タグ: 自分

改札の音

 久しぶりに原宿駅前に行ったときにかつての駅前の風景がすでになくなっていたことに驚いた。神宮橋の前にあった原宿駅は少しレトロな駅舎と、その前に駅員が並んで切符にハサミを入れる特別な場所であった。近隣に住んでいた私にとっては通学のルーティンの一部であり、特別な外出のときにはその第一関門と言えるのが原宿駅の改札だった。

 私と同じかそれ以上の世代ならご存知だろうが、当時の改札は駅員が切符にハサミを入れていた。その切り口によって時間帯などが区別されていたとも聞く。改札通過時に駅員にいかにハサミを入れやすく差し出すのかは当時の乗客の基本的な姿勢というべきものであり、誰も口にしなかったが、公衆の常識というべきものであった。

 今、改札でハサミの跡を見る例はほとんどない。そもそも切符なるのものを買わず、電子取引で終わってしまうから、紙面の切符が存在しないから、それにハサミを入れるという物理的な行為が存在しないのである。だから若い世代にこの一連の行動を説明しても実感が伴わないだろう。

 紙を使わず、乗客の動向をデジタルで把握できる現在の方式はさまざまな恩恵をもたらす画期的な技術に違いない。どれだけ労働時間を軽減し、労働条件を解消したのだろう。ただ、その手間減らしによって消えてしまった情緒の損失は計り知れない。駅の改札で響いていた改札の音は、ただの作業音以上のものであった。それがもう長い説明なしでは伝わらない。

 昔に戻れとは思わない。昔の方がよかったとはまったく思えない。現在の方が昔よりはるかによい。ただ、失われたものが必ずしも合理性や効率性では計れないことも記しておきたかったのである。

あり得ない妄想

やり直せたら

 あのとき別の選択肢を取っていたらとはよく思う妄想である。別の選択をすれば関連して更にいろいろなことが変わり、結果として全く別の状況になる。いまとは違う自分がいるはずだ。

 こういう考え方をしているとき、無意識のうちに並行世界を考えていることになる。量子力学理論ではないが世界はいくらでも分岐すると漠然と考えている。

 学問的な裏付けの有無にかかわらず、この考え方は実は妄想のようなものだ。一人の人生では一通りの経験ができず、それを俯瞰的に捉えることはできない。どんなに並行していても見えなければ存在しないことと変わらない。

 それでもこの妄想をすることは楽しい。それは人生を少しでも豊かにしたいという思いによるものだろう。ただ、生きられるのはやはり今の人生しかない。

外見と中身

 自分のことをよく分かっていないことが私にはしばしばある。自分がどのようにみられているのかは結局のところ自分ではわからない。だから、自分像は想像の産物だ。その想像が現実と食い違うことがこの原因である。

自分は他人にとっては他人である。自分が他人のことをある印象でとらえるように、自分もまた誰かによって特定の印象で捉えられている。それがどのようなものなのかは分からない。自分の存在を意識するのは、他人に見られているときである。人前だと緊張するのは、他人の目があることを意識することで強く自己を意識するからだろう。その意味では他人に見られることで自分というものができあがるといえる。

鏡に映ったあなたは誰

脳科学の世界には鏡像認知と呼ばれる考え方がある。鏡に映った自分の姿を自分だと認知する能力のことである。人間の場合2歳児になるとこの能力が備わるのだという。逆に言えばそれ以下ならば鏡に映っているものが何者かわからないということになる。脳の発達とともに、おそらく他者とのふれあいの中で自分を認識できるようになっていくということなのではないか。

 鏡に映った自分を、これは自分だと認識し、今日はさえないとか化粧のノリがいいとか悪いとかいう場合、その映像を自分としてとらえるとともに客観視していることになる。鏡に映った像を別の鏡が映しているのを見るとさらに話は複雑になっていく。自分は何者かに写されることによって存在感を増すが、それを観察している自分はその実態を客観的にとらえている。

自分を客観的にとらえるということは実際の自分を別の自分が描写することなのだろう。すると、その描写の仕方によって自意識が変わってしまうことになる。私がしばしば味わう、思っている自分と実際の自分の大きな違いはこんなところに原因があるのだろう。

裏の意味はないように

 寓意というと分かりにくいかもしれない。裏の意味と言えばいいのだろうか。私は比較的この表現法を取りがちな傾向にある。表面的に述べていることと本当に言いたいこととの間に階層があり、わかる人には分かるという言い方をしてしまいがちだ。

 これを分かりにくいというか味わい深いというのかは他者の判断による。私はわかる人には分かるというコミュニケーションを良しとする文化の中で育ってきたせいでこういうややこしい表現をしがちだ。

 でも、最近は少し反省している。比喩や寓意に富んだ表現を理解できない条件を持っている人がいると知ったからだ。センスの問題ではなく、脳科学的に裏の意味を理解しにくい人が一定数いるらしい。彼らが能力的に劣っている訳ではない。ただことばを文字通りの意味て理解し、それ以上は迷わない人たちが存在するということだ。稀少性はなく、普通にいる。

 彼らと共生する私はコミュニケーションの仕方をやはり変えるしかない。最低限伝えなくてはならないことは、修飾語を施さず正確に伝えよう。これをした上で余情あまりある場合は、私の得意なもって回った詭弁を弄することにする。

