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探さず考える

 最近、私の学習方法は考えていないという事実に気づく。いろいろな情報に触れる機会は多いが多くは情報の表面を撫でるだけで分かったつもりになっている。

 探すことは学びの一つの過程であって、目標ではない。到達点は得た情報を自分なりに血肉化し、自らの言葉で語れるようにすることのはずだ。大切なことを忘れている。

 興味を持ったことをメモする手帳があるが、最近書き方を変えた。かつては情報源の文言を一字一句漏らさず書き写すことに注力したが、考えてみれば情報源さえ覚えていればまた見ることはできる。メモすべきなのはその情報を見て私がどのように考えたのか、感じたのかの方が大事だ。そう気づいてからは自分の思いを中心に書くことにしている。

 拙くとも自分で考えることが大事だと思う。私の学びの最後の砦だ。

「指示」と「誘導」

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 人に何かを教えるときにかつては学ぶ材料を提示することが大切といわれていた。提示の順番や方法などに工夫をすることが教える者の技能と考えられていた。この考え方は最近変わりつつある。知識の内容を伝えるよりも、学び方を教えるべきだという流れである。これにはいくつかの問題点がある。

 学び方を教えるという場合、次に何を読むか、どの問題を解くかという指示をすることは大切だ。何をやっていいのか分からないから知らないのであり、それを教えるのが学び方を教えるということだからだ。しかし、これにも程度がある。学びのスケジュールを完全に教師が行い、生徒がそれに従うのであれば結局従来の知識移動型の教育と同じになってしまう。まずは何をやるのかの大体の方向性を示しながらも、実際にそれを選択するのは学習者でなくてはならない。もっと巧妙な言い方をすれば学習者が選択したかのように見せかけなくてはならない。

 学びの達成感は自分の努力が報われ、結果になって表れたときに起きやすい。他人が用意した道筋をどれだけ進んだのかということになると、結局他人との比較になり、優越感を感じる一方でたいていの場合は劣等感にさいなまれる。それは他人が作った物差しの上にいるからだろう。

 本当は用意された道であっても、学習者自身が開拓したかの印象を持てれば結果は全く異なるだろう。学習者は自分のやったことに対して自信を持ち、次の挑戦に進むことができるはずだ。

 要するに教員は陰から誘導する役に徹する必要があるということになる。中等教育まではある程度、たどり着く目的地は分かっているものが多い。学習者がどのような経路をたどりどのように進むのかを予測して誘導することが教員の役目ということになるのだろう。こういう技術はこれまでの知識教育の方法とは異なるものである。これからの教員はそういった技能を学習していく必要がある。

学歴はいらないが学力はいる

 学歴不問などと言いながら、実際には特定の大学を卒業すると就職時に有利という事実は継続している。それは学力を予測するのにもっとも分かりやすい指標だからだ。

 問題になるのはこの学力がどのようなものなのかということだ。もし、大学に合格するための学力テストの成績を意味するのなら、その指標は不正確になる。大学入試は、与えられた問題を要領よく情報処理する能力であり、おそらく将来はコンピューターが解答してしまう分野だ。この力は確かに必要だがそれだけを物差しに使うのはおかしい。

 学力には問題発見や解決手段の開拓という分野がある。まだ答えのない問題に挑戦し、完遂する。そのために他者と協力するという方法だ。これができる人は学力が高いのだと言える。この能力こそがこれから求められるものに違いない。

 ならば、これからの人物評価は学歴だけではなく、何を学び何を行ったのかを分かりやすく伝えることができる能力が基準になる。学生時代何を誰となんのためにどのように行ったのか。説明できることが大切になるだろう。

冬の空気

 冬の張り詰めた空気には独特の風情がある。必ずしも優しくはないがかと言って冷酷なわけではない。

 冷酷という言葉もそうだが、冷たいという体感を表す言葉は精神状態を表すときにはネガティブなものを表すことが多い。しかし、これは一面を捉えたものに過ぎない。

 冬の空気は身体に緊張を及ぼすが、それはもしかしたら幸せを感じるための準備期間を与えているのかもしれない。暖かさは慣れてしまうと恩恵を感じられなくなる。絶対的な温度ではなく、変化に私たちの感情は発動するのだ。

 その意味において私は冬は大切な季節だと考えている。耐えなくてはならないものを乗り越える。その大切さを教えてくれるのだから。

排除の罠

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 残念ながら見えない差別が広がりつつあるのを感じる。これが杞憂であればいいと思うが結構根深いものを感じるのだ。

 多数派が正義という図式は民主主義の悪い側面である。本当に正しいかを検証せずに、多くの人がなんとなく支持する考えを正義と考えてしまう。これは根本的な間違いにつながる。しかし、日常の生活においていちいち検証という工程などするはずはない。なんとなく時流と判断する各自の判断(というより印象)で是非を決めてしまう。

 最近、困るのはこの自分とは異なる考えに対する寛容性のなさである。多くの人はそう考えているが、別の考え方もあるというときに、これが排除につながることがある。排他性が発揮されるのはいくつかの条件がそろった時だが、これがいま起こりやすい条件がそろっている。

 ソーシャルメディアのような似非世論を見せるものが手元にあると、ネットの発言を基準にして物事を考えてしまう。よく考えればわかる。ネットに書き込むのは特定の条件の人だけであり、それ以外の人はROM(読むだけ)の状態だ。だから、書き込まれていることは世論ではなく、極端な意見の集合体に過ぎない。それを世論と勘違いする人が一定数存在することでおかしな事態になる。

