題が大きく関与している。だから、自分の要因が変わってしまうと聞こえ方も変わってくるということになる。

 昔聞いていた曲は概して単純で素直なものが多い。メッセージが分かりやすい。メロディーラインも素直だ。それでも十分にドラマチックであり、叙情的だ。そこに惹かれたということだけは思い出せる。しかし、なぜ妄信的にのめり込んだのかよく分からない。それが楽曲なのだろう。

やる気を引き出す

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 すでに何度も記しているように私の仕事はやる気を引き出すことに尽きる。実際に学習するのは生徒諸君であり、教師が教えたつもりになったとしても、表面的な短期記憶を賑わすだけで賞味期限は短い。

 食べ物の譬えを続けるのなら、うまい料理を提供するのではなく、その料理の作り方を教えなくてはならない。自分で再現できなれば学習の効果は十分とは言えないのだ。料理をすることの楽しさを教え、上手にできたときの達成感を自覚させる。これがもっとも大事な任務なのであろう。

 言うは易し。実際に現場に立ってみると料理を提供することは簡単だが、厨房の外にいる生徒を呼び寄せ、いかに調理が楽しいかを伝えるのは難しい。面倒なことをせずに自分が結果を提供し、それを覚えされる方が楽だ。しかし、くりかえすが大切なのは提供された料理ではない。その料理を作る能力だ。

 私はやる気を引き出す方法をいろいろ考えている。テクニックはいろいろあるが、その根本は学ぶことの面白さと真剣にまた謙虚になることの快感を教えることなのだと考えている。自ら学び、その思いが純粋であるほど効率的に学習ができる。それを教えることが私の仕事と心得ている。

マルチタスクできない

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 一度にいろいろなことをこなせる人をかつては聖徳太子の能力に例えた。確か七つの話を同時に聞いて対応できたとかいう。根拠がある話ではない。聖徳太子伝説は様々あるが、異能譚の一つであろう。最近は7つくらいでは収まらない。コンピュータの出現でマルチタスクは当たり前となってしまった。

 しかし、いくら高性能のコンピュータが普及したとはいえ、それを操作する生身の頭はそれほど高性能ではない。特に私のような旧型はすでにかなりがたが来ている。パソコンを操作していて困るのは違うウインドウなりタブに移った瞬間にこれまでやっていたことを忘れてしまうことだ。これはいかんともし難い。それだけではない。通知が来たり、たまたま間違ったタブを開いたときに気が散って別のことを始めたりすると、もう前のことが進まなくなる。注意散漫というより、分裂しているといった感じのありさまだ。

 少なくとも私はマルチタスクには全く向かない。一つ一つを愚直にこなして何とか人並みにそろえるのが関の山のようだ。それなのにパソコンを使うたびに先に述べた罠にはまる。これは精神衛生上とてもよくない。私の疲労の原因のかなりの割合にこの問題があるような気がする。

まねぶ

何を学ぶ?

 学ぶという言葉の語源説明に真似ぶから転じたという説がある。言語学的にどうなのかは検証する価値があるが、民間語源説としては有名であり、かなりの影響力を持っている。この考え方は再評価されるべきではないか。

 真似が単なるコピーというのなら、やはりもう時代には合わない。複製の技術は恐ろしく進歩した。知の分野においてもただ同じことを繰り返すだけならばコンピューターの方が完璧にこなす。どうも真似するのは内容ではないらしい。

 最近、成功体験者の学習法を紹介する書籍がよく読まれているようだ。あの大学に入学した人はこのようにふるまったとか、何を読んだとか、どうノートを作っているとか。そういうやり方への関心が高まっている。

 はっきり言ってこうすれば東大に入れるといったノウハウとしてその手の本を読むことには疑問を感じる。例えば、こんなにきれいにノートをとっていますよ、とか、レイアウトはこうするのが一流大学の方式ですといった類である。汚いノートでも優秀な人はいくらでもいるし、手帳の作り方も人それぞれでいい。

 大切なのは考える際に何を重視し、どのような手順で考えているかなのだろう。ノートに関して言えば書き方はどうであれ、自分なりのまとめや、何に使えるかといったメモを付加している人は概して優秀だ。自分の考えを言語化しているからだろう。

 こういう学習に対する態度は参考にすべきだろう。何をしたかではなく、何を意識しどう振る舞うかを真似るべきなのだ。ここで古典的な芸能や武芸に伝わる師弟の関係を再考したい。なんのためにそんなことをするのか理解しないまま、ひたすら師匠のまねをし、その意味がようやく分かったときには師匠の域に達していたり、超越していたりする。この説明不可能の行動の裏には学ぶことの奥義が隠されているのかもしれない。

 この考えを現代に置き換えるならば、学習とは決して情報の伝達でも、処理の手順でもなく、学びに対する意識や態度に関わるということになる。教育の方法もこれを踏まえたものにしなければなるまい。

下がったときこそ

 株式投資では下がり相場でこそ買いを発動すべきだという。下がったものはいずれ上がる。安く買って高く売るチャンスだというのだ。まったくその通りだと思うが世の中が不景気に向かう中で株を買うのは勇気がいる。余裕資金があるものがさらに利益を得るというのは何とも皮肉なものだ。

 株の話は門外漢なのでここまでにして、メンタルの下降局面でも同じことが言える。落ち込んだときこそ次なる好調の準備だと考えるべきだ。飛び上がるためには一旦かがまなければならない。いまはその状態なのだと割り切ることが大切だ。

 このブログを続けてお読みいただいてくださっている方はお気づきのはずだが、文章の多くは自分を励ますために書いている。現実は厳しいがなんとか乗り越えられると文字にすることで予祝のように自分に暗示をかけようとしているのだ。

 私と同じように不器用な人のためにももしかしたら役に立てるかもしれない。下がったときこそ次の飛躍の機会が近いと考えよう。

非効率的習慣

 おそらく無駄なことをしていると思われるかもしれない。ただ、自分にはこれがあっているようだ。笑われても続けるしかない。

 コンビニで売っているリング式の小さなメモ帳にやるべきことを書き出すことにした。いわゆるトゥードゥーリストである。これを持ち歩く。職場についたらスタンド様のものに立てかける。プライベートな用件は自分しか分からない略語や記号で書く。解読される可能性もあるが、おそらくそこまで私に興味がある人はいないだろう。

 百均で買った手帳には少し長期の予定を書いている。使うのは月間予定のページだ。

 デジタルにも入れる。予定はグーグルカレンダーやタスクに入力する。分量があるものや長期的に残したいものはOneNoteに入れる。これだけで結構なルーティンだ。

 さらにルーズリーフ式のノートに要点を書く。これは会議メモも兼用のいわゆるバレットジャーナルである。

 このように予定を管理するだけでいろいろなことをしている。無駄なことをしているがこうすることで私の場合はようやく納得できるのだ。