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犬の日でもあり、猫の日でもある

 今日から11月だ。今年もあと2カ月である。ここのところ急に秋が深まってきているので体調が追い付けない。ところで今日は犬の日であるそうだ。鳴き声のオノマトペからの語呂合わせらしい。犬にとっては実にどうでもいいことであろうが。

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 同時にサンリオのキャラクターのキティちゃんの誕生日が1974年11月1日なのだそうだ。設定上はロンドンの出身ということだが日本のデザイナーが創作したものである。いまでは世界中にひろまって愛されているらしい。つまり今日は猫の日でもあったのだ。

フロッピーディスク

 職場の同僚にフロッピーディスクの存在を知らない者が増えてきた。それは何ですかと言われる方がまだいい。ネットの動画で見ましたとか、親が話しているのを聞いたことがありますなどと言われると、あなたは昔の人ですねと言われているのと同じように聞こえる。

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 最初に買ったコンピューターはフロッピーディスクなしには起動さえしなかった。しかも途中でディスクを入れ替えてようやく起動したのだった。その後、外付けハードディスクなるものが誕生してスイッチを入れれば起動し、入力画面までたどり着けるようになった。その時は実に驚いたものだ。今は蓋を開ければ起動するといっても過言ではないほどだ。

 フロッピーディスクの容量は1メガ程度であり、解像度の高い写真が数枚入るほどしかない。私が使っていたころはほとんどがテキストの情報であり、この小さな容量でも何とかなったのだ。私は万葉集の検索用のデータを打ち込んでは試していた。そんなものはより優秀な研究者による商用版にたちまちのうちに乗り越えられてしまったのだが。

 フロッピーディスクとは何ですか、という問いは私の世代でいえば蓄音機とは何かというのにもう近くなっている。資料では見たことがあるが使ったことはない、そんなものが世代ごとにあり、そのサイクルはどんどん短くなっている。今はAIが世の中を変えようとしているが、しばらくたてばAIって何ですか、ああ、むかしパソコンとかいうものに文字や音声で質問していたというものですね。いまは脳に内蔵しているものですけれどね、などと言われることになりそうだ。

屋上のアイドル

 渋谷に住んでいたころの思い出は数々あるが、懐古の波が起きると止まらなくなることがある。思い出したときに書いておこう。

 高校生の頃だったか、今はなき東急プラザの屋上にちょっとしたステージがあって、ときにはタレントやアイドルのショーがあった。友人と訪れたのは河合奈保子のプロモーションであった。その頃の彼女はデビューしたての新人歌手だった。レコードのいわば手売りのイベントで持ち歌もシングルの両面のみ、いかにもプロの作詞家と作曲家がアイドルのために作ったという感じのコケティシュな曲だった。後に彼女自身がかなり完成度の高い作曲をするとは、そのときは思えなかった。

 彼女にものすごく熱を入れていた友人は、いろんな情報を持っていて、いろいろと説明してくれた。彼はいたって真面目でピアノ演奏が得意な控えめな性格の持ち主だったので、アイドルへの執着は不思議だった。彼のおかげで売れる前のアイドルの姿を見られたのは幸いであったのかもしれない。

 昭和のアイドルたちはいまより過酷な条件でステージに立っていたようだ。一人もしくは数人の単位で営業していた当時は個人の能力や才能、資質に多く依存していた。そのキャラクターが前面に出ることから、個人的な批判に晒されることも多く、中にはステージ上の仮面と真の自分とのバランスを保てなくなってしまった人もいた。

 過酷な世界に咲いていたあだ花と見る向きもあるが、過去の思い出の一つとして記憶されていることを思えば、時間の流れの中に確かに結実したのかもしれない。

鉄道網の上に立つ首都圏

 毎日利用している電車が事故のため一日中止まった。人為的ミスとシステム上の問題点が重なったようである。怪我人は出なかったというのが幸いだが、おかげで首都圏でも有数の混雑路線が使えなくなった。

 振替乗車をして職場へは遅刻することなく到着できた。首都圏は都心部から郊外へと走る路線が数多く存在するので、迂回ができるのだ。それらをつなぐ路線が大切であると実感した。

 鉄道網が東京圏を支えているのは明らかだが、今回のような事故があって始めて実感できる。今回は一つの会社の2路線のみの障害だったが、同時多発したときどう振る舞うのかを考えておかなくてはならない。

女性首相誕生へ

 高市早苗氏が自民党総裁に選出された。時期総理に指名されることは確実であり、憲政初の女性首相が誕生しそうだ。少し遅すぎたがようやく性別による偏重が解消されるきっかけが生まれたことになる。内閣にも少なくとも4名以上の女性大臣を指定してほしい。議員でなくてもいい。能力のある人がいればだが。

