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感謝

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 明日は勤労感謝の日だ。起源的には新嘗祭が関係する。その年にとれた作物に対する収穫感謝の祭日が、天皇制と結びついて発展して宮廷行事となったものである。天神地祇にまつる行事というが、実際には穀物を育てた人々の営みに対する賞賛と感謝の日であった。

 今日では勤労は多様化していろいろなことが仕事になっている。ここ数年でまたいろいろな仕事が生まれた。その一方で消えてなくなる仕事もある。やがてなくなるであろう仕事もあると感じている。コンピュータの驚異的な発展により、人間の仕事は軽減し、さらになくなっていくものもある。かつては教員はなにがあってもなくならない仕事だと言われていたが、最近はそれを言う人は少ない。

 仕事ができることにまず感謝しなくてはならない。働いて給料をもらえること、家族の生活を支えることができるという事実はなによりも幸福だ。働かずに楽をしていきたいという人もいるが、私は働ける限り働きたい。それが誰かのためになっていると実感できるならなおよい。

 先に述べたように仕事をコンピュータに奪われる可能性がある。その前に国際的な競争に敗れて職を失う可能性も大きい。それらがクリアされても、自分自身の能力が足りなかったり、加齢による限界も見えてくる。いろいろあるなかで働けることにまずは感謝したい。

ピンぼけ

 ピントがぼけた写真を見ると可能性を感じることがある。ピントをぼかせば新しいものが見えるかもしれないと。

 最近は目の筋肉の衰えがはなはだしく、いろいろなものが見にくい。いわゆるピンボケの状況がしばしばある。こういう時、無意識のうちに現状を改善しようとして焦りを覚える。でもこのピンボケ状態を記憶することができたら、新しい世界を見つけることができるのかもしれないなどとおかしなことを考えるようになった。

 その状況にしか見えない風景がある。それは異常ではなく、特殊で貴重な経験なのかもしれない。そう考えれば、いまの状況を嘆くばかりではいけない。

体力は大事

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 この歳になって思うのはやはり体力は大事ということだ。頭と体は関係ないとか、首から上と下では別の話などと言っていた先輩のことを思い出すが、やはりそれは間違っている。脳も体の一部であり体力は必要なのだ。

 アスリートのような身体能力は必要ではなくても、ちょっとくらい無理ができるような体力はやはり必要だ。深く考えるときには体力がいる。集中してものを考えるときにはいろいろな体内の組織が活動しているのだ。だから、誰にとっても体力は必要であり、若いころに体を鍛えることを怠ってはならない。若い人にはそう言いたい。

 私の場合、体力が消耗すると集中力が落ちるだけではなく、脳の働きそれ自体が鈍化する。最近それを強く思う。もっと粘り強く考えたいと思っても、体が受け付けない。そう感じるのだ。だから、体力は大切だ。今更手遅れかもしれないが、せめて歩いたり階段を昇ることを躊躇することがないように心がけたい。

AIブロガー

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 人工知能で文章を書くことはすでに出来る。いくつかのキーワードを与え、それを結び付けるように指示すれば文章を作成してくれるらしい。私の駄文などすぐに抜かれてしまうはずだ。すでに抜かれている。ただ、いまだにAIは意味のレベルまでの理解はできていないようだ。そこに人間の(私の)生き残る価値がある。

 コンピュータにできることは大量のデータからある言葉を使うときの用例を瞬時に検索し、その用法を選び出して、ほかの用語との組み合わせを再び検索によって選び出して合成することなのだろう。一見意味を考えているかのように思えるが、扱っているのは過去のデータであり、言葉に含まれている意味を考えているわけではない。しかも、私のように偏屈でなおかつ発表している作品がほとんどない人間の文章をAIに担当させることは難しい。出来上がるのは私の文章ではなく、平均的なものになる。

