今週の天気予報を見ると曇りベースで雨も結構降るようだ。天気アイコンで見る限り梅雨入りしたかのようである。梅雨入りの平均は関東地方では6月上旬であり、まだ早いのかもしれない。
梅雨を嫌がる人もいるが、いわゆる皐月は農業にとつては大切な時期である。適度な降雨と気温が大地の恵みをもたらす。昨今のように米価が高騰して社会問題にもなっている時には、豊作を祈らざるを得ない。
人口減と高齢化は農業にとって不利な条件だ。梅雨になると皐月、五月雨と伝統的な生業に思いが至る。
日々の思いを言葉にして
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若さというものが何であるのかは人によって定義が異なる。もちろん身体的な問題は最もわかりやすい基だ。しかしこれには個人差がある。歳を取るたびに何かを失っていくというものでもないらしい。それでもやはり、統計的に考えれば加齢は様々な限界を低くしていくのは確かだ。
精神面においては年齢のわりには老いない人もいる。何かに向かってあきらめず追求する姿は若さを感じさせるものがある。私が注目するのはその方面の問題だ。つまり、経験を積んでもまだやれることはあるのではないか。知らないことがあってそれを見つけることが必要ではないかと思えることなのだと思う。自分の無知を認め、それを克服しようと努力できることは若さのなせる業であるといえる。
自身のことを述べるとやはり、近年は知ったつもりになってそれ以上を追求しないか、様々な言い訳をして困難に立ち向かわないことが増えていると思う。どうせできない、誰かには敵わないというのが口癖になっていることがある。それは本当に老いたということになるのだろう。
だから、無理にでも思い直すことにしている。「今日はできなかった。しかし、明日からは分からない。できるかもしれない」と。こういう悪あがきをするのも最近の習慣だ。百均で売っていた「やれたことノート」にいいことばかりを書き連ねる都合のよい自己暗示の策を取っている。傍からみれば滑稽でもいい。まだ自分に向上の余地があると信じて疑わない。それが若さというものなのだろう。年齢が少ないときはそんなことは意識する必要がなかったが、最近はなんでも知っているという錯覚を自主的に打ち消さなくてはならない。それが若さを保つ秘訣ということになる。
この時期に私には試練がある。職場の冷房が稼働し始めると必ず調子を崩すのである。大部屋を一括で制御するシステムは、座席によって冷気の吹き出し口に近いことがあるが、今年の席はまさに寒冷地であり、まともにいられない。
共有スペースに移動して仕事をすることにしているが、何かと不便である。仕事をサボっているのではないことを主張しなくてはならない。もっとも最近は仕事量の方が多すぎてそんな余裕が全くない。サボりの非難よりは仕事ができないことへの哀れみの方がまさっている。
暑過ぎても寒過ぎてもうまくいかない。人は危うい狭間で生きている。
最近よく聞く言葉に「世界線」がある。文脈上は別世界の意味があるパラレルワールドのようなものがあることを想定し、もし今いる世界とは別の世界に生きていたとしたらという考え方らしい。実際には起こり得ないが仮に想定してみるという思考法である。

性質は全く異なるが伝統的な他界観である来世と少し似た発想だ。来世が時間的には縦に繋がるのに対し、パラレルワールドは横にある。その違いはあるのだが、現世との繋がりの中で異世界の存在を想定するのは同じことだ。
世界線を移動することができない以上、異世界の存在はなんらかの救いとなるわけではないように思える。今味わっている苦難は別世界では大きな恩恵になっているのかもしれない。でもその別世界には移動できない。
世界線という考え方を一種のメタ認知と考えることもできる。現状を見渡し、敢えてそれに捉われずに自由に発想する。そこから得られる慰めと現実の受け入れ、そして場合によっては現状打破の端緒の発見がこの考えの魅力だ。そうならば別の世界線を夢想することには意味があることになる。