 日本人は元来同調圧力の強い環境に置かれているが、それを増強するのが自由な発言の場であるはずのソーシャルメディアである。これを克服するためには各自のメディアリテラシーを向上するほかには方法はなさそうだ。TwitterやFacebookに書かれていたとしてもそれは少数意見であり、従う必要はない。そういう根本的なことをもう一度考えるべきだ。

新機軸

 新しいことを始める際には、いままでの経験を敢えて変えてみることも求められる。改善が原則だが、敢えて逆を試してみることも必要だろう。

 効率性なり生産性を重視ししすぎると冒険ができなくなる。一時的に起きる損失が大きい場合は特に躊躇する。致命的な失敗にならないのかと心配してしまうのだ。この範囲に留まる限り、新しいことはできない。

 逆に言えば新機軸を見つけるためには損失を覚悟して、更にその先を考えることが必要ということだ。始めなければ何も起こらない。まずはやってみよう。

 できたことを記録していくのも励みになる。それもやってみる。

新しい試み

 脳科学者が発言する言葉にはどこか超科学の香りがする。もちろん、実証に基づく理論であることは分かっている。ものを考える仕組み自体を考えるという段階において私には手に負えない。

 だから、言われたことをある程度は鵜呑みにするしかない。最近気にしているのは前頭葉の衰退をいかに避けるかである。これは何か新しいことを行うときに活躍する部位であるそうだ。経験に基づき習慣化した行動をしているときは不活発になるという。脳が老化すると前頭葉の働きが落ちるらしい。

 これを避けるために新しいことに臆せず挑戦することが必要ということだ。失敗を恐れてはならない。その失敗経験が前頭葉を活性化するのだとか。ブラックボックスの部分を検証できず言いなりなのだが、結果的にはいまの私には向いている助言のようだ。日々これ挑戦。

感情の名前

 自己暗示の手段として感情の把握というのがあるらしい。自分がいまどのような感情に包まれているのかを把握すれば対処の仕方があるというのだ。

 冷静に考えればこの考えには矛盾がある。人の感情は多種多様で限りない連続体である。常に動いていて変化は止まらない。いまどんな感情なのかを説明することは走っている自動車のタイヤの文字を読むより難しい。

 それでも敢えて感情に名前をつけるのだ。全力で走ったあとで、ふとなぜ走るのか疑問になって叫んだときの気持ち、などと状況を限定すればその時の感情として標識化できるのかもしれない。

 感情に命名するとある程度その感情を把握することが可能になる。場合によっては制御も可能だ。こうして自己暗示するための手段になりうるということだ。

 付けられた名前は所詮近似値のようなものだ。でも、不正確でも自分の内面の一部を掴むことで安心感が得られる。それが自己暗示には大事だということだろう。

偶然

 地球の歴史をたどる理論にふれると、現在のあり方が実に偶然の産物であることが分かる。生命の発生にしても、数多くあった大量絶滅にしても人智を超えた自然現象であった事が分かる。

 今日のさまざまな人間の活動も実はそういう長い地球の歴史からすると偶然の組み合わせで一瞬で消え去るものに過ぎない。そういうことを直観し、長く心に留めることができればさまざまな悩みはなくなるはずだと考えてしまう。

 実際にはちょっとしたことで心が動き、近隣の幸福を羨望し、自身の不幸を嘆息する。結構恵まれていていても、まるで不幸のどん底にあるかのように感じてしまう。それが生活の実感というものだ。

 何を目標に生きればいいのか。時々そういうことを思う。しかし、その思いは続かず、また日常の些事にとりこまれてしまう。それが私の弱みというものだ。

 逆に考えることにしよう。弱みは強みだ。自分をときに上から考えて知ったかぶりできる力は持っていると。そういうことがこのあと何かの役に立つかもしれないと。

具体例の豊富さ

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 いろいろな自己啓発系の本を読んできて思うのは、述べられていることを要約すると古典の先哲の述べていることとそうは変わらないということだ。新しい考え方というが実は、何百年も前の人が残したこととあまり内容が変わらないということ多々ある。何が違うかといえば、それは具体例をどれだけ示せるのかということだ。

 私たちが何かを理解しようとするとき、意見や主張にあたる部分だけを読んだり、聞いたりして納得できることは少ない。説得されるためには自分の経験や知識と重なる具体例があることが関係する。自分の経験に近いからもしかしたらそうかもしれないと納得することができるというわけである。どんなに正しいことを言われても、それが身近なものでなければ自分の問題として理解することができない。どうも私たちの頭脳というのはそういう仕組みになっているらしい。

 よく売れている本を読むと、その具体例が非常に豊富だ。中にはできすぎではないかという例もある。これはクリティカルリーディングが求められる領域だ。それを差し引いてもなるほどと思わされる事例がたくさんある意見に対して納得をしやすい。

 この手の本を書く人はインタヴューに力を入れている。その蓄積が作品の成否に大きく関与すると言ってもいい。偉大な宗教者や哲学者もそうした具体例をたくさん持っている。本当に体験したこともあれば、人の輪を通じて入手した事例もあるのだろう。それを言語化し、自分の考えに結びつけられたものが思想を展開できたのだと思う。これは今も昔も変わらないのだろう。

 自分のことを振り返るに、やはり圧倒的に言語化という方面ができていない。これといった経験はしてきていないし、人に誇れる行動もない。でも、ささやかな経験の中から受け取ったことはたくさんあったはずで、そのたびに自分の言動を修正してきた。そのほとんどを忘れてしまい。言葉にできない。感動の体験を少しでも言葉にすることをこれからの小さな目標にしていこうと考えている。このブログはそのごく一端を記すためのメディアである。