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新札まだ見ません

 新札が発行されて何日か経ったがいまだに実物を見ていない。職場でも見たのは一人だけだ。今後、こんな話は忘れ去られてしまうのだろうが、新札への切り替えは暫く時間がかかる。

 ましていまはキャッシュレスの時代だ。スマホのバーコードを見せるだけで大抵の買い物ができてしまう。そういえば福沢先生を買い物で使った最後の時はいつだったのか思い出せない。

 紙幣の歴史については教養課程の経済学の時間で学んだ知識がアップデートされていない。要するに石でも葉っぱでも何でもいい。流通しさえすればそれが通貨なのだ。紙幣は現状では究極の物理的通貨であるのに過ぎない。

 とはいえ、なぜ渋沢栄一なのか、津田梅子や北里柴三郎はいかなる人なのか。天皇ではなぜいけないのかなどと考えることでこの国の文化と歴史を考えることはできる。

 通貨に政府と国民が何を見いだそうとするのか。紙幣はそのシンボルとしてはとても興味深い。

政権交代

 英仏ともに政治の流れが変わろうとしている。何がそうさせているのかといえば、現状に対する不満以外にない。

 フランスは変わるときは極端に変わる。オリンピックの直前というタイミングでの野党の大躍進は驚きだが、それだけ現政権に対する不満は大きいのかもしれない。今回行われているのはフランスの下院、国民議会の選挙である。フランスは2段階に分けて選挙を行っている。1人区の小選挙区制をとり、1回目の選挙で得票率の50%以上かつ、有権者の25%以上の得票をした候補者がいない場合は、有権者の12.5パーセント以上の得票率を得た候補による決選投票を行うというものである。フランスの選挙勢力は与党の中道派、それに左派、右派と3分されるそうで、1回目の選挙で躍進した右派が2回目の選挙で勝利を続けると、議会での安定多数を確保することになるそうだ。慌てた中道と左派は候補者の一本化を図り、右派の勝利を阻止しようとしている。これまでこの方法で右派の進出を阻止してきたが、今回はそう簡単にはいかないようだ。

 第1回目の選挙で躍進した極右勢力は、もともと国民戦線といっていた政党で、民族主義、反移民主義を標榜していた。その政党名からもうかがえるように過激な思想であり、現状に不満をもつ国民の一定数の指示を受けてきた。結党した父の後を受けた娘のマリーヌ・ル・ペンが党首になると、現実路線に変更しそれまでの反ユダヤ主義や民族主義のトーンを下げ、中小企業の保護を打ち出すなどの穏健な路線に進んでいる。ただし、移民に関しては否定的で人数の制限や社会保障の厳格化などを標榜している。また欧州連合との関係も距離をとるべきだという考え方のようだ。フランスも停滞する経済や、失業率などに不満を持つ人は多く、その受け口になっているようなのだ。

 決選投票次第であるが、マクロン大統領が今後厳しい政権運営を課せられることは間違いがなく、国際情勢に大きな影響力をもつ同国が今後には注目しなくてなるまい。

 イギリスは議院内閣制のため、今回の選挙で労働党が大勝利したことで政権交代が起きた。しばらく続いた保守党政権から14年ぶりに政権を奪取している。イギリスは前政権でプレグジットを国民投票で行ったが、EUからの離脱は決して英国に利をもたらしていないようだ。輸入のコストがかかるようになったことや、人手不足を原因とする景気の後退が続出した。次期首相になるはずのスターマー氏はおそらく欧州連合との協調を進めるだろう。日本との関係はその結果、少し低下する可能性もある。また移民政策に関しても見直しがあるのかもしれない。

 移民を拒否して国民を守ろうとする動きと、世界的な人間の動きに連動して国家を保とうとする国家が隣接していることは実に不思議なことである。ただ、両国に言えるのは現状に対する不満と次期政権に対する期待であることは変わりない。

 日本ではおかしな都知事選挙が行われている。経済の停滞は欧州の比ではないのにこの国の選挙はなんと的外れなのか。これを幸せというのか。愚かというのか。何があっても政権交代は起こらない、起こっても長続きしないこの国の政治の力の弱さを物語っている気がしてならない。

物足りない豊かさ

 逆説的だが少々物足りない方が豊かさを感じられるということはある。必要以上に満たされているとそれを幸福とは考えられず、むしろ害悪のように感じられる。私たちは少し物足りない方が幸福感を覚えるものらしい。

 物足りない状態に魅力を感じるというのは、そこに想像が働く余地が残されていることを意味する。そこでは無限の可能性が輝いている。こんなこともできるのかという驚きと達成感が得られるのに対して、習慣化し、無批判に繰り返しているものには私たちは冷淡であり、印象すら残らない。

 物足りないことに魅力を感じる文化は実は日本では一般的なものである。侘び寂の価値観などはその例であろう。モノやサービスに満たされた現代人があえて物足りないものに身を任せるのは大切な体験である。

