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学歴があればいいというものではない

 学歴を詐称して窮地に立たされている政治家がいるという。詐称することはもちろん良いことではない。無論人を欺いてリーダーになることは許されるべきではないことだと思う。ただ、たとえば政治家に学歴は不可欠なのだろうかと考えれば話は別になる。

 学歴を積んで政治学なり法学なり社会学なりを修得すれば為政者としての資質を身につけることはできそうだ。多くの政治家はこの方法で基礎的な知識を身につけているはずだ。ただ、ならばよい政治家はランクの高い大学卒であるべきかと言われれば、意見は分かれるはずだ。もちろん、誰もが憧れる大学の卒業生ならば選挙で注目されされやすく、当選の確率もあがる。でも、政治家に必要な包容力とか実行力は学歴とは別の要素である。歴史を見てもわかるように自らの能力が低くても、能力の高い人を心酔させ、その能力を政治に活用できるように引き出すというリーダーとしての能力が大切なのだ。

 そもそも学ぼうと思っても家庭環境がそれを許さず進学できないというケースは多いはずだ。学力がないから大学に行けなかったのだと短絡するなかれ。そもそも学力をつける環境がなく、他からのサポートも受けられなかった人はいくらでもいるのだ。その中には自堕落な生活をしている人もいるだろうが、中にはこの矛盾を何とか変えていきたいと願う政治家候補が生まれているはずだ。私たちがリーダーに求めるのは学歴などのいわば過去の栄光だけではない。これから何をしてくれるのかの方が遥かに大切なのだ。

 学歴を偽る政治家がいるのは、それがないと認められないという事実があるからなのだ。人を判断するのは難しい。高学歴、有名大学卒業という分かりやすい物差しに頼ってしまいがちということである。詐称することは許すべきではないが、学歴だけで人を判断することを反省しなければならないと考える。

パークに通う理由

 テーマパークに行くと楽しいのはなぜか。それは好きなキャラクターなり、それらが織りなす架空の世界が実現されているかのように思わせるからなのだろう。明らかに実質より高価なイベントなりグッズなりを遠慮なく買いあさるのは、その世界への没入がなせる業だ。

 見方を変えれば現実社会はそうではないということである。自分の好きなもの、好ましいと思うものばかりがある訳ではなく、むしろその反対のものの方が多く、取り囲まれていると感じることが多い。その中で不本意に毎日を送り、わずかに許せるものを第2、第3の代替品として使っている。人間関係も現実社会のそれは決して心地よいものばかりではない。善意に囲まれた(ように見える)テーマパークの中の人々とはかなり異なる。

 日常生活に活気を取り戻すためにはどうすればいいのか。まずはこの世界をテーマパークのように考え直すというやり方がある。「人生」というテーマを実現したものであり、そこには仲間もいるがそれ以上にライバルも敵もいる。そのすべてが人生に深みを感じさせるためのスタッフなのである。という風に無理やり考えてしまうことである。こう考えられる人はおそらく人生に悩みを感じることはないのかもしれない。

 逆に自分の扱う範囲を実人生の中でも狭めてしまうという手もある。付き合いやすいものだけを取り上げて、それ以外は流す。選択的な処世術である。これは適度であれば推奨されるはずだ。誰とでも仲良く、価値観が乖離している人にも配慮するというのは理想だがかなり疲れる。場合によっては無理がある。だから、付き合い方に濃淡をつけて、濃い人たち、社会とのつながりを深め、薄い方はなるべく関わらないようにする。それで無駄な軋轢が生まれないのならいいのかもしれない。

 ただ、この濃淡論は一歩間違えば分断の素になる。気に食わないものとは付き合わない。それが自分の利益を損なう場合は対立し、場合によっては実力行使を行う。このやり方こそ現代社会そのものではないか。この後に続くより悲惨な結果が透けて見えるのは私だけではないだろう。

 テーマパークは収益という分かりやすい目的を持っている。プラスティックでできた100円ショップでも売ってそうなものを、その100倍近くで買っても満足してしまうのは、日常生活で満たされない何かを自分で出せるくらいの出費で一時的にでも解消できるからだ。家に帰りついてもそのグッズは一定の効果を持ち続ける。そのキャラクターなり、世界観を感じられる何かがある限り一種の幸福感があるのだ。金銭だけで何とかなるのなら、日常の不条理よりはるかにいい。

