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目覚め

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 目が覚めた瞬間、最近はスマートフォンの画面を見る毎日である。というのも、私はスマホにアラームをセットして起きるようにしているからだ。ささやかなピアノの音と、バイブレーションを同時に発動して起きるようにしている。それを止めるために画像を見る。よく考えてみればこの時点から私はスマホに侵されている。

 その画面には大体次のような文字が出る。おはようございます。今日は2月1日です。天気は晴れ、東京の最高気温は13℃で最低気温は-2℃。といった日付と気象情報だ。これを見ながら、私は時間軸と自分が置かれた位置や環境を把握する。

 おそらく同時にいろいろなことを思い出す。私は何者であるか、どのような人間関係にあるか、どんな気質でどんな性格なのかなど自分についての様々を瞬時に思い出すのだ。これは考えてみればかなり大変なことである。長期記憶を失った人が、毎朝自分の生きてきた生い立ちを録画したビデオを見て、自己を再認識するという映画を見たことがある。極論すればそういうことなのだろう。幸い私たちはどこかに長期記憶を蓄える仕組みを脳に確保していて、寝ても自分が誰だか忘れないのだと思う。

 ならば、長期記憶をおろそかににすれば、自己認識さえも危うくなり、自分という存在が保てなくなるということになる。記憶を機械に任せるのはその意味で危険だ。目覚めたとき自分を取り戻すためにも、いろいろなことを覚えることをあきらめないでいようと考えている。

売り声

 近隣の商店街に印象的な売り声で衆目を集めている人がいる。よく通る声と独特の言い回し、声の強弱と間が原因らしい。何がいいのかは分からないが、確かに人を惹きつける売り声は存在する。

 思うに声の大きさや質だけの問題ではない。客との間合いを読んで絶妙なタイミングで声をかけるのがいいようなのだ。これは経験から獲得されるのもなのだろう。

 どんなことにも達人の技がある。それに気づくことは難しく、真似ることはさらに困難だ。しかし、せめてアンテナを張って技を見逃さないようにしたい。

楽しませる

 最近思うのは自分が心から楽しむのには他人を楽しませるにしくはないということだ。歳を重ねると、安易な娯楽では満足できなくなる。大切なのは他人に自分が施した何かがリアクションとして受け取れることだろう。独りよがりではいけないが、一面の事実であることは確かだ。

氷点下の朝

 寒気の南下の影響で今日も冷え込んでいる。朝の最低気温は氷点下になっており、都心部でもマイナス2℃らしい。私の住む郊外はもっと冷えている。昨日は北風が強かったが、今日は弱い。そして晴天である。典型的な放射冷却の冷え込みということになる。

 こういう場合に怖いのは路面の凍結だ。雨が降らない状況なので普通は凍らないはずなのだが、誰かがうっかり水をまいたりしたら大変なことになる。私は氷の上で転んだ経験が何度かあり、そのうちの一回は顎のあたりを打ってすこぶる痛かった。その痛みの記憶はしつこく残っていて、条件反射のように突然湧き上がることがある。寒いのは決して嫌いではないのだが、この転倒の記憶だけはなんとかならないものだろうか。

 今日もいざというときのことを考えて路面を見て歩きたい。絶対にながら歩きはやめたい。

野生動物の異常行動

 最近、野生動物の異常行動が目立つように思う。特に海洋性の動物の異変は顕著だ。大阪のクジラの迷い込み、東京ではトドが現れたり、大量のイルカが見られたりした。こうした行動は何が原因なのだろう。


 天変地異の予兆とする考えはこの種のニュースでは必ず起こる。特に地震の前触れではないかという考え方は一種の噂として拡散されやすい。


 また、気候変動のせいだという説に関してはもっと根源的な問題になる。もしそうであれば長期的に起こりうることであり、今後も注目されるべきだからだ。


 さらに人為的な要因と考える説もある。例えば軍事的なソナーなどの頻繁な使用により、動物の持つ方向感覚が狂っている説である。もしそうであれば、近隣諸国との緊張関係が影響しているということになるし、また公表されていない軍事行動が展開しているという証になる。


