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一月尽

 今日で一月も終わる。元日の能登半島地震、2日の航空機事故と衝撃的な年明けになった。今年は何かがあることを先触れしていると考えている人は多いだろう。

 私事に限ればさしたる変化は今のところはない。むしろ、自分から変化を求めなくてはならないといつも考えている。いまのルーティンを崩すために何ができるのかを模索し、実現したい。

 とりあえずは労働時間の短縮と隙間時間での学習、もしくは趣味の活動を始めよう。やるべきことをやるだけだ。

健康への配慮は功利的

 スマートフォンについているヘルスケアアプリの測定によると私は毎日10,000歩程度歩いていることになる。立っている時間も比較的多い。といってもきちんとしたスポーツをしているわけではないし、筋肉を使う仕事をしているわけでもない。腑抜けた身体でも少しずつ歩く生活をしているのである。健康に気を付けることも中途半端であり、スリムになりたいと思うよりも膝に負担をかけたくないとか、周りに迷惑をかけたくないといった程度だ。

Photo by Tirachard Kumtanom on Pexels.com

 ただ、最近更新した保険が健康への配慮の度合いを常時報告し、それを割引率として算定するものであるため、この考え方を変えなくてはならなくなっている。毎日の歩数や健康診断の結果などがそのまま割引ポイントに換算されるため、健康活動が金銭に結びつくことになったのである。健康診断の結果は悲惨なものだが、歩く量に関しては今のままの生活を続けていれば問題はない。問題は仕事をやめたり、変わったりしたときにこの生活が維持できるのかということである。

 なるべく歩くことを心がけていこう。歩くだけが目的ではなく、その道中で出会う風景とか人との出会いとかを大切にすれば自然に歩く量は増えるのだろう。もともと10年以上前にこのブログの前進を作ったときには散歩の記録を残すために作ったものだった。そのことを思い出してこのブログにもそういう記事を時々入れていくことにする。

寄り添うこと

 寄り添うという表現は現代の人々には印象強く感じるらしく、随所に見られる。他者の考えや感情、立場を洞察してそこに身を置くことである。ただ、当然ながらその意味には幅がある。

 弱者に寄り添うというときには、強い哀感と同情する気持ちが伴うはずだ。しかし、これには階層性がある。自らと相手との距離が遠く、客観的観念的に寄り添うことができる場合もあれば、自分も似た境遇にあつて、痛切な情念を伴う場合もある。この一線上に正負のグラデーションがあるのだ。寄り添う気持ちの切実さは濃淡がある。

 最近使われる寄り添いの意味は淡色のものが多いように感じる。もちろん、こういう概念を使う時点で他者を意識した感情が表出しているのであり、有意義であると私は感じる。ただ、単に相手の状態を観察するだけの段階を寄り添うと言うのは少し違う気がしてしまう。

 日本でも少しずつ格差拡大が進み、分断化が水面下で進んでいる。他者に寄り添える能力はこれを止める力となるはずだ。この問題を取り上げる機会を増やす必要がある。

禍い転じて

 この一年はよくないことが数多くあった。運気とかそういうものがあるとしたら下降傾向が続いたと言える。辛い思いは持ち前のとぼけで切り抜けてきた。多くの信頼を失ったかもしれないが、それよりも日々を切りぬけることでやっとだったのだ。

 よかったこととして、こうした谷底に耐性がついたことがある。滅多なことでは動揺しない。ずうずうしい粘りを獲得できた。これは大きな収穫だ。

 下がるときがあれば次は上昇だ。来年はその登り竜にあやかりたい。まずは小さな改善と挑戦を積み重ねよう。こういう点に関しては予感はよく当たる。大きな成功は要らない。日々を明るく、人様に迷惑をかけず、僅かでもお役に立てるような一年にしよう。