日々の暮らしに追われているうちに初心を忘れてしまうのは世の常なのかもしれない。私の場合、研究者になろうという考えがあったわけではなかったのだが、好きな学問を続けられるならばと思ってその道に入り、周囲の人々の影響で研究職もどきに就いた。それが、途中でダメになって今の職に移ったのだが、せめて文学の楽しさを若い世代に伝えたいという思いで始めたはずだ。それがどうも今は数字で測れる成績の向上ばかりを気にして初心を忘れつつある。
残り僅かになった教員生活を進学実績を向上させることに貢献することで終わることはそれなりに意味がある。でも、もう一人の自分が言う。それでいいのかと。そのために教員になったのかと。
私は二つの目的を同時にかなえることに挑まなくてはならない。数字で測れる成績向上と、測れない教養というものの伝授を同時に達成することだ。教養の方は私自身が十分にあるのではないから、教えるのは学ぶことの楽しさであり、特に文学を学ぶことの意味についてである。単に試験科目としての国語で高い偏差値を取るのだけが目的なのではない。自分とは異なる誰かの考え方を学ぶことの意味を知ること、それは一つのベクトル上に並ぶのではなく、人それぞれの考え方があり、それぞれに意味があるのだということ。そのうえで自分が生きるための選択はせねばならず、先人の意見に学び、模倣しながらも、最終的には自分なりの生き方を創造しなくてはならないということを伝えなくてはならないのだ。
日々の生活に追われ、自分の力の衰退に気を取られ嘆いているうちに、本当にやりたかったことを忘れつつある。まだ本当の衰微に到達する前にやるべきことをやっておかねばならない。そのためには若者がやるような無鉄砲な挑戦をこの歳でも試みる必要があるのだ。自分がここまでの人生を歩んできた最初の目的は何だったのか、再考するときになっている。
最近感じるのは脳も体力が必要ということだ。とても矛盾した言い方だが、私たちは体と頭を知らないうちに別のものとして扱う傾向にある。首から下の人間と揶揄する人たちは、本当の知識人ではない。脳もまた体の一部である。それどころか最も身体性の強い機関であるのだ。
だから、体力がないと能力(脳力)も落ちる。これは最近私が日々痛感することだ。認知症という身体現象以前に、考えることそれ自体が体力のたまものであることをある程度歳を重ねると痛感することになる。
私が若い世代に言いたいことは勉強はもちろん大切だが、身体も鍛えなくては脳の力を発揮できないということだ。その意味で現代人は大丈夫なのか少々心配なのである。今はいいが将来体力が衰えたとき、できなくなるのは階段を上ることだけではない。考えることそれ自体が衰退すると人生のすべての質が下がってしまうのである。
スポーツ選手が引退を意識するのは視力の衰えによるものという意見がある。視力の老化はトレーニングでは防ぎにくく、経験による補完が効かなくなるとトップレベルでは戦えないのだという。アスリートの限界は視力にあるが、一般人は脳の力の維持によるものが大きい。それを維持するためにも若いころの身体的な鍛錬が必要だ。そして日々の活動でも身体に関心を持って適度な運動を続けることだろう。唯脳論者ではないが、やはり人生の質を守るためには脳の保全が欠かせない。そのためにももっと身体を鍛えておけ、と後進には伝えたい。
擬似食品としては高い市民権を得ているカニかまは安くて美味しい庶民の味方である。主原料はスケソウダラなどの白身魚でそれにカニのエキスで味付けしている。
調べてみると海外でもかなり消費されているらしく、フランスはサンドイッチなどの具材として普通に使われているそうだ。アメリカ発の巻き鮨、カリフォルニアロールにも欠かせない。中国やタイなどのアジア諸国でも使用されている。
そういえばソイミートなどもその類であり、目的はさまざまだが代替食品は今後増えていきそうだ。気になるのは加工食品が抱える安全性への懸念である。これを克服できれば、食糧問題の解決の助けにはなりそうだ。