 人生をパークにしてしまう覚悟がない限り、商業的テーマパークの需要はなくならないのだろう。

価値観は変わり果てる

 終戦の日のことを考えると、社会的な価値観は実に移ろいやすいということを考えさせられる。戦争をしていたころの日本の上層部はなんと愚かなのかと思い、庶民はそれに躍らせれて悲惨な毎日を過ごしていたというのが単純化した社会観であるが、本当はそんなに単純なものではない。日本が戦争をしなくてはならないと真剣に考えていた人たちにはそれが間違っていたとしてもそれなりの正義があり、それを支える世論というものがあったことを考えなくてはならない。

 戦前の日本が現在からみて異常であるのと同じように、おそらく80年後の日本に住む人々にとって21世紀前半の日本の社会は極めて奇妙に映るかもしれない。多くの人々を犠牲にした戦前の日本指導者を批判するのと同様に、現代社会の様々な問題を指摘して、自分たちの世代になぜこんなにも厄介なものを残したのかと不満に思うのかもしれない。

 毎日の生活にあくせくしているうちに、その問題点とか課題とかを見失い。大切なことを忘れてしまう。歴史から学べとはよく聞く話だが、何をどう学ぶのか分からないうちに時間が過ぎてしまう。その繰り返しが続いているのである。同世代の人々もすでにいろいろなことが分からなくなっている。我々の子孫も同じ繰り返しをしていくのだろうか。表層的な価値観は時代とともに変わり果てる。それを俯瞰するために必要なのはもっと深いところにある視点である。

戦争体験を語れない

 あすは終戦記念日である。戦後80年ということは、高齢者の中にも戦争を知らない世代がたくさんいらっしゃるということである。亡父は終戦時小学6年であったので、戦争の記憶は残っていたようだが、かろうじて記憶が残るのはやはり5~6歳になってからであろう。だから直接戦争の体験を語れる世代は90代に近いことになる。

 ニュースによると最新のVR技術を使って、戦争の一場面を疑似体験できる施設があるそうである。戦場の中や、爆弾の投下された町の悲惨な様子を映像や音声とともに体験できるそうだ。それを直接見たわけではないので評することはできないが、やはり生死の際に直面している場面と、仮想現実とでは全く異なるのだろう。それでも疑似的に戦闘するゲームよりははるかに有益であろう。

 私自身も戦争は資料の向こうの世界であり、本当のことは何も分かっていない。多くの戦争を扱った文学や映画などに接するとそのたびにその恐怖や、戦争を起こした者への憤りを感じるが、それも長続きしない。最近の政治家は私よりも若い世代も増えているが、彼らの中には兵器を自国の防衛のために増やすべきだとか、原爆を所有することが国防上は安上がりだなどといってその虚偽をまき散らかす者がある。本当に分かっていないのかもしれない。彼らは自分が戦場に行くことを全く想定していないのだから。

 戦争体験を語れないことは今後この国の行く末をかなり危ういものにするはずだ。この国を亡ぼすのは他国ではなく、自分たち自身なのかもしれないなどと考えてしまう。

誰もが二刀流

 二刀流というと宮本武蔵の剣術のことだったが、今は大谷翔平選手のことを想起させる言葉になっている。プロ野球において投手と打者の両方で一流であることは難しく、大谷選手がそれをアメリカで実現していることが賞賛されている。

 二芸ある人を二刀流と呼ぶこともある。職業を掛け持ちしている人といえば、かつては兼業と呼ばれた。地方に行けば会社員でありながら農繁期は米作をするいわゆる兼業農家は普通にいる。農業が専業ではやっていけないことから生まれたスタイルだと思うが、今考えてみればまさに二刀流であり、理想的な生活スタイルだ。