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区切りを重視する日本文化

 おそらくどの国、民族にも当てはまると思うが、日本文化でも区切りを重視する傾向がある。例えば、季節という概念である。実際は自然はその時々の条件で少しずつ変化し、循環しているというのが事実だろう。ただ、その循環の過程のどこに関心を持つのかは民族の嗜好があらわれる。日本の場合は春夏秋冬という四季に分節した。これはもちろん漢字文化の制約も受けているが、日本の気象にあわせて意味づけされてきたことに注目しなくてはなるまい。

鶴間公園の夜桜 2023年3月撮影
鶴間公園の夜桜

 四季といっても実際には四等分にはならない。例えば、梅雨の季節は果たして春なのか夏なのかを判別するのは困難だ。季節の行合にはどちらともつかない要素がある。それを節気のような概念を持ち込んで無理やり四季を認識する。だから体感とずれていても知識の上での分節を重視する。暦の上では春だが、などという言い方はよくなされるし、古今集巻頭歌のように文学の題材にもなってきた。

 時間の区切りの最たるものは年である。現在の暦で1月1日は冬至を少し過ぎたときであり、取り分けて大きな気候上の変化が少ない。動植物も多くが活動を不活発にしており、体感上の節目は感じにくい。桜が咲いたり、雨が降ったりといった変化が乏しいのだ。だからこれは身体で感じる区切りというより、人工的なものなのだ。

 敢えて区切ろうとするのは知恵のなせるわざに相違ない。とにかくいまの問題は一度過去のものとして現在と切り分けようとするのだから。この叡智に従うべきだろう。あまり冴えなかった一年に去年というラベルを貼り、新しい一年に賭けよう。

最後まで言い切る国語力の重要性

 最後まで言い切らないのは奥ゆかしさであり、日本では美徳とされている。しかし。意図的に言い切らないのと、能力がなくて言い切れないのではまったく様態が異なる。最近は「言い切れない」事例が増えているような気がする。

 細かなニュアンスを避け、大づかみにものをいう場合に「~的」とか「~系」といった表現で済ませてしまうことはよくある。「みたいな」「っぽい」のような口語表現も含めるとかなり多い。さらには例えば「東京に住んでいる人々」を「東京住み」とまとめる表現もよく見られる。これらは会話の中で 使う分には問題ないし、同じような言葉を使う仲間内ならば親近感を高める役割も果たせる。しかし、これをそのまま文章にしてしまうと誤解が生じる可能性がある。口語的表現と書き言葉の差はまだあるのだ。

 書き言葉に会話体的な表現が多用されるようになったのはソーシャルメディアへの書き込みが普通になったことによるのだろう。それらのメディアで展開される言葉遣いは独自の進化を遂げて話し言葉でも書き言葉でもない表現を多数生み出している。ネットスラングともいうべき表現は、これも一種の仲間意識を高める言葉であり、ジャーゴンなどと呼ばれる言葉の一種である。

 四六時中ネットにアクセスしている世代にとってこうしたネット上の言葉は、日常生活とは別の次元における言語表現になっている。話し言葉でありながら文字として入力せざるを得ないという事情が独自の表現をつくり出した。そして時々それが日常生活に降りてきて、リアルな生活の中で使用されているのだ。

 幅の広い、おおざっぱな表現はネットでのチャットに向いている。多くを入力しなくても読者が察してくれる安心感がある。それを繰り返しているうちに明確な表現を工夫することを忘れていっている気がする。さらに生成型AIが文章を書くようになるとますます私たちは物事をきっちりと言葉で考えることをしなくなるのかもしれない。これは大問題であろう。

 物事を言語化して考えないとなると、判断は感情的になりやすい。また、論理的な思考を踏まなければ時々の判断は、その都度刹那的に消えてしまうことにつながる。経験がのちに生かされることもない。だからどんなに野暮だと思われてもしっかりと言い切ることは大切である。そういうことを教えられるのは中等教育の期間だろう。本当は作文やスピーチの指導にもっと時間を割くべきなのだろう。

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元天皇誕生日

 今日は上皇の誕生日である。ご高齢故にお身体にはお労りいただきたい。亡き父とほぼ同年齢でいらっしゃることを思えば、いろいろと思うことがある。いつまでもお健やかでいらっしゃっていただきたい。

