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食べ物の評価

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 レストランの評判は気になる。しかし、味の良し悪しの評価は個人によって大きく異なる。絶対的なものではないことを忘れてはならない。

 さまざまなレビューがネット上にはあふれている。だれでも評価できるようになった最近の方法は一見優れているかのように見えるが、実はかなり偏見に満ちている。本来個人差が大きい味覚に関する分野を統合して数値化することの意味が感じられない。どんなに多くの人がうまいと思うものでも、ある人には耐えられないものである可能性がある。その逆もある。

 よく行くレストランの評価を見てみたことがあるが、かなりの高評価で絶賛している人もいた。その反面、今まで味わったことがないほどまずいという評価もある。食味の評価はそういうものなのだ。私自身は良くも悪くもない無難な味だと思っている。ネットに書き込むのはそういうことが言いたいかなり特別な人なのである。特別な人の評価はそのほかの人のそれとは異なる。しかし数値にはその評価があたかも現実そのもののように提示されてしまう。

店の売り上げにも評価が影響するため、いわゆるサクラやアンチ的な書き込みをする人も多数いるという。ますます信用できない。そういうものだと思ってこの手の情報は使うべきだ。これは多くの人はわかっているはずなのに、だまされてしまう。思ったよりメディアリテラシーは身につくものではない。かくいう私もその一人であり、反省のために文字化してみた。

疑似的俯瞰

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 地図を見ることは楽しい。最近は紙の地図を広げることはめったになくなった。それでも観光地に行くともらえる地図には心が躍る。さまざまな情報が集められているし、その地に行けばきっと何かがあることが予感できるのがいい。

 最近は車に乗るときにスマートフォンの電子地図を使うことが多い。本来ならば専用のナビゲーションが必要だが簡易的に使っている。グーグルマップでも十分に代用できる。これにはいいことと悪いことがあって、いいことは迷わなくなったことだ。何しろ渋滞状況も考慮して最短の道を教えてくれる。これでいける場所が増えた。悪いこともある。それも迷わなくなったことだ。出発点と目的地が点と線で結ばれ、その周りにあるものがすべて無目的に見えてしまう電子地図がなかったころは周囲の地形や目標物をあらかじめある程度頭に入れてから運転していた。その中で大まかな位置関係や地域の状況がわずかながら分かった。ナビゲーションを使うとそれらが頭に入らない。

 電子地図をナビとしてではなく、自分の住まいの近くを表示してみた。すると様々な発見がある。歩いているときとは少々位置関係が違って見える。実査に進むことはできないが距離的には実は離れていなかったり、遠いと思っていた場所がそれほど離れていなかったりする。知らない店の名前や、公園の所在などが分かる。自分の生活圏を俯瞰するのにこの地図は面白い。地図はどこかに行くためのものだけではなく、自分がどこにいるのかを知るためのものであることに改めて気づかされた。

 鳥のように空を飛べば普段気づかないことに気づくことができる。飛ぶことはできないが地図を使えば疑似的な感覚は得られるのかもしれない。

写真

Why do you take pictures?
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 人はなぜ写真を撮るのか。そんな作文を中学生に課してみた。もっともZ世代にとっての写真の意味は私のそれとはずいぶん違う。私はシャッターを切るという言い方に違和感がないが、今この言い方はなされない。なされたとしても意味がかなり違う。写真を撮る意味はテクノロジーの進歩以上に変化しているかもしれない。

 父は写真を撮るのが下手だった。ピント合わせも遅ければ、なかなか構図が決まらず家族を待たせた。たいていの場合しびれを切らした家族の不満な表情を撮ってしまうことになる。しかし、これは父が悪いだけではなかった。かつての写真はピント合わせから自力で行った。フィルム代も安くはなく、24枚か36枚程度でフィルム交換をしなくてはならず、その交換も手巻きだった。だから、一枚ごとの撮影は慎重にならざるを得なかったのだ。それでも現像してみたら目を閉じていたということはいくらでもあった。

 今はデジタルカメラだから、何枚でも撮り直しができるし、その場で写り具合を確かめることも可能だ。カメラではなくスマートフォンで撮影する人の方が多い。カメラを持っていない家庭が多いのは昭和時代では考えられないことだった。写真を撮る緊張感はほとんどなくなった。自撮りというよく考えれば不可思議な行動をする人も一般的になった。

