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常識という思考停止

 言わなくても分かるとは思わない方がいい。世の中はむしろ言っても分からないという場合の方が遥かに多い。自分の価値観が汎用的なものではないことは、よく考えれば当たり前だが、大抵その事実を忘れてしまう。

 日本人は騙されやすいそうだが、他人に騙されるだけではなく、自分を自分で騙してしまうことも多いのではないか。私が思うことは常識であり、他者は必ず同意してくれるはずだ。分からないのは相手が非常識だからだと。そんなふうに考え思考停止に陥る。

 まずは自分の思いは完全には伝わらないことを前提に考えることを確認するべきだ。自分とは異なる価値観を持った他者がいるから世界は面白いのだと考えるべきなのである。常識という思考停止に陥らないようにしたい。これはほとんど自戒である。

周囲が気になるときは

 自分が周囲からどのように見られているのか気になるときがある。ちょっとしたことでも気になってしかたがなくて身動きができなくなる。一方で傍若無人に振る舞えることもある。

 周りの人は実はそれほど自分には関心はない。試しに今日電車の隣の席に座った人を思い出せるだろうか。恐らくどんな服を着ていたかさえ分からないだろう。他人の関心など本当は気にする必要はないのかもしれない。

 周囲の目が気になるときは、心の中で自分の存在が実態以上に大きくなっている。誰からも注目されているように感じてしまっているのだ。そういうときは少し自分から遠ざかる必要がある。自分を俯瞰できるといいのだが、そう簡単にはいかない。

 一つには広い風景が見える場所に身を置く方法がある。実は自分は世界の中では小さな存在であり、自分と同じような人は他にもいるということを実感するのだ。

 他には知らない誰かと話すことがある。自分のことを知らない人と話せれば、自分の存在が他人からどう見られているのかなど気にならない。何しろ知らないのだから。そういう人を探すことが難しい。こういう場を作るのが悩める人を救う方法なのだろう。

 小説や映画を楽しむのもいい。作品の世界を除くことは合せ鏡で自分を見つめることにつながる。作品を挟んで自分を少し遠くから見ることができるだろう。

 私もしばしば自分の姿を錯覚する。後で考えるとどうしてあんなに悩んだのかと思う。そのときに思い出したい。自分の思う自分は等身大なのだろうかと。

今日から三月

今日から三月である。私の仕事にとっては年度末のいろいろある時期で無難に乗り切りたいとばかり思う。切れ目節目の時でもあり、私としても今年度で終わる小さなことを仕上げ、次に続く何かを模索していかなくてはならない。やるべきことを書き出して、優先順位をつけてと、毎年やることを今年も始めよう。今年は少々緊張感をもって。

物質的な視点

 科学の本を読んだ後は私たちが見ているものは自然現象の一過程に過ぎないと考えてしまう。いろいろな現象が重なり合って私が感じる現実が形成され、その印象から概念が形成される。こういう思考方法では、私たちの見ている世界は極めて物質的な偶然性の産物ということになる。

 それにしては私たちの経験は多種多様であり、そこに法則性は見いだせないような気がする。ある現象と、別の現象の間に因果関係があるといえばあるが、ないともいえる。それが私の考える実感である。物質的な観点に立てば、私が見ている様々な現象は本質的には一つにつながっていることになる。そうは見えないけれど。

 すべての物事が統一的な世界の中に含まれるという考えは、むしろ宗教に近い。物理学者は宗教の対局のようでありながら、実は最も宗教的な考えを持つ。私はその深みには全く近づけないが、自分の実感というものがどこまで自分のものなのかという素朴な疑問を繰り返している。

無駄な時間

 時間を節約するためには無駄な時間を書き出し、時間を可視化して自覚することから始めようといった内容のネット記事を読んだ。至極正論である。ただ、無駄な時間とは何なのかと問い直すと少々怪しくなる。

 仕事をこなす上で、直接労働にかかわらなかった時間を無駄な時間と定義するならばわかる気がするが、ならば仕事をしている時間だけを集めればその人の効率は上がるのだろうか。大いに疑問である。この考え方は明らかに人間を機械に置き換えている。スイッチの切り替えで仕事ができたりできなかったりすると考えるのは無理がある。

 無駄な時間と思われるものが実は何かを行う上では重要であつたりする。なにもしないことによって、次にできることが現れることもある。極めて乱暴な言い方だが時間に無駄を感じること自体、時間をうまく使っていないことになる。

 私たちが過ごす時間のすべてには何らかの意味がある。それをどのように活かすことができるか。それが本当の時間管理というものだろう。

難題

 バイオリズムなるものがあるか知らないがいまはその下降段階にある。様々なことに問題が発生している。それをただ受けとめるしかない。大切なのはこの状態も長くはないと諦観することだろう。なんとかなる。そう思うしかない。