 これらはどれも推測であり、確証はない。どれかが当たっているかもしれないしすべてが外れている可能性もある。


 野生動物の異常行動が何を表すのかを考えることは、結局現在の生活を見直すことにつながることは間違いない。

最低気温予想

 今週は文字通りの大寒の節気であり、最高気温が二桁に達しない日が多いという。ピークは明日から明後日のようで、特に水曜日(1月25日)の気温はかなり下がるようだ。最低気温の予想をみると、‐3~0℃の幅で各社が予報を出している。氷点下になることは確実だ。さらにこの日は最高気温も4~6℃の予報であり、この地域としては極寒の日となりそうだ。

 私にとっては寒さはそれほど苦ではないが、乾燥した北風がいろいろなことを狂わせる。おそらく一番の難関はこの乾燥であろう。コロナウイルスが5類相当に格下げされることがほぼ確実なようで、少しずつマスクを外すひとが出ている。しかし、このインフルエンザの季節が終わるまではしばらくは変わることはないだろう。さらにそのあとの花粉症もあるのでいつマスクが外せるのか個人的には分からない。

 今週はマスクは防疫の目的以上に防寒具となりそうだ。

失われた感触

 時代が変わるとなくなるものがある。現代社会は進歩が速いためにそれを人生の中で感じることができる。私でさえそれをいくつも感じることがある。

 視覚的なものは大きく変わり続けている。街の風景は刻々と変わり、少し前のことを思い出せない。もっと前のことを考えてみる。いまは住宅地として有名な場所もかつては雑木林の連続であった。薄暗さのなかに踏み込みにくい雰囲気があった。うっかり足を入れると不可思議な動物に襲われるかもしれないなどと、子どものころは真剣に考えたものである。

 耳で聞く感覚にもなくなったものは多い。駅の改札で聞こえていた改札の際の鋏の音はある世代以下の人は知らない。原宿駅の改札にも駅員たちが並んで鋏を入れていたことは記憶の隅にある。客がいなくても空うちをしていたので、常に鋏の音が響いていた。その後、紙の切符を機会に入れる方式となり、今は非接触型のカードやスマホ、スマートウォッチをかざすだけなので音は出ない。確認の電子音がわずかに響くだけだ。非接触を信じられない人がカードを読み取り機に当てる音が耳を驚かすことはあるが。

 嗅覚も変わった。かつては下水道の普及が足りないところがあり、どんな町にもどぶ川があって悪臭を放っていた。今はめったにない。これはいいことだが、使ったものは適切に処理しなくてはならないと思う気持ちが人任せになっている。ものを大切にしない気持ちがどぶ川よりも社会悪を発生させる可能性がある。

 触感もなくなったものがたくさんある。ダイヤル電話を回すときの指先の緊張感を私は覚えている。回すときは思い切ってやらなくてはならない。躊躇してしまうとうまくストロークが計れないらしく間違い電話になってしまっていた。

 味覚は常に変わり続けているから、逆に変化には気づけない。昔のお菓子はもっと甘かったし、何か体に悪そうな合成的な味がした。そういうものは今は少ない。おそらく、子どもの自分に今のお菓子を食べさせたらおいしさに感動するに違いない。その代わりに砂糖の代用甘味料などが入っているので、人体に将来どのような影響が出るのか分からないともいう。昔と今とどちらがいいのか分からない。

 失われてしまった感覚はいくらでもある。時々それを思い出すことで、いまの生活を客観できるかもしれない。

求められているものは

 自分の努力のわりに評価がされていないということはよくある。逆に意識はしていないのにいいと言われることがある。意図と反応が異なるのはいろいろな場面で見られる。この事実を考えてみよう。