日本にはがんもどきや湯葉などの精進料理の伝統がある。多くは昔、中国から輸入された製法が元になっていると言われる。それが日本でアレンジされるとさまざまな可能性が生まれる。魚肉すら使わないカニかまもあるというから驚きだ。
「思ってもない」という表現はその後に期待していなかった幸運が続くのが普通だ。ただ、これを不幸の形容に使う例にせつした。誤用といえばそれまでだが、そのくらい想定外のことが起きているということだろう。
ルーティンに入るとかえって楽だと感じることがある。連休明けで元の時間が戻ると相変わらず忙しく息つく暇もないという感じだが、その方が楽だと感じる自分がいる。よいことか分からないがやるべきことが決まっているということはある意味楽である。
ただ、やりがいを感じられない仕事を続けると徒労感しか生まれない。やり切れたことの達成感はあるが、それ以上を得るのは難しい。私はかつて自分でやるべきことを決めて、成果を後で問われるという仕事をしていた。その頃の感触が残っているので、今のような毎日やるべきことが与えられ、成果がその都度評価されるという(世の中では当たり前の)やり方に馴染めなかった。
それも長年繰り返すうちに徐々になれてきてしまった。いちいち次に何をやるかを悩まなくていいのは気楽なのだ。たとえ毎日の業務が多忙であっても。
そこでまた迷いが始まる。これでいいのだろうか、進む道を人任せにして、明日を迷う作業を忘れても構わないのか。私の心の中では大きな「否」の声が聞こえる。ただ、ならばどうするという問いに関して、私の一部が黙り込んでしまうのだ。
ルーティンワークの気楽さを抜け出して困惑と試行錯誤の道に入ることを勇気を持たなくてはならない。そういう「から」決意をこれからも繰り返すことになりそうだ。
本体価格が100円のものが並ぶ量販店、いわゆる「100均」でこのところ顕著な変化が起きている。かつてはそのほとんどがMade in Chinaだったのだが、少しずつそれ以外のものが増えつつあるのだ。もちろん「日本製」も増えている。
人件費の問題でどうしても中国製品は安価になる傾向が長く続いた。だから、安価なものとなると中国製ということになっていたのがこれまでだ。かつては粗悪品が多く、価格をとるか品質をとるかで、割り切りが求められた。最近は中国製品の質も向上し、かつてのような粗悪品は少しずつ姿を消している。というよりより良い品質の中国製品が、劣悪な中国製品に打ち勝っているということだ。日本製品はその意味では眼中にないという扱いを受けてきた。
日本人の賃金は国際的には異例と言えるほど、上がらずむしろ逓減傾向にあるという。ものに対してカネをつぎ込むことができない国民は、質より安さを選ぶようになってきた。その結果、人件費が安く、技術の吸収力も優れている中国に市場を奪われ続けてきた。いま身につけている衣料のほとんどが中国製であり、家電やそのほかの製品の中に中国製は圧倒的に多い。中国依存が問題視されるとベトナムやインドネシア、バングラディシュなどの新たな生産国が増えてきた。
そのなかにあって、特に最近「日本製」も少しずつ増えているように感じる。国内生産したものを国内で消費して経済を回すことはある意味理想的ではある。ただ、日本製の経済的勝利とはどうも言えないようだ。他国のコストも少しずつ上がり、対して日本円の価値は相対的に下がってしまったので、安価に生産できるようになったということである。その差が少なくなると、最近の日本人が妄信する日本製は優れているというバイアスが働き、海外製品より売れるようになる。つまり、貿易上の事情により、日本製を復活せざるを得ない現状にあるといえるのではないか。
100均の日本製品であることの表記はかつては「国産」か小さな文字で「Made in Japan」であったが、最近は目立つ配色で「日本製」とある。日本製品であるというブランド力を利用しようとする戦略であることは明らかだ。書くいう私も「日本製」を選びがちなのだが、生産者への対価として正当なものが支払われているのか少々気になっている。