 ただ、状況は容易なものではない。少数与党となっていることは変わらず、野党との協力が必要となる。高市氏は右派の考え方を信条としており、靖国神社参拝問題はその象徴的な事実だ。連携できる政党は限られるし、韓国や中国との関係も考慮しなくてはならない。融和を標榜する石破政権は進歩は少なかったかもしれないが大きな損失はなかった。自身の信条に固執するあまり国益を損することのないようにお考えいただきたい。

 保守層の一部が新総裁の誕生を歓迎していることは確実であり、これを機に社会が活性化すればよいが、理念ばかりをふりかざし現実から乖離した政策を展開すれば、分断を生むだけだ。大いなる期待と不安を持たざるを得ない。

自分とは何か

 自分とは何かという問いは誰もが一度は行う。容易に答えが出ないので、多くの場合は思考停止となる。そんなことは分からなくても日々の生活に困ることはない。むしろどうでもいいことをあれこれ考える方が時間の無駄ということになる。

 でも、自分を失うと厄介なことが起きる。現代のように常に他者の発信する情報に囲まれていると、果たして今の判断は私のものなのか、流行りの意見に迎合したのかが分からなくなる。迎合の意識があるうちはまだいい。自己判断を停止したままで周囲の環境に自動的に合わせて、それに違和感すらなくなっている人にとっては、最早自分の判断というものが消えている。彼らに自己責任を問うことはたやすいが言われた方には戸惑いが起きるだろう。私は決めていない。流行りに従ったはずだ。多分そうだと。

 こういう時代には自分が他者に操られる事態を起こしやすい。最近の流行語であるインフルエンサーは、他者への影響力が強い者という意味と心得ているが、この語が流通しているのは真のインフルエンサーが本当は少ないことを意味している。でも、多くは動かせないがいわゆるクラスタクラスの影響はあることになる。

 もし強力な影響力を持つ存在が権力の野望を持って登場すれば、容易に独裁者になれる。現代はその下地が整っていると言える。自分とは何かという厄介な問いを後回しにしているうちに事態は予期せぬ展開をするのである。

 多くの人が是といっても何かおかしいことがあればそれを指摘できる気概は保持しておくべきだ。多くの人にそれは変だけどと言われても、変と言っている貴方が変だと言える自己にならなくてはならない。情報社会において自己を保つのは難しい。でも、それができなければ危険な未来が待っている。

 

老人の概念の変化

 敬老の日であったが、実はもう人ごとではない。律令制では数えで60歳以上を老と呼んでいる。今より平均寿命がはるかに低かった時代においてはこの歳まで生きられた人は限られていたはずだ。

 現代は衛生環境、医療などの進歩で60歳は労働人口に含まれる。一部の業種では定年の年齢とされるが、実態に合わないので見直しが必要とされている。

 100歳以上の人口がまもなく10万人に達するという。65歳以上の人口は3619万人で全人口の29.4%に達する。対して昨年の日本での出生数は686,061人であったというから少子高齢化が急激に進展することは避けられない。古代において老人の区分となっていた人々が扶養される側にならず、できる限り自立して生活できる仕組みを着実に作らなくてはならない。

 老害などと年配者を非難しているだけでは埒があかない。そういう自分も必ず老いるのだから。歳に応じて何ができるのかを各自が具体的に示していかなくてはならない。少なくとも70までは自己開拓できる社会にしなくてはこの国の未来はなさそうだ。

学歴があればいいというものではない

 学歴を詐称して窮地に立たされている政治家がいるという。詐称することはもちろん良いことではない。無論人を欺いてリーダーになることは許されるべきではないことだと思う。ただ、たとえば政治家に学歴は不可欠なのだろうかと考えれば話は別になる。

 学歴を積んで政治学なり法学なり社会学なりを修得すれば為政者としての資質を身につけることはできそうだ。多くの政治家はこの方法で基礎的な知識を身につけているはずだ。ただ、ならばよい政治家はランクの高い大学卒であるべきかと言われれば、意見は分かれるはずだ。もちろん、誰もが憧れる大学の卒業生ならば選挙で注目されされやすく、当選の確率もあがる。でも、政治家に必要な包容力とか実行力は学歴とは別の要素である。歴史を見てもわかるように自らの能力が低くても、能力の高い人を心酔させ、その能力を政治に活用できるように引き出すというリーダーとしての能力が大切なのだ。