一月尽

 今日で一月も終わる。元日の能登半島地震、2日の航空機事故と衝撃的な年明けになった。今年は何かがあることを先触れしていると考えている人は多いだろう。

 私事に限ればさしたる変化は今のところはない。むしろ、自分から変化を求めなくてはならないといつも考えている。いまのルーティンを崩すために何ができるのかを模索し、実現したい。

 とりあえずは労働時間の短縮と隙間時間での学習、もしくは趣味の活動を始めよう。やるべきことをやるだけだ。

動じなくなった

 歳を取ると些細なことには動揺しなくなる。正確には一々反応できなくなる。そして、何を言われてもすぐに流してしまう。これは利点であり欠点でもある。

 いろいろな失敗を繰り返しているうちに、失敗データベースのようなものができる。過去の経験に照らし合わせ、そのどれかの亜種のように扱う。個々の出来事に向き合っていないのは不誠実だが、そうして過剰な反応をすることを避けている。

 私の目指すことろは別にあると思えば日常の些事にはこだわらなくなる。最低限の勤めを果たせばそれでよい。面従腹背も一度やってしまえば心地よい。

 若い人には私のようにならないようにと言っておきたい。人様に迷惑をかけることは絶対にしないが、やりたいことを妥協しないためにかなり狡猾に立ち回っているのだから。

 私自身は年配の部類になっても遠慮するつもりはない。したたかにやりたいことをやるだけだ。歳を重ねてもこういう変人がいることにはご注意いただきたい。

ありがとうと言いたい

 今年始めた新習慣に店で何かを買ったあとに必ずありがとうということにしたことがある。店員より先にいうこともあるのでさぞかし変な客だろう。

 我が国の接客サービスは世界的にもかなり高水準だと言われている。店員は極端にへりくだり、顧客に嫌な思いをさせまいと努める。涙ぐましいほどの態度をとるところもある。最近は正社員が減り、アルバイトがマニュアルに沿って行動することが多いが、それでも心ある者の振る舞いは素晴らしい。

 対して客側はどうだろう。概して傲慢極まりない。金を払っているのだから自分の意に沿う行動をすることは当たり前だと考えている。店に入る際も支払いするときもすべて無言で済ませる。仮に口を開いてもぞんざいで明らかに見下すことがある。

 昭和に大流行したお客様は神様です、というフレーズがある。これは芸能人側がいかに観衆を扱うかという意見表明をしたものであり、決して提供する側とされる側の立場の絶対的関係を述べたものではない。客は神ではないのだ。客自身が自分は上位にあると考えるならばおかしなことで、もしそう思っているならば根本的に間違っている。

 理屈をこねても仕方がないので、とにかく私は自分に何らかのサービスを提供した人に謝意を述べることにした。もちろん不快な振る舞いをしたものにはしない。当たり前のことをしてくれた人にはありがとうということに決めた。

 劣悪な労働条件で働いている人もいる。生活するために不本意に働いている人もいるはずだ。私とて完全に満足できる環境とは程遠い毎日を過ごしている。それでもやってくれてありがとう。その気持ちは伝えるべきではないか。ご賛同いただける方はやってみてほしい。店員がありがとうございました、と言ったらありがとうと言うだけだ。

 

区切りを重視する日本文化

 おそらくどの国、民族にも当てはまると思うが、日本文化でも区切りを重視する傾向がある。例えば、季節という概念である。実際は自然はその時々の条件で少しずつ変化し、循環しているというのが事実だろう。ただ、その循環の過程のどこに関心を持つのかは民族の嗜好があらわれる。日本の場合は春夏秋冬という四季に分節した。これはもちろん漢字文化の制約も受けているが、日本の気象にあわせて意味づけされてきたことに注目しなくてはなるまい。

鶴間公園の夜桜 2023年3月撮影
鶴間公園の夜桜

 四季といっても実際には四等分にはならない。例えば、梅雨の季節は果たして春なのか夏なのかを判別するのは困難だ。季節の行合にはどちらともつかない要素がある。それを節気のような概念を持ち込んで無理やり四季を認識する。だから体感とずれていても知識の上での分節を重視する。暦の上では春だが、などという言い方はよくなされるし、古今集巻頭歌のように文学の題材にもなってきた。

 時間の区切りの最たるものは年である。現在の暦で1月1日は冬至を少し過ぎたときであり、取り分けて大きな気候上の変化が少ない。動植物も多くが活動を不活発にしており、体感上の節目は感じにくい。桜が咲いたり、雨が降ったりといった変化が乏しいのだ。だからこれは身体で感じる区切りというより、人工的なものなのだ。

 敢えて区切ろうとするのは知恵のなせるわざに相違ない。とにかくいまの問題は一度過去のものとして現在と切り分けようとするのだから。この叡智に従うべきだろう。あまり冴えなかった一年に去年というラベルを貼り、新しい一年に賭けよう。