 平均的なものがおかしいかといえばそうでもないらしい。顔のパーツのデータを複数集め、その平均をとって合成すると結構な美男美女になる。誰でもない平均顔は意外といけている。文章もそうで一見理想の文章ができているように思える。

 でも、それは自分の文章からは程遠い。AIに自分の代わりをさせることはできない。自分の文章を書いてくれていって頼むと、ものすごく平均的なものを作ってくる。それがどんなにしゃれていて内容が良くても私の文章ではない。AIというのはそういうものらしい。だから、我々が文章を書くことは大切な営みだし、続けるべきなのだろう。

 このブログはAIで書きました・・・はずはない。下手すぎる。

要するに…中毒

 今回も自分に対して向けた文章である。最近、よく話を聞き終わらないうちに「要するに」「つまり」とまとめてしまう思考を自覚している。忙しい毎日はこれは都合がいい。詳細に立ち入らず骨子のみを把握しようとする。それはそれで間違ってはいない。ただそればかりだと肝心なものを落としてしまう。

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 文章を読解するときに、構造を考えながら読むというのは国語教師の指導のたまものである。大体、初めに話題を振って、時にはそれが問題提起型になり、具体例を挙げて、そのあとに自分の言いたいことと絡めて、結論を述べる。ほとんどの文章はそのように書かれている。今書いている文章もそのような感じだ。

 忙しいとそういう読み方をして、細部を飛ばし読みする。人の話を聞くときもそうだ。愛想のために述べている部分を抜かすと、言いたいこととそれを言うための具体例とを繰り返す。本題の最初に言いたいことを短く言い、具体例のあと結論を言う。基本的には文章と同じだ。もちろん、思い付きで話を続ける人の場合は単純ではないが、基本的には同じだ。

 こういう風に考えると「要するに」の思考がでる。いろいろ書いてあるが、いろいろ話しているが言いたいことは何なのか。それだけを知れればいい、という考えだ。これは恋愛映画を早送りにしてみる精神と同じだ。本当は言いたいこととは外れている部分に自分にとって重要な情報があるのかもしれない。あるいは筆者、話者の意見形成の本当の要因が隠されているのかもしれないのにも関わらず結論を急いでしまう。

 忙しく情報量が多い時代には仕方がないのかもしれないが、速読速聴だけが能ではない。時には熟読、傾聴が何かの現状打破につながることもあるのではないか。大切なことを忘れてはいないかと思うのである。

年賀状の準備

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 年賀状の印刷の受付を知らせる広告が出始めた。印刷されたはがきもすでに店頭に並び始めている。今年はどうしようか。

 虚礼だなどといわれて減り、ネットの普及とともに年賀状は過去の遺物になりつつある。それでも実物のもつ意味は消えないはずで、本当に挨拶をしたい相手にはやはり紙のはがきがいい。本当は手紙の方がもっといいが、さしあたり安否を伝えるだけでいいのならばはがきがいいのだ。

 私はあまり多くの枚数を出さないかわりに、すべて手書きで行ってきた。しかし、今年はどうしよう。もう出さないという手もあるし、印刷してとにかく送ってしまうという手もある。日々疎くなりつつある旧知の人々に、せめてまだ生きていることを伝えることで、自分自身の存在理由を確かめられるのなら、やはり出しておこうか。

 悩んでいる。

第三希望

 時々思い出してはとらわれてしまう感慨がある。今自分がやっていることは本当にやりたいことではなかった。第二希望ですらないと。せんなき思いが心をしばりつける。

 詳しく言えば第三希望でもない今の状態を嘆くのはたやすい。人生は上手く行かず残酷でさえある。ネガティブな思考は下に伸びる螺旋階段を進み始めてしまう。そんなときは無理にでも思考のあり方を変えるしかない。

 科学の理論によれば世界は絶えず分岐して様々なな世界が存在する可能性があるという。理屈では分かるが納得はできない考え方だ。でも、仮にそうだとすればもしかしたら別の世界には第一志望を叶えた自分が生きているかもしれない。