 そもそも学ぼうと思っても家庭環境がそれを許さず進学できないというケースは多いはずだ。学力がないから大学に行けなかったのだと短絡するなかれ。そもそも学力をつける環境がなく、他からのサポートも受けられなかった人はいくらでもいるのだ。その中には自堕落な生活をしている人もいるだろうが、中にはこの矛盾を何とか変えていきたいと願う政治家候補が生まれているはずだ。私たちがリーダーに求めるのは学歴などのいわば過去の栄光だけではない。これから何をしてくれるのかの方が遥かに大切なのだ。

 学歴を偽る政治家がいるのは、それがないと認められないという事実があるからなのだ。人を判断するのは難しい。高学歴、有名大学卒業という分かりやすい物差しに頼ってしまいがちということである。詐称することは許すべきではないが、学歴だけで人を判断することを反省しなければならないと考える。

パークに通う理由

 テーマパークに行くと楽しいのはなぜか。それは好きなキャラクターなり、それらが織りなす架空の世界が実現されているかのように思わせるからなのだろう。明らかに実質より高価なイベントなりグッズなりを遠慮なく買いあさるのは、その世界への没入がなせる業だ。

 見方を変えれば現実社会はそうではないということである。自分の好きなもの、好ましいと思うものばかりがある訳ではなく、むしろその反対のものの方が多く、取り囲まれていると感じることが多い。その中で不本意に毎日を送り、わずかに許せるものを第2、第3の代替品として使っている。人間関係も現実社会のそれは決して心地よいものばかりではない。善意に囲まれた(ように見える)テーマパークの中の人々とはかなり異なる。

 日常生活に活気を取り戻すためにはどうすればいいのか。まずはこの世界をテーマパークのように考え直すというやり方がある。「人生」というテーマを実現したものであり、そこには仲間もいるがそれ以上にライバルも敵もいる。そのすべてが人生に深みを感じさせるためのスタッフなのである。という風に無理やり考えてしまうことである。こう考えられる人はおそらく人生に悩みを感じることはないのかもしれない。

 逆に自分の扱う範囲を実人生の中でも狭めてしまうという手もある。付き合いやすいものだけを取り上げて、それ以外は流す。選択的な処世術である。これは適度であれば推奨されるはずだ。誰とでも仲良く、価値観が乖離している人にも配慮するというのは理想だがかなり疲れる。場合によっては無理がある。だから、付き合い方に濃淡をつけて、濃い人たち、社会とのつながりを深め、薄い方はなるべく関わらないようにする。それで無駄な軋轢が生まれないのならいいのかもしれない。

 ただ、この濃淡論は一歩間違えば分断の素になる。気に食わないものとは付き合わない。それが自分の利益を損なう場合は対立し、場合によっては実力行使を行う。このやり方こそ現代社会そのものではないか。この後に続くより悲惨な結果が透けて見えるのは私だけではないだろう。

 テーマパークは収益という分かりやすい目的を持っている。プラスティックでできた100円ショップでも売ってそうなものを、その100倍近くで買っても満足してしまうのは、日常生活で満たされない何かを自分で出せるくらいの出費で一時的にでも解消できるからだ。家に帰りついてもそのグッズは一定の効果を持ち続ける。そのキャラクターなり、世界観を感じられる何かがある限り一種の幸福感があるのだ。金銭だけで何とかなるのなら、日常の不条理よりはるかにいい。

 人生をパークにしてしまう覚悟がない限り、商業的テーマパークの需要はなくならないのだろう。

価値観は変わり果てる

 終戦の日のことを考えると、社会的な価値観は実に移ろいやすいということを考えさせられる。戦争をしていたころの日本の上層部はなんと愚かなのかと思い、庶民はそれに躍らせれて悲惨な毎日を過ごしていたというのが単純化した社会観であるが、本当はそんなに単純なものではない。日本が戦争をしなくてはならないと真剣に考えていた人たちにはそれが間違っていたとしてもそれなりの正義があり、それを支える世論というものがあったことを考えなくてはならない。

 戦前の日本が現在からみて異常であるのと同じように、おそらく80年後の日本に住む人々にとって21世紀前半の日本の社会は極めて奇妙に映るかもしれない。多くの人々を犠牲にした戦前の日本指導者を批判するのと同様に、現代社会の様々な問題を指摘して、自分たちの世代になぜこんなにも厄介なものを残したのかと不満に思うのかもしれない。

 毎日の生活にあくせくしているうちに、その問題点とか課題とかを見失い。大切なことを忘れてしまう。歴史から学べとはよく聞く話だが、何をどう学ぶのか分からないうちに時間が過ぎてしまう。その繰り返しが続いているのである。同世代の人々もすでにいろいろなことが分からなくなっている。我々の子孫も同じ繰り返しをしていくのだろうか。表層的な価値観は時代とともに変わり果てる。それを俯瞰するために必要なのはもっと深いところにある視点である。