 平成時代のこの時期はいろいろあって大変だった。不景気と震災はこの国の凋落を予感させた。いまも状況は変わらないが、我々に耐性ができたことと、イノベーションの期待から最低の気分は脱している。

 うまくいかなかった時間は飛躍のための準備であると信じて腐らずにいたい。私もまた身体的な減退期に入っているが、無責任に夢を語る癖は衰えていない。続けていればなんとかなる。遠くの場合、これは当てはまる。

 上皇陛下にはこの国の復興の様をお見届けいただきたい。

眠くなる薬

 風邪を引いて医者から処方された薬は乱暴な言い方をすれば麻痺を誘うものだった。脳の中枢に働きかけ咳をし過ぎないように促す。少しくらいの喉の腫れにいちいち反応するなというのであろう。

 これには副作用があって、倦怠感や眠気をともなうと薬剤師が説明してくれた。他にも便秘などいくつかの症状が現れることがあるとも言った。そう言われても飲むしかない。いまは風邪を治すことの方が優先されるのだから。

 果たして服用後は極めて眠くなった。仕事なので寝るわけにもいかず何とか起きていると次々に幻覚が起きる。そこにいない人の姿が見えたり、声をかけられたりする。私は夢を覚醒時にあまり覚えていないのだが、これは醒めながら夢を見ている状態と察した。いくら我にかえってもまた繰り返すので、いつもと違う共有空間で仕事の続きをした。副作用とはかくなるものと思い知った。

 服用中は運転や機械の作業をするなという注意は疎かにできないものと再確認した。

不安のなかで立ち現れるのは

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 何かに対する不安感を多くの人が共有したときに大きく時流が変わることがあるらしい。特に危機感を利用して人々の気持ちを扇動する存在が現れたとき危うい展開が起きやすい。世界の歴史をみても、天災や戦争などによる危機的状況の中に一見救いの道を示すように見える言葉を並べ、象徴的な行動を見せることで「信者」を獲得する者が出現する。それはある時は宗教者であり、資本家であり、政治家であり、独裁者であることもある。表す姿は様々でも多くの人々の行動に影響を及ぼすことは変わらない。

 恐怖の中では頼りになる何かが欲しくなるのは当然のことである。その中で誰かの言葉や行いに救われるということは多い。私たちの日常は大体同じことの繰り返しであり、次に何が起こるかある程度の推測ができる。あるいはできると思い込んでいる。ところが、限界状況においてはその予測が全くできない。どこに進むのかわからない船にのっているのと同様に、展開が見えない時間は極度の不安と焦燥が噴出する。そんなときに、私に任せれば大陸に必ず着くという者が出現すれば救われる気になる。それに根拠がなくても盲従してしまう。

 こういう事態はいつかは起こる。そういう時に茫然自失とならないようにすることが肝要だ。かなり難しいのは確かだが、少なくとも過去に起きた同様の事態がどのように起き、どこに落ち着いたのかを知ることには意味がある。その意味で歴史を学ぶことは大切なのだろう。どんなに知識があってもその事態にならなければ結局どうなるかは分からない。それが事実だろう。でも何も知らないより、知っておいた方が救いにはなる。

風邪の崖の上

 これまで周囲の人が風邪などの不調を訴える中で、何事もなく過ごしてきた。しかして、どうも今回は怪しい。初期症状が出つつある。ただし、ここから巻き返した経験は数多い。ある意味大切な節目にある。

 今日はとても暖かった。地域によっては夏日になったらしい。師走半ばにして夏日とは酔狂にもほどがある。そして来週から一気に冷え込むのだという。健康体でも気温差に対応するのは大変だ。やはり、気候変動。起きているらしい。

 このおかしな天気に、狂いまくっている体感センサーをどうしたらいいのだろう。風邪の先触れを追い返すことができたらやらなくてはならないある仕事の山の登頂を敢行する。途中で怠惰の熊に襲われないように祈るばかりだ。

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