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救急車が来たら

 休日運転手の私だが緊急車両と遭遇することは少なくない。ほとんどが救急車である。接近時の対応は感動的なことが多い。

 背後から救急車が近づく場合を考えよう。多くの車が速度を落とし、ハザードランプを点滅する。二車線しかない場合、左右にギリギリまで詰めて、真ん中に救急車の通り道を作る。こうしたことが打ち合わせもなしにできてしまうのは感動的だ。

 ドライバーはこのようにうまくやるが、歩行者の中には緊急車両が接近しているのに横断歩道をゆっくりと渡り、行く手を塞いでしまう人をよく見る。彼らがモラルに劣っているとは思えない。恐らくは緊急時の対応に不慣れなのだ。振る舞い方が分かればとうせんぼはなくなるはずだ。

 緊急事態にいかに振る舞うかはこの国に住むものの必須のスキルだ。いろいろな場面を想定して備えておくことは無駄なことではない。

輪島朝市

 富山に勤務していた頃、万葉集に詠まれている土地を訪ねるという目的で輪島や珠洲を訪ねたことがあった。穴水の民宿で一泊したあと、輪島の朝市に行った。8月の平日だったはずだが結構な人がいて賑わっていた。

 その場所が今回の震災で火災の被害に遭い大半が焼失したという。残念でならない。能登は家計を支えるため、女が店頭に出て売ったという伝統がある。あのおばさんたちはこれからどうするのだろうか。

 余震が多く心配だがやがて収まるだろう。たくましく甦る能登のパワーを期待している。必ず再訪したい。

不安のなかで立ち現れるのは

Photo by Maisa Borges on Pexels.com

 何かに対する不安感を多くの人が共有したときに大きく時流が変わることがあるらしい。特に危機感を利用して人々の気持ちを扇動する存在が現れたとき危うい展開が起きやすい。世界の歴史をみても、天災や戦争などによる危機的状況の中に一見救いの道を示すように見える言葉を並べ、象徴的な行動を見せることで「信者」を獲得する者が出現する。それはある時は宗教者であり、資本家であり、政治家であり、独裁者であることもある。表す姿は様々でも多くの人々の行動に影響を及ぼすことは変わらない。

 恐怖の中では頼りになる何かが欲しくなるのは当然のことである。その中で誰かの言葉や行いに救われるということは多い。私たちの日常は大体同じことの繰り返しであり、次に何が起こるかある程度の推測ができる。あるいはできると思い込んでいる。ところが、限界状況においてはその予測が全くできない。どこに進むのかわからない船にのっているのと同様に、展開が見えない時間は極度の不安と焦燥が噴出する。そんなときに、私に任せれば大陸に必ず着くという者が出現すれば救われる気になる。それに根拠がなくても盲従してしまう。

 こういう事態はいつかは起こる。そういう時に茫然自失とならないようにすることが肝要だ。かなり難しいのは確かだが、少なくとも過去に起きた同様の事態がどのように起き、どこに落ち着いたのかを知ることには意味がある。その意味で歴史を学ぶことは大切なのだろう。どんなに知識があってもその事態にならなければ結局どうなるかは分からない。それが事実だろう。でも何も知らないより、知っておいた方が救いにはなる。

早朝の清掃ボランティア

 早朝に出かけた日のことである。駅前にある地下通路を静かに清掃する人が二人いた。路面にこびりついたガムか何かを剥がし取って、手持ちのペットボトルに入れた水で流していた。根気のいる作業である。彼らは清掃をボランティアで行っている人たちらしい。

 こういう行為を見ると自分も何かできないかと思う。昔見た「ペイフォワード」(Pay It Forward)という映画を思い出す。子どもが考えた善意のリレーで世界を変えるという発想を体現化したものだった。もちろん映画としてのストーリー展開でできすぎた内容であるのは仕方がない。善意は無意識のうちにリレーするの可能性がある。ただ、それがすぐに起きるのか時間がたってからなのかは分からない。ボランティアの姿はそのきっかけになる可能性があることは確かだ。

 私自身は何かをしなければという思いはあってもそれがなかなか実行できないでいる。せめて、ごく小さな親切から始めてみたい。それを行う勇気として清掃ボランティアの姿を覚えておこうと思う。

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余裕を求める時代に

 いろいろなことがコンピューターで制御され、無駄を極力防ぐ技術が開発されている。その成果は人工知能の発達とともにより高度化され、効率化という大義名分を達成するために活用されている。それはそれで意味がある。人手不足で停滞気味の産業を支援するのには機械の補助が欲しい。農業などの高齢化が進む産業では、コンピューターのアシストで労働力不足が補えるし、若い世代の参入の可能性をもたらす。このようなことはほかにもいくらでもあるだろう。

 機械に仕事が奪われるという恐怖は積年の懸念材料だが、これは避けられそうもない。私のような教員は機械化から最も遠い職業といわれていたが、最近の教育テクノロジーをみるに従来型の教員は比較的早い時期に機械化できるかもしれない。目的と手段がはっきりしていて、一定の効果を期待する産業においては機械化と親和性が高い。いうまでもないが、既存の産業の大半はこれである。

 すると、決まりきったことを無駄なく遂行することに関しては機械に代替される時代は比較的早く来そうだ。残念ながらこの潮流は決定的であり、もう変わりそうもない。だから次を考える必要がある。ある程度の仕事は機械がこなす。かなりの水準でやり遂げるので、その意味では生活の水準は上がるのかもしれない。でも、いろいろなことがコモディティとなり、特別なものが見当たらなくなる。そこで重宝されるのは、効率化ではなくむしろ個性を生かした特殊性であろう。アートの領域が尊重されるようになると推測できる。