 様々な環境の人と共生し、助け合って生きていることにしよう。そのためには自分の価値観を押し付けるだけではいけない。時には相手の思いに寄り添うことも必要だ。

旧世代らしく

 あまりに多忙なときはやることが機械的になっている。予め決めた手順に従えはうまくいくことが多い。ただこれには達成感が伴わないのが問題だ。

 大量の作業を成し遂げたという達成感ならある。しかしこれならば自分でなくてもできたはずと考えると虚しさが漂い出す。機械の歯車になることを潔しとしない自我が立ち上がる。

 効率を上げることとやり甲斐を感じることとは必ずしも一致しない。仕事がどんなに早くてもああはなりたくないという同僚はいる。あれでは機械と同じだ。何が面白いのだろうなどと考えてしまう。

 恐らくこれは私の偏見だ。仕事が早く何も考えずに済ませられるのは現代人が求められている資質の一つではないか。そのコンピテンシーすら人工知能に売り渡そうとしている。その哀れさに気づかないことに我慢できるのは一種の才能だ。

 私のような旧型人間はこの効率重視の世の中でうまく立ち回るしかない。仕事の大切な要素を諦める代わりに、浮いた時間で思い切りアナログなことを展開しよう。アナログという言葉を想起した時点ですでに毒されている。無駄な時間をかけて話し合い、冗談を言い合おう。幸いまだそんなことをしていても排除されることはない。ならば思い切り旧世代らしく振る舞うしかあるまい。

紫陽花

 梅雨入り前にしては夏本番のような陽気が続いています。今朝は曇天ですが、これから晴れて暑くなるのだとか。この時期の楽しみの一つに紫陽花(あじさい)の花を見ることがあります。

 紫陽花には額の花と言われるものから。花弁がいっぱいのいわゆるアジサイまでいろいろな品種があります。変わり咲きの品種は年々増えているようで時々それを発見すると小さな驚きが生まれます。

 花は人心を操ります。それが癒しに向かうときは喜ばしいことと思います。紫陽花は曇天に照らす光です。色移りするのも面白い。今年もこの花の威力に頼らなくてはならない季節になりました。

鳥の目

 この時代に何が求められているのかと問われたならばやはり俯瞰力と答えるべきでしょう。大局を見渡すことは永遠の課題であり、容易ではありません。だからこそ必要なのです。

 複雑で変化の速度が速い今日の社会では毎日の生活を追うだけで終始してしまいがちです。その中で時代の潮流を見失ってしまうことがあります。どこに向かっているのか、何が必要なのかということを忘れてしまいがちです。

 鳥瞰することが困難なのは人間の宿命かもしれません。すでに飛行機や宇宙船まで開発しているというのに、思考の中に定着できません。具体的にどうすればいいのか分かりませんが、大局を読む力は何らかの方法で鍛えなくてはならないと感じます。特に若い世代の皆さんにこの能力の獲得に関心を持っていただきたい。私もまだ諦めてはいません。

いつ終わる

 深夜に鳴り響いた緊急地震速報のために驚かされ、寝起きが不愉快な朝です。加えて昨日から喉が痛く、風邪を引いてしまったのかもしれません。

 私とほぼ同世代の人がコロナウィルス感染による肺炎で命を落としています。病の自覚があってから数日で重篤化し、場合によっては死に至るという過酷な経過を辿るのだそうです。

 私自身がコロナウィルスの感染歴があるのか。抗体が獲得されているのかは分かりません。突然発病して落命する可能性もあるのです。

 人生に決まった未来はなく、常に偶然の結果で次に進んでいるのはいまに始まったことではありません。ただ、こうした事態に直面すると運命とは何かなどと考えてしまうのです。

落書きを通して

 最近、下手くそなスケッチをすることが多くなりました。絵を描いてみて思うのは自分は対象をよく見てこなかったということです。

 絵を描く時には立体を平面化するという技術的な問題があります。それよりも障害になるのは既成概念だと感じています。対象を写しているのではなく、自らの思い込みを描いてしまうのです。みたとおりに描こうとすればたちまち違和感が生じて筆が止まってしまう。そして自らの常識に従って偽の姿を描いてしまうのです。

 私は見たとおりに描ける人が芸術家なのだと考えます。見たとおりに書き上げることができる柔軟さと我慢強さは並大抵の努力では得られない。たくさん描いてたくさん失敗する中で得られることなのだと感じるのです。

 落書きを通して自分が何を見ているのかを確認する作業を繰り返していきたいと考えています。

粘り強さ

 自分にかけているものを数えあげていると憂鬱になるほど時間が掛かりそうですが、その中の最たるものの一つが粘り強さであろうと自覚しています。これは多くの事柄に通底する大切な能力でしょう。

 すぐには解決しないことを考え抜きやり抜くことは容易ではありません。しかし、それができることこそ成功の鍵なのだと考えます。便利な検索機能を使えば何でも分かったつもりになれる環境がかえって考えぬく習慣を奪っているのかもしれません。私たちはインスタントな知見で満足せず、その上を目指さなくてはならない。そのためには未知の領域に踏み込んで迷っても、簡単には諦めない強さがいるのです。

 粘り強さを生み出す精神力は机上では生まれないのかもしれません。いろいろな経験を積むことが大事なのでしょう。