 農業ではなくても、二つの仕事をこなしている人はたくさんいる。会社員でありながら、土日はスポーツ少年団などのコーチであったり、塾の講師であったりするのはこれも二刀流だ。私も前の仕事では、学生に授業をすることと、自分の研究をして論文を書くこと、社会人のための講座の講師をやることなど二刀流をやっていた。それがもしかしたら、当たり前の人生のあり方なのかもしれない。

 ここ十数年はすっかり専業体制になってしまった。それが一流であるならばいいが、私の場合はそれ以下である。誇れるのは欠勤が少ないことと、自分が至らないことを自覚できていることくらいだ。二刀流という言葉からは程遠くなってしまった。

 矛盾することを言うようだが、人は誰でも兼業で生きている。例えば運転手なら、一日中運転手という訳ではない。家に帰れば父親としての役割があるのかもしれないし、趣味の時間はそれなりのこだわりの行動をする。それらのどれもに自信をもっていれば立派な二刀流プラスアルファなのだが、多くの場合その矜持はない。でも実態は人は何役もこなしている役者なのである。

 自分がやっていることにもっと意味づけをし、それらに誇りを持たねばならないと思う。自分の生活の多面性を認めれば、何か一つの基準に縛られていらぬ劣等感にさいなまれることはない。自分の可能性をいろいろな面で生かせれば、そこに利他的な側面も現れ、結局本当の意味での社会人になれるのだろう。収入に直結することではなくでも自分はいろいろな役を演じながら、社会のためになることをしていることを実感したい。人は誰でも二刀流で、しかも一流の社会人になる可能性があるのだ。

発信源は特定可能

最近、誹謗中傷をネットに書き込んだことで起訴されるケースが増えている。匿名にしても発信者の特定はかなり正確に行えるようだ。そして立件されればかなりの経済的、社会的ダメージを受けることが分かってきた。落書きと違うのはそれが永遠に保存され、何度も責任追及される可能性があるということだ。

 デジタル社会は個人の行動を個別に保存し、必要なときに取り出せる能力を持つ。誰がいつ何を書き込んだのかについては記録されているというのが現状だ。

そうした窮屈さ息苦しさを我々の子孫は耐えていかなくてはならない。隣のあの人が何をしたのかをデータベースから検索するちょうどその時、私自身が何者なのかを検索の網が追いかけていることを考慮しなくてはならない。

個人的な思いを記すのは自由だが、それが他人にどのように受け止められるのかは分からない。どう解釈されても説明可能でなければならない。それが難しいならば公開は控えるべきなのだ。

新興政党のせいではなく

 参政党の躍進について色々な意見がある。先日、駅前で演説するのを聞いたが誠に真っ当で何の問題もなさそうだった。演説する若者も誠意が感じられた。ただ気になったのは彼が党是をどのように考えているのかだ。

 演説の内容は選挙に行くことによって日本を変えようという選挙管理委員会が言うような内容が大半だった。政治に参加しましょう。あなたが変えるのです。という訴えは的を射たものでこれまで投票所に行かず、不満だけ述べてきた層に一定の訴求力があった。

 ただ創憲案の内容や、外国人の今後の扱いについての話は一切なく、党の主張というものがこの若者に伝わっているのか、あるいは核心は語らないように指示されているのか分からなかった。こんな疑問を持ったのは党首の発信するメッセージと駅前の若者の言いたいことの距離がかなり離れているからだ。この党の性質かもしれない。イデオロギーとか党是よりも、各自が言いたいことをいう政党なのだ。

 ここから私は二つの可能性を感じる。勢いで議員になった方々がこのまま自分の視点で政治活動をすれば党としてのまとまりを欠き、離党が相次いでしまうのではないかと言うことだ。これは多くの識者が似たような予測を立てている。

 もう一つは時々の国民のふんわりとした不満を掴み続け、それを吸収する新しいタイプの政党として生き残ると言うことである。今は右派の立場で得票数を伸ばしたがリベラルにも左派にも、時流によって変わり得るカメレオンになると言うことである。政治をビジネスと考える人たちにとってはこれで十分に満足できる組織だ。

 私の予測は間違っていることを信じたい。中にはナチスの政策との類似性を指摘する人もいる。ナチスは選挙で選ばれた政党であったことを考えれば、今回の選挙結果は新興政党の躍進という問題ではなく、国民が政治を疎かにしてきたことに猛省を促すきっかけとして考えるべきなのだろう。