 彼が本当に幸せだろうか。満足度の高い日々を過ごしているのだろうか。その可能性もあるが、正反対のことも考えられる。それを選んだために起きる悲劇があるのかもしれない。第二希望を叶えた自分もそうだ。何があるのか分からない。

 第n希望を生きる今の自分がまったく不幸かと言えばそうではないことは確かだ。何がよくて悪いかなど分かりはしない。できるのはいまの第n希望の人生を精一杯生きるしかないのだ。

 こういう思考のループをしているうちに降りる駅が来る。やらなくてはならない仕事が締め切りを迎える。どうしようもない私を頼りにしてくれる人がいる。ここで迷いは一旦隠れる。また思い出すまで。

不注意

 注意書きがあるのを読まなかったのかと叱責されたことは少なからずある。後から考えるとなぜこんなに大きく書いてあったのに気づかなかったのかと思う。これはなぜなのだろう。

 おそらく、もっともだめな反省法は自分の気が緩んでいたからという考え方なのだろう。精神論に持ち込むともう何も言えない。これは人に助言するときも同じだ。できないのはお前のせいだと言っているのと同じだ。存在を否定する人は自分自身もそのまま否定される可能性が高い。

 ならば、どうすればいいのか。まずは認知の手順を考えるべきだろう。私たちは何かをするときに過去の経験をもとにする。だから、新しい手順が加わると緊張し、混乱する。その方法を確認すればいい。確認の手順をルーティンとして捉えるべきだ。

 目の前に見えていても気づかないことがあるということを前提にして、確認の作法を型として意識して繰り返すのがいいのだろう。

他人事ではなく

 ASDやADHDの人への接し方を述べる文章を読んで気づくのは、他人事ではないということだ。

 いわゆる発達障害と呼ばれるものの多くはスペクトラムという状態で現れるという。どこからが障害でどこからが正常といった区分はなく、連続体で続いている。だから、私自身にもそのような現象があり、これを正常とみなすか否かは相対的なものなのだ。むしろ個性の一部に名前がついたものとも言えそうだ。

 それぞれの症状で対処法は異なる。共通するのはやり方をはっきりと示し、臨機応変を強要しないことらしい。強い症状を持つ人の中には集中できるものがあり、邪魔が入らなければ素晴らしい才能を発揮する場合があるということだ。高学歴の人に発達障害に分類される人が一定の割合で存在するのは、その力を上手く利用できたからだろう。

 これに該当する人への接し方のコツを書いた文章を読むとそのまま自分への処方箋のように思えてくる。まずはセルフカウンセリングから始めることにしよう。

最終目的から

 物事を考えるとき、結局それがどこに行きつけばいいのかという最終目的をまず考えるべきだ。いろいろな夾雑物があっても、結局何がしたいのかを整理すれば様々な迷いは消えるかもしれない。

 複雑でわかりにくい世界の中にいると、その詳細の対応にすっかり疲れてしまう。あれこれ悩むうちに本当に大切な目標に向かう推進力が損なわれ、挫折してしまうことも多い。あるいは迷走して本来の目的がなんだか分からなくなる。私たちの毎日というのはこのようなものだ。

 最終的にどの場所にたどり着けばいいのか。それを想像してから、今いる場所からの道筋を考える。途中のストーリーは考えない。目標地点から現在地までの道筋を時間を逆にして考える。それができればもう目標は達成間近だ。たいていの場合、目標地点が分からず、そもそもこのような考え方ができない。あるいはできたとしても、途中にある様々な要素に翻弄されて本来の目的を見失ってしまうことになる。

 ものの考え方には器用な方法と不器用なやり方とがある。私の場合、主に後者の積み重ねで生きてきた。しかし、時にはうまくやりたいという気持ちになる。その時には目的から逆算するという発想を思い出したい。

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