日本への投資

 日本がアメリカの巨大IT産業の投資対象になっている。マイクロソフトの巨額投資は日本経済の支援を表向きの理由としているが、高齢化の進む社会の中でAIを使った様々なサービスがまず日本で普及発展すると見込み、先行投資することでシェアを獲得することが目的らしい。社長がメディア取材にそのように回答していた。

 すでに直面している人手不足の問題は人工知能の支援を受けて切り抜けなくてはならないと考えられている。雇用を守らなくてはならない地域では職を奪う敵になるが、人手が足りないのを救うのだとなれば社会に益なるものという大義名分が成り立つ。

投資はありがたいが、この中に日本人がどれだけ参加するかが鍵となる。結局、自分たちで何とかしなくては投資が終わればそれまでということになる。この国でしか生まれない発想やシステムをどれだけ出せるのか。もらったチャンスを利用して、それを乗り越える気概が必要だ。

察することの大切さ

 察すること行間を読むことは大切な能力だ。空気を読むというとちょっとニュアンスが変わり、同調圧力のもとに自分の考えを曲げて忖度することを第一にするといった意味になる。ただ、場面や状況に応じて自らの言動を調節するのはやはり大切な人間の知恵であろう。

 こういうことを無意味だとしてなんでも杓子定規に考え、効率化とか可視化とか魅力的な言葉を使っていかにもそれが優れているかのように説く向きがある。これが主流になりつつある。成功者と言われる人の中にそんなことを言う人がいるからだろうか。しかし、これはかなり危うい考え方になる。

 効率がいいとか分かりやすいといったことは結局自分の属する共同体の中でのことであり、それを離れてしまうと非効率もしくは害悪になることある。近代科学が推し進めてきたことを考えればいい。豊かで便利な生活を追求した結果が公害の発生に繋がり、気候変動もその影響ではないかという意見が大勢を占めている。つまり、近代の人間は自分の身の回りだけを考え、循環するエコシステムに思いが至らなかった。地球全体の仕組みを考えるのは相当な想像力がいる。今日の東京の豊かな生活が、太平洋の島嶼国家を滅亡の危機に至らしめているなどと、高度成長期の日本人は空想すらできなかった。

 自然保護のことに話が集中したがそれだけではない。日本の経済が閉塞状況にある原因の一つが国内産業の不振だ。私たちは安価なものを求めて外国産のものを日常的に使っている。国産のほうが品質がよいなどといいながら、結局安価な方に手を出す。日本のものは売れないから、企業も設備投資がしにくくなり、最後の牙城とも言える高品質、高機能という要素も怪しくなっていく。これも自分の購買行動が結果的にどのような結果をもたらすのかを想像することができないことによるものだ。結果として給与は上がらず、安価な外国産のものしか買えなくなる。高いけれど品質やデザインのよい国産品があるのなら、それを選び価格の分だけ使い続ける方が実は個人としても国としても経済的なのかもしれない。

 そんなことは分かっているんだという人は多い。でもそれが行動に移らないのはなぜだろう。やはり私たちは察する能力、想像する能力を疎かにしているのではないだろうか。そしてそれを涵養するのは日常的な人間関係を豊かにすることであり、文学を始めとする芸術の分野にもっと注目することなのかもしれない。

職業差別

 職業による差別的な発言をして辞職に追い込まれた知事がいる。報道されたコメントが事実だとすれば市民の代表たる資格はないとしか言えない。度々軽口をたたいては謝罪してきたというから、本人の気質の問題なのかもしれない。

 ただ、変な人の許しがたい行動と片付けてしまうと、労働に対する考え方は変わらない。差別された業種は農業、酪農家、製造業に相当する。これらの職業は人手不足の危機に瀕している。それは労働の対価が低いことにも原因がある。そして彼らがいなくなるとこの国は回らなくなる。

 経済的支援や人材育成のためにやらなくてはならないことがある。それをせずに悪口を言った人を責めるだけは解決はしない。

2024年問題

 働き方改革関連法で適応が猶予されていた建設事業と自動車運転業務および医師に対して2024年4月1日からは例外が認められなくなる。結果として労働時間が月45時間、年360時間以内であることが原則となる。労使の合意があった場合は年960時間まで延長できるが、その場合は賃金の50%の割増が義務づけられる。

 本来は労働者を守るための法律であるが、実際には彼らの収入を奪う原因にもなり得る。規定の時間外で得ていた収入を当てにできなくなるので、すでに離職者が出始めている。雇用者側は割高賃金を避けるために雇用者数を増やしたいが、人材は足りない。賃金を上げれば運送にかかるコストは上がり、操業自体が難しくなる。運送業に関しては軽トラ個人営業者がインボイスに嫌気がさして廃業するケースが昨年度来見られる。業界全体で人手不足に直面するのが2024年問題だ。