 自分はこれだけ頑張ったから認めてほしいと思っていても、満足した結果にはならないことがある。くたびれもうけのように感じてしまう。その理由は、自分が評価を求める要素が、実はそれほど完成度が高くないか、高くてもほかの人にもできる人が多くてそれらに埋没してしまうか。あるいはそもそも自分のイメージに合わないものであるものかといった様々な要因があるのではないか。さらには認めてほしいというアピールが足りないのかもしれない。自分が思うほど努力の跡を人は見つけてくれない。

 逆に実は他人に高い評価を受けているということもあるかもしれない。残念ながらそれを口にしてくれないから感知できない。たとえば、自分の存在が組織にとっては重要な役割を果たしているということなどである。強面でそこにいてくれると緊張感が保てる。取り立てて活躍はしていないが、その存在がほかのメンバーの心の安定と、人間的なつながりの触媒のような役割を果たすといったこと。物事を迅速にこなすことが他の手本となっていることや、逆にマイペースなのがいいということなどだ。こういった気質や性格に関する評価は表現が難しく、また本人にあたらめて指摘する機会もないため伝わりにくい。

 他人から求められているものは何か、自分の強みは何かということに関しては結局は自分では分からない。コミュニケーションのなかで他人が自分をどう見ているのかを考えていくしかない。言い方をかえれば、自分は何の価値もない人間だと自分だけで決めるのは間違っていることになる。自分自身を過小評価することがないようにしなくてはなるまい。

雨の前の景色

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 遠くの山の景色がくっきりと見えるときは雨の前兆だ。北陸で暮らしていたころの経験である。科学的に証明できるかどうか分からないが、大荒れになる前の山の風景は鮮明で大きく見える。経験的な事実だ。とても美しくもある。おそらく、実測すればほとんど微差なのだろうが、実感的にはかなり大きく見えた。

 東京に帰ってからこのことを感じることはない。山を見ていないからだ。でもおそらく同じ現象はあるはずで、嵐の前には遠景が鮮明に見えるはずだ。ビルにさえぎられて切り取られた風景ばかりを見ているとこういう経験が味わえない。

 今日は久しぶりに雨が降った。未明の霧雨といった感じだが、湿度は久しぶりにあがった。おそらく昨日の風景はいつもとは違ったはずだ。できれば遠い風景を見る余裕は欲しい。

公園の役割

 子どもの声がうるさいからというクレームで公園が廃止されたというニュースがあった。その後の報道をたどるとどうもこれは極端な伝え方であったようで、クレーマーと言われた人の言い分も理解できない所はないし、行政の在り方にも問題があったようだ。そもそも、公園としての使用期限がもともと決まっていたらしい。

 公園が単なる共有地としてあるのなら、それをどのように使用するのかということについて考え直さなくてはならない。子どもの遊び場という意味以上のさまざまな役割がある。国土交通省都市局公園緑地景観課によると、良好な都市環境の保全ため、災害時の避難場所、延焼防止、などの災害対策、市民の活動、憩いの場、賑わい創出や観光拠点として地域活性化の役割などを挙げている。公園といっても数坪の狭いものから広大な敷地があるもの、なにもない場所から歴史的な遺跡等を有するものまでいろいろあるので一概には言えない。公共の場所ということだけが共通する。

 都市の中の公園に限れば、交流もしくは相互扶助という側面を今後活用してくべきだろう。少子高齢化社会のなかで従来の社会システムが機能しなくなりつつある。それを補うのは地縁による助け合いということなる。その拠点の一つが公園だろう。以前公民館のことを考えたことがあったが、それよりも簡単にできるのが公園の利用だ。屋外や簡易テントなどでできる交流のきっかけを地域行政は提供し、それを行う団体を支援するべきではないだろうか。

 公園が魅力的な場所になるならば、冒頭で触れたような厄介な空間という扱いではなくなる。