 個人の創意が評価されるには、その創意を形にしたり音にしたりして何らかの表現をすることが必要である。そうした作品を作り出すには心の余裕がいる。数多くの駄作とともに、その中にかすかに生まれる傑作を待たなくではならないのだ。余裕のある生活を送るためにはどうすればいいのだろう。

      

誰に対して感謝しますか

 勤労感謝の日が新嘗祭に由来することは明らかだ。戦後の米軍の占領政策によって、神道色が消されて欧米の感謝祭的な要素を強調した勤労感謝の日となった。本来は神への感謝であったのが、勤労をする人間の方に謝意を捧げることになったのだ。

Thanks for everyone image

 ただ、基本的な考え方は同じであり、収穫の喜び、つまり労働の成果に対しての感謝の気持ちを表現する祝日ということになる。細かく見ると誰が誰に感謝するのかを考えなくてはならない。対象が神であったときは米穀の実りをつかさどる別次元の存在に対して行っており、宗教的論理によって祭祀が統一されていた。それが人に感謝するとなるとこの行事は個別化され存在意義が分かりにくくなってしまった。

 例えば、私の場合は職場の環境を整えていもらっているスタッフや、運営をしている管理職、協力してくれる同僚などが感謝の対象だ。よく考えてみると電力、水道といった社会的インフラを保持している人たち、交通機関従業者、医療関係者、そのほか社会制度を支えている人たちのすべてが感謝の対象になりうる。かつてエッセンシャルワーカーということばが世上にあがったが、エッセンシャルかいなかは判断基準の違いに過ぎない。勤労感謝ということは社会に対する感謝ということになる。

 人に感謝するということが素直に言えない時代であると思う。サービスは労賃に換算され、評価の対象になる。金を払えばそれで権利が買えると錯覚してしまう。これでは感謝の気持ちは沸きにくい。感謝すること、されることによって人々の生活は変わっていくのではないか。今日はそういうことを思い出す日なのかもしれない。

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選挙に行きますか

 駅前でとある政党が演説を行なっていた。曰く、選挙にいかなければ政治は変わらない。有権者の半数に満たない投票で政治が行われているのはおかしいと。至極正論である。

 右翼政党として知られているその政策は支持できないがここまでは賛成である。この演説を聞きながら、動画サイトで展開するユニークな政治に関する番組を思いだした。数名の高齢者が登場し、若者は選挙にいかなくていい。政治は年寄りに任せろ。好きなようにしておくから。あなた達はSNSで政治の愚痴を書き込んでおけというものだった。皮肉が効いたもので印象に残った。

 この動画の方は世代の分断を促すものとして批判されているようだが、若年層の投票行動を促すものとしてはなかなか効果的だ。実は世代差だけではない。投票しない多くのサイレントマジョリティーが割を食っていることは明らかだ。

 民主主義の陥穽にはまらぬように、何をすべきなのかを考え続けなくてはならない。

静謐な時間

 赤坂のモールでクワイエット・タイムが実施されたというニュースがあった。照明や音響を制限したり止めたりすることらしい。感覚過敏の人への配慮が目的で、海外での実践例を真似たという。

 そういえば日常生活では過剰な音と光に囲まれていると感じることがある。当初は過剰に感じても、それらに晒され続けると当たり前になる。何らかの事情で、たとえば故障などで照明がつかなかったり、BGMが途絶えたりすると不安になることすらある、しかし、これは実は不自然なことである。

 東日本大地震以降、電力供給不足が起こり、商店や街頭などの照明が制限されたことがあった。始めは不安感を覚えたが、これも慣れてくると気にならなくなった。我々の感覚過敏というのは習慣の中で形成されている。不要な照明や音響、空調などはあらかじめ切っておいた方がいいのかもしれない。

 身体的都合で感覚過敏の方には当然だが、そうでない者にもクワイエット・タイムは必要なようである。

化け物減りました

 ハロウィンの夜、渋谷を通る電車に乗った。去年までは大勢の化け物たちが乗り合わせたが、今夜はほとんど見かけない。渋谷区長の呼び掛けは奏功したようだ。

大騒ぎはだめよ

 アメリカでは仮装するのは本来子どもであり、大人が憂さ晴らしの乱痴気騒ぎをする行事ではないようだ。日本ではなぜかそれが大人の行事となり、渋谷のハチ公前交差点がその「聖地」となってしまった。さらに飲酒酩酊して暴徒化寸前にまでなった年もあった。間違った文化摂取が隣国にも伝わり、大事故を引き起こしている。

 渋谷区長の呼び掛けは、大勢に従う日本人の性格には効果を得たことになる。結果としてそれでも渋谷に集まる者は社会的規範の意識が薄い者とみなされ、非難の対象となった。化け物退治は成功したという訳だ。

 ハロウィンには祖霊へのまつりと収穫感謝の要素があるという。この方面に関しては注目していい。秋彼岸や名月鑑賞など、伝統的行事との関連も考え、大人の行事として作り直すことも必要だ。

あり得ない妄想

やり直せたら

 あのとき別の選択肢を取っていたらとはよく思う妄想である。別の選択をすれば関連して更にいろいろなことが変わり、結果として全く別の状況になる。いまとは違う自分がいるはずだ。

 こういう考え方をしているとき、無意識のうちに並行世界を考えていることになる。量子力学理論ではないが世界はいくらでも分岐すると漠然と考えている。

 学問的な裏付けの有無にかかわらず、この考え方は実は妄想のようなものだ。一人の人生では一通りの経験ができず、それを俯瞰的に捉えることはできない。どんなに並行していても見えなければ存在しないことと変わらない。

 それでもこの妄想をすることは楽しい。それは人生を少しでも豊かにしたいという思いによるものだろう。ただ、生きられるのはやはり今の人生しかない。