 では、なぜ写真を撮るのだろうか。一つには不断の時間の中に生きる私たちのささやかな抵抗だと考える。諸行無常の世界にあってすべては移り変わる。自分の身体でさえ絶えず変わり続けている。昨日の自分はすでに今の自分とは物質レベルで別物になっている。ならば写真もしくは動画でその時点での自分もしくは自分が見たものを残しておきたいと考えるのが撮影の願望の底にあるのだろう。

 実際はその写真、フィルム、動画ファイルさえも劣化して消えていく。その速度がいかに遅くてもやがては消滅する。人生よりは長い。しかし、見る方が変わってしまえば、たとえ写真が不変であっても違って見えてしまう。だから本当は過去の一時点を完全に保存するこは不可能だ。

 それでも私たちは写真や動画を撮りたがる。後でそれを見ることだけが目的ではないのかもしれない。いま、それを記録しようとしている行為そのものに生きがいを感じることが撮影の意味なのかもしれない。大量に撮影され、顧みられることがない映像をかつては無駄と感じることもあった。しかし、もしかしたら、無駄になる写真を撮ることが生きていることの証なのかもしれないと考え直している。

減少

人口減少は避けられない

 人口減少が顕著になっているという。東京都も減少が見られた。コロナ禍による首都圏離脱の影響もあるが、構造的な要素の方が主因だ。

 人口減少はこのあとかなり長く続く。子育て支援の政策は一向に効果を発揮しない。子どもは増えず、年寄りは増え、天寿は必ず来る。私も人生の後半にいるのでできることは限られている。

 人口減少は様々な弊害があるという。これまでの国内需要でなんとかやっていくという方法は成り立たない。国際社会でうまく立ち回る必要が出てくる。その準備は大丈夫だろうか。

 ダウンサイジングは難しい。何かを諦めなくてはならなくなる。やめなくてはならないことが出てくると、ついいつも使わないものを捨ててしまう。しかし、使わないと思っていても実は現在の生活を支えているものであったりする。森林の伐採をイメージしよう。森には滅多に行かないがが森をなくすと致命的な問題が出てくる。

 人口減少、少子高齢化は未曾有の事態だ。これをどう乗り切るのか。世界が注目している。

3G終了

携帯電話も世代交代

 KDDIの携帯電話ブランドauは今月いっぱいで3G回線を廃止することを発表している。私は数年前に4Gの折り畳み式電話に変え、一昨年末からスマートフォンにしている。かなり後追いの部類に入る。スマホの便利さは十分に享受しているので、今更逆戻りはできないがガラケーと呼ばれる3G携帯電話がなくなることは残念な気がする。

 初めて携帯電話を持ったのはいつだっただろうか。確かパソコンを買い替えた時のおまけとしてついてきたのだと記憶している。液晶画面が小さく、メールが送れるといっても非常に限られた機能であった。最初に受信した迷惑メールは「メルトモナロ」で何のことか分からなかった。携帯電話の会社の名前自体も変わり、スマートフォンの登場で世の中は急変した。いまや電車の中でスマホを持っていない人はわずかであり、すっかり魂を操られている。

 いまは5Gの普及期であり、すでに次の世代の構想も明らかになりつつある。単なる一対一のコミュニケーションツールではなくなっただけではなく、人間の思考や行動全体を操作することも可能になっている便利で魅力的で恐ろしく破壊的な道具をどのように扱うのか。これからも注意していかなくてはならない。

花粉飛散

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最高気温が20度を超えるらしい。花粉飛散が本格的になりそうだ。私は対策薬を飲んでいるが、それでも今日は覚悟しなくてはならないかもしれない。

花粉症の知識がまだ世間に周知されていなかった頃、アレルギー性鼻炎は不治の病としてもう少し深刻に考えられていたような気がする。多くの人が耳鼻科に通い、点鼻薬を吸入した。私もその経験を持つが苦い思い出だ。

不治の病といえるがどうかわからないが、この歳になっても根本的な解決はできていない。ただ、予防の知識や抗アレルギー薬が発達したことで以前のような問題はなくなった。それでも薬を飲むと軽い頭痛に悩まされたり、喉が渇きすぎたりするのは厄介だ。

スギ花粉の量が多いのは林業による植林の偏りが影響しているとされている。昭和期に加工がしやすい杉を大量に植林したことが日本の植生を変えてしまった。それで高度成長期以降に花粉症が問題になったという。林野庁は花粉飛散の少ない品種への切り替えを計画的に行っているというが、更新にはかなりの年月が必要なのだそうだ。