 運送業に関しては様々な規制や安全面、さらには習慣上の問題から外国人労働者を雇用しにくい。日本で2種免許を取得するのは高度な日本語能力がいる。さらには左側通行以外の国から来た外国人は事故を起こしやすいだろうし、顧客第一の日本の商習慣も馴染むのには時間がかかる。そして、何よりも決定的なのは安すぎる賃金である。厚生労働省の2022年の調査によれば、タクシー運転手の平均年収は361万円、労働者の平均年齢は58.3歳である。これが日本の安価な運輸流通を支えてきた。外国人労働者がわざわざ条件の悪い職を選ぶはずがない。

 2024年問題の解決のためには何よりも運輸業界の待遇改善が欠かせないだろう。これは一つの業界に留まらない。流通業に依存する現在の多くの産業全てに関わる。とりあえず、送料無料のサービスは今後大幅に縮小する可能性が高い。また、再配達無料も維持することが難しいかもしれない。業界ではAIなどを活用したIT化などでこの問題を解決しようとしているが、なにか一つの策だけでは解決できない。私は某宅配業者のアプリを利用して、配達予定の通知を受けている。これによって不在時の配達をあらかじめキャンセルすることができる。再配達を避ける方法の一つだ。業界外の人間にも他にもできることがあるはずだ。

韓国医師のストライキ

 韓国で医師が大規模なストライキをしたことが報道された。理由は政府が医学部の定員を増やしたことだという。韓国は先進国の中では国民一人あたりの医師の数が少なく、日本以上に進行中の高齢社会に備えて医師の絶対数を増やさなくてはならない事情がある。なぜ韓国の医師は仲間が増えることを歓迎しないのだろうか。

 報道によると医学生が増え、医師が増えることで現在医師である人たちの待遇が相対的に落ちることを嫌っているからだという。医師の数が増えれば自分たちの価値が下がり待遇も悪くなるということだ。もし、これが事実ならば、既得権者が自分の利益を守ろうとする利己的な行動ということになる。

 しかし、これは事実なのだろうか。ますます多忙になる医業の実態からすれば、同僚が増えた方が結果的に利益になるはずだ。自分の給料が下がる可能性があるというだけでストライキなどするのだろうか。

 韓国の事情は分からないのでこの推測はここで止めよう。話を日本に切り替える。日本でも医師は高額所得者の印象が強く中には半ば事業家のような人もいることは確かだ。ただ、多くは自らの健康を犠牲にして患者のために邁進する人が多い。もし、韓国と同じように医師の数を増やすと宣言したら、彼らは怒るのだろうか。

 もし反発が起こるならば医者に対する待遇が悪すぎるのだろう。深夜勤務が続く医師が、仲間がもうひとり増えることによって自らの過労死リスクを低減できる。給料が減るのと寿命が縮むのといずれかを選ぶならば、答えは明白なはずだ、

 医師が命よりも収入をとるならば、その医師に私たちは自らの生命を委ねることはできない。医者のあり方は生命の存在意義と直結する。

 韓国の医師が利己的な打算で行動しているとは考えにくい。報道されていない何かの原因があるはずだ。それを知ることは我が国の医療の未来を考える上でも必要だと考える。

賃上げ幻想

 岸田首相の支持率が低迷している。言語は明朗なのに真意が伝わらない。この首相の残念な点はこれに尽きる。

 賃上げをしたうえで経済を回し、その結果として、社会福祉なり防衛費なりを増加する。この理想はあながち間違いとは言えない。

 ただ、どうすれば賃上げが達成できるのか一向に示されない。経営者の努力目標ならば賃上げの必要性はない。不透明な時代に内部保留を減らす必要がどこにあるだろうか。

 経営者の心を動かすとしたら、賃上げを達成した企業の法人税を思い切って減額するとか、何らかの形で評価しなければなるまい。損して得取れが体現できれば金持ちの気持ちは動く。

 自民党のやり方にはそういう臨機応変の方法が欠けている。野党も理想ばかりで実現可能な対案を示せていない。一流の国家なのに政治家は進歩しないのがこの国の悲劇だ。

 若い世代には期待している。私は与党であろうが野党であろうが具体的に進むべき道を示せるリーダーを求めている。いまとは違う枠組みでも構わない。

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教材としてのパソコン

 学校で使用しているコンピューターやタブレットに故障が相次いでいるという。子どもたちにこうした機器をどのように使わせるのかについては議論があるが、まずは故障にどう対応するのかを決めなくてはなるまい。

 究極の策としてBring Your Own Deviceがある。自分で用意するというものだ。これは少なくとも初等中等教育の場面では無理がある。セキュリティ面もそうだが、それより家庭間の格差や操作方法の指導ができない可能性などがあるからだ。

 現在学校で使われているデバイスのほとんどが海外製品だ。供給量の問題、価格の問題がある。教育利用目的に絞りスペックを抑え、代わりに強度やメンテナンスサービスなどを付加してビジネスを成立させる日本企業はないのだろうか。

壊れるのが当たり前の子どもたちの使用方法に耐えられる設計とか、保証のあり方とかを考えれば安定的な収益が見込める。教育の場面で成功できれば色々な応用が可能だろう。