 

古くはないフルヤノモリ

 昔話に何よりも怖いものとして語られるフルヤノモリの話がある。聞き間違えの話は口承文芸には類型として存在する。雨漏りは確かに面倒だし、痛切な困難である。笑い話で済むならよいが当事者にとっては何よりも厄介な問題であろう。




 この話は現代には違う形で復活しそうだ。駅舎に雨漏りが発生している箇所をしばしば目にする。メンテナンスが追いつかなくなっているようだ。技術者の減少と必要以上の人材削減とがこのような形として具現化されている。駅舎のみならず、あちらこちらで起きているように思う。

 昔話の古屋は相当な代物であろうが現代のそれは一見何でもないように見えて、肝心なときに機能不全を出来する。昔の建物と異なり、現代建築は高度な技術でできている分、相応のメンテナンスを要求する。それに対応できるシステムや人材が次第に欠けつつあるような気がする。

 フルヤノモリの話は現代にバージョンアップして人間を恫喝するものになっている。その他のインフラに対する保善も大丈夫なのかと不安になる。

選挙を前に思うこと

 いつのまにか選挙は短期的な流行りを表すものになってしまった。自分が選んだ候補者なり、政党が自分たちに何をしてくれるのか。それが本当に実現可能なのかということに想いが至らなくなっているように思う。

 自公の長期政権が結局効果的な政策を展開できず、献金問題に代表される腐敗が蔓延しているのが、この問題の根本にある。ゴタゴタいうな対案を示せと豪語していた時代ははるか昔だ。今は与野党ともに現状打開の政策を打ち出せない。だから少数政党が次々に生まれ、その中には中長期的な見通しがなく、むしろ当選によって得られる利益を狙った選挙ビジネスと揶揄されるべき輩もいる。

 新政党の中には弁舌巧みなものもあり、ポピュリズムの時勢を利用している。その主張は一見正しいが、ここの発言を集めて総合的に評価するとかなり怪しいものがある。私たちの多くはその余裕がなく、出たところの発言に一喜一憂する。民主主義の弱点は史上何度も露呈しているが、現代はこの上位互換版が進行していると思われる。

 政治家の皆さんには是非、国民に分かりやすく、かつ甘言のみならず必要ならば厳しい指摘もしていただきたい。口説の徒を見抜く力は少しずつ獲得されつつある。容易に騙されることのない市民がもっと多くならなくてはならない。

震災デマ

 トカラ沖で地震が群発している。例の漫画家の震災予告と偶然近場で起きているので、気味悪がっている人もいるのだろう。

東日本大震災の後、日本各地で起きた地震の記録を見ることが暫く続いた。三陸沖の余震は数多く、中には緊急速報レベルのものもあった。その他で多かったのが熊本付近と能登付近、そしてトカラ沖だった。熊本や能登では大地震が発生したが、後付けであれが前兆だったとは言えるが、リアルタイムでは分からない、それほど日本では小さな地震が毎日あちこちで起きている。

 トカラ沖の地震は小規模なものが長く続くのが特徴だ。今回、大きな地震になっているのは珍しい。ユーラシアプレートの下にフィリピンプレートが沈み込む位置にあるのが地震多発の原因らしい。

 なのでこれが予言の結果というわけではない。もともとここは多発地域なのだ。日本で大災害が起きるからといって航空便がキャンセルされる事態になっているようだが、デマに過ぎない。

 ただ、日本はもともといつ大きな地震が起きてもおかしくない地理的条件にある。大震災は明日かもしれないし、数十年後かもしれない。日本に来る人はその点は覚悟してほしい。言えることは、地震があるのが当たり前の国では、他国より地震の被害は食い止められるということだ。

 震災デマを信じて日本に来ないのも一策だ。ただ、「その日」を過ぎても日本はいつでも地震や台風などの天災に襲われうる。にも関わらず、ここまで発展できた訳をお知りになりたいのなら、ぜひお越しいただきたい。きっとお分かりになるはずだから。