風が吹けば桶屋が儲かるそうだが、こればかりは困る。儲けはほかのことで得るのが良いと思う。

音読のすすめ

昔から言われていることだが、音読には一定の効果がある。受験生の頃を思い出してほしい。頭の中で記憶しようと思ってもなかなかできないが、声に出してしかも声量をあげて読むと頭に入ることがあっただろう。これは個人的なものかと考えていたが、どうも科学的にも証明されているらしい

国語の教員の立場でいうと受験世代の古典学習にはとくに音読をお勧めしたい。古典文法は覚えるまでは結構面倒だ。なに活用のなに形かなどという試験を出されて嫌になってしまうことがあるだろう。それで古典を嫌いになってしまったならばもったいない。文化的には国家的損失だ。

声に出して読もう

文法の約束を覚えることはもちろん大切だが、その前に音読を繰り返しておけばある程度は感覚的に読むことができる。口と耳が覚えてくれるという比喩は言い過ぎではない。英語学習でも聞くことと話すことが大事だと言われる。それと変わらない。英語はその気になれば街中に溢れているし、メディアからも流れてくる。古語はどんなに探してもそれを話す人は周囲にはいないだろう。ならば自分が発声するしかない。

受験の必要がない私のような世代の方々にも日本語の文章を音読することをお勧めしたい。特に名文と評価されている文章や、古典文学の文章の音読は意識的に行っていただきたい。日本語のあり方を考える基準になるだけではなく、自分の表現方法を見つめ直し磨き上げる良い方法だ。その他、いろいろな効果があることは先に引用したサイトの情報を参照されたい。

手元に中学や高校の教科書があればそれがいいと思うが、それがなければ好きな作家の文庫本でも一冊買って音読するといいと考える。古典に関しては個人的には読みやすく面白く、平安文法でもその後の時代の文法でもなくいわゆる日本の古文の標準の文体を持つ「徒然草」がいいのではないか。細かい意味は分からなくてもいいので、声に出して読むことだ。昔の言い方で言う素読をおすすめする。

コロナの時代で声に出すことが忌避される風潮にあるが学習に関しては声出しは意味があると信じる。社会的距離を保った上で音読する学習者が増えることを望む。

もっと簡単に

コンピュータを毎日使う日々が来ることは私が中学生の頃は想像できなかった。一部の科学者とか、特殊な職業の人だけが使うものであると考えていた。それが今は誰でも使う。おそらく一人一台では済まない。多くのコンピュータを使っている。

いわゆるパソコンというものはその中の代表だが、これに関してはいまだに操作が難しい。かつていちいちRUNなどと入力して始めていた頃に比べれば雲泥の差だが、それでもまだ難しいのだ。加えていま高齢者が使いこなせるパソコンがあるかといえばかなり難しい。自分が歳をとって分かったのだが、画面の文字の小ささだけでもう難しくなる。キーを叩くことも障害が出始めると難しくなる。音声認識もしわがれた声でどれほどできるのかが問題だ。

PC操作はいまはできても

コンピュータが人間の要求に答えられるようになるためには一段と開発が必要になるだろう。今はAIによる補完という考え方が主流になっている。衰えた認知力や記憶力、運動機能などをAIが予測して提供するというものだ。これにも様々な問題はあるが方向性としては間違っていない。杖か車椅子のような役割を果たすものを開発していく必要がある。

杖に例えたのは、あくまでも歩くのは人間であるということを言いたかったまでだ。車椅子の比喩もしかりである。あくまでも主体は人間でありそれを補助する道具としてコンピュータが活用されなくてはならない。

遠隔地由来の津波

 トンガ王国で起きた海底火山の大規模な噴火は、広範囲な地域に影響を及ぼしている。特に津波は想像以上に深刻なものであり、日本でも被害が出ている。

 15日におきたという海底火山の噴火は衛星画像からもはっきりとそれとわかる規模のもので、100年に一度もしくは1000年に一度の規模のものであると報じられている。この噴火の影響で日本でも気圧の変化が観察されたことから、相当な迫力を持つものであったとわかる。日本からトンガまでは約8000㎞離れており、同距離の場所としてはアラブ首長国連邦あたりでありかなり遠い国であるにも関わらず。

 今朝の報道によれば17日にも大規模な火山噴火があったとのこと。詳細は未詳ながらも再び津波の発生がないのかは確認しなくてはなるまい。トンガをはじめとする近隣諸国の人びとの生活が心配だ。さらに噴煙や会場に浮遊した噴出物の問題もさることながら、農業地帯であるオーストラリアやニュージーランドへの影響が懸念される。国際的な救援を考えるべきだろう。

 さて、標題の日本の津波に関しては15日23時55分に奄美大島で1m20㎝、岩手県久慈港では16日2時26分に1メートル10㎝の潮位上昇を観測したという。かなりの高さである。東日本大震災の津波で再確認したが、津波は通常の大波と違い、波面が全体的に持ち上がるため陸地がそのまま飲み込まれる。だから数センチでも被害が出ることが多い。報道によると北米でも同様の津波が観測されている。現時点での報道では噴火地点に近い場所よりも、遠隔地の方が津波の高さが高くなっていることもある。油断はできない。

 遠隔地で起きた地震により、津波が発生し被害が出た記録といえば1960年のチリ地震津波をあげる人は多い。私が生まれる前のことなので内閣府の公開している「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1960 チリ地震津波」を参考にしてみると、「昭和35年5月24日早朝来襲したチリ津波は、北海道から沖縄までの太平洋沿岸各地に被害を与えた。体感する地震がなく、気象庁の対応も遅れ、完全な不意打ちであった。南米沖で発生した遠地津波は、1586年以降19例もあったのだが、その認識が不足していた。」とのことで、地球の裏側で起きた地震がまさか大きな津波被害をもたらすとは考えていなかったというのだ。死者・行方不明者139名、負傷者872名が当時警察の発表の被害者数だが、この報告書によれば、返還前の沖縄の死者3名が含まれていないということである。

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 東北地方の太平洋側の住民は古来から何度も津波被害にあっており、他地域より備えはあったのにもかかわらず、体感なき地震による津波には対応できなかったことになる。また、インターネットのない時代、広報はマスメディアにたよらざるを得ず、情報不足がもたらした被害であったと今ならば言える。16日の深夜から未明にかけてスマートフォンなどで津波警報が鳴り続けた。数多く寄せられたクレームに対し、神奈川県知事はその方法に問題があったとして謝罪したが、情報があるということの重要さは忘れてはならないだろう。

 遠く離れた場所に由来する津波も決して侮ることはできない。このところインドネシアや南太平洋で大きな地震が相次いで発生しており、油断はならない。日本は自国で発生する地震への備えとともに、海を隔てた地域へのアンテナもつねに張り続けていなくてはならないのだ。

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成人

成人の日は私にとってはもう刺激のないものになっている。成人の定義がまったく現実とあっていない。精神年齢的にはもっと上の年齢を設定すべきだと思うし、経済的にはもっと下でもいい。早く独立して稼げるような仕組みもあればいいと思う反面、しっかりと人格形成をしたほうがいいとも思う。つまり成人の境は非常に曖昧で難しい。

日本の少子化は全く収まりそうもない。この後の時代には大量の高齢者がなんとか自活をして生き、そして力尽きていく。若者はその煽りをうけて苦しい生活を続けるか、もしくは画期的な方法でこれまでにない社会を作る。私は後者になると考えているが、そのためにはあまり年寄りが出しゃばらないほうがいい。

Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

新成人には申し訳ないがいまの日本では黙っていても幸せになれるような状態ではない。自己開拓で新しい時代を作るしかないのだ。起業独立を考え続けてほしいし、過去にとらわれてはならない。誰も知らないことを始める必要がある。

ただし、踏み外してはならないのは利他的な観点だ。自分さえ良ければいいというのは成人の先輩たちが犯してきた大失敗だ。一見良さそうに見えるが実は致命的な結末がある。他者を不幸せにする方法はすぐに自分に跳ね返る。だから、自分を含めた周囲の人を幸せにするという視点を持ち続けるべきであるし、その範囲を広げていかなくてはならない。

だから独立することがだけが能ではない。場合によっては協働し協力することが必要になる。お互いが目的をもって協力すれば相乗効果でより素晴らしいものが生まれるはずだ。もちろん意志をもった者同士が意見を言い合えば衝突もある。それを乗り越える方法も確立していくべきだ。

みなが幸せになるためには何が必要なのか。今何が足りないのかを考えればそこに自立の緒がありそうだ。実は私自身もそれを常に探している。成人になるというのは社会や世界を考えながら生きるということではないかと考えている。