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桜開花

 東京でもいわゆるソメイヨシノの開花宣言が出たという。東京の場合は靖国神社境内の標準木とされている桜が5、6輪咲くと開花したということにしているらしい。これよりも早く咲く木もあり、遅いものもある。ソメイヨシノがどのようなところにあるのかによっても、周囲の環境によっても開花時期は異なるはずであるから、開花宣言はあくまで目安に過ぎない。

 それでも定点観測的な考えに立てば、去年より5日早いという。満開になるのは25日くらいだという。子どものころ桜の満開といえば4月に入ってからだった記憶している。調べてみると例えば1980年(昭和55年)の満開日は4月6日であった。入学式のころに満開だったのだ。森山直太朗の「さくら」は2003年の発表だが、この年の東京の満開日は4月1日であったと記録されている。その歌詞が別れを歌うものであり、卒業ソングの部類にあたるものだ。この歌が流行ったころは桜が卒業と関連付けられることに少々違和感があった。しかし、今となっては学校によっては卒業式に間に合ってしまいそうだ。そして、入学式には満開を過ぎてかなり散り始めていることになる。

 桜が日本人に愛されるようになったのには様々な要因がある。時代とともにさまざまな意味付けがなされてきた。いまは平和の象徴として桜を見ることができたいいと思う。

線路際の土筆

 線路際の小さな空間にたくさんの土筆が芽を出しているのを見つけた。かつてなら当たり前の風景だったが、アスファルトに覆われた地域に暮らしていると特別な光景のように思える。

 土筆はそれを見たり摘んだりした様々な過去を思い出させるきっかけにもなる。子供のころの思い出、人生の節目の行事に向かう途中で見た風景、困難の最中に救われた風景の映像、それらが湧き上がるように思い出されるのである。その意味ではタイムマシーンのスイッチのような植物である。

 土筆は杉菜の雌花のようなものであり、雑草にあたるものだが、土筆の愛らしさがその価値を保証している。その理由を説明しようとすると結構難しい。

手前の地面に土筆があるのが分かりますか?

 様々な思い出とともに、これからの困難な時代を乗り切るためのエネルギーをこの雑草は与えてくれるのである。

花咲く春

 昨年の晩秋に植えていた球根がこのところ急に芽を出している。しかも毎日成長しているのが分かる。気温が上がり、雨も降ったので植物にとっては次段階へのキューが出たのだろう。花が咲くまでは楽しみな日々が続く。

 植物だけではなく、いろいろと仕込んできたことが形になるのがこれからの季節だろう。私にとっては日々の生活の中で少しずつ続けてきたことが評価されるのを待つ日々だ。このブログも随分続けている。そろそろ次の段階のための仕組みを始めよう。もっともきれいな花は咲かないが、私にとって少しだけ気が晴れる一瞬をもたらしてくれるはずだ。

 本当はただ連続しているだけの時間なのかもしれない。そこに春を設定することで私たちは随分救われるということは間違いない。

花粉症対策

 花粉症の対策薬を数日前から服用し始めている。私の場合はフェキソフェナジンの薬が合っているようで、副作用が少ない。かつてはこの時期は難行苦行の感があったが、いまはそれに比べればはるかに楽だ。子どもの頃は不治の病のように言われ、絶望的な気分になったこともあった。

 花粉の飛散の少ない杉への植替えが少しずつ行われているらしい。ただ、林業の分野も後継者不足と、木材の価格が逓減しつつある中で、手間のかかる植替えは進まないと聞く。恐らく私の人生の中では解決されないだろう。

 杉が日本の文化に果たしてきた役割は大きい。杉は日本の固有種といわれ、さまざまなな民俗の中で取り上げられてきた。そういう大切な樹であるからこそ、花粉症の問題は何とか乗り越えなくてはならない。

紅葉見頃

 先日、紅葉もしくは黄葉を見てきた。近隣の公園であるがそれなりの見応えがあった。いわゆる名所の紅葉は確かに綺麗なものだが、純粋に季節の移ろいを味わいたいのなら、混雑のない近隣の公園や雑木林を見るのがよい。その意味では東京はこれでも植生が残っている都市である。

センター南のライトアップされた黄葉

 個人的にはユリノキの黄葉と落葉はダイナミックでよい。大きな葉が舞い落ちる様は見応えがある。葉の形も変わっていて、落下時には風に舞いやすい。ほとんどが黄色になる黄葉だが、稀にアントシアニンが生成されるらしく、赤みを帯びたものもある。

 紅葉を楽しむのは心やりとしてはいい。ただ、公園などでは落葉してからの処理に多くの労力が使われているはずだ。管理している方には感謝するしかない。

ハナミズキの紅葉

 ハナミズキの紅葉が見頃になっている。もつとも、今年は紅葉の色が濃い樹木とそうでないものとの格差がある。日当たりのいいところの樹木は燃えるような赤が印象的だが、日陰がちの場所の木は褐色の方が目立つ。街路樹の場合、方位や周囲の建物によって、日照の状態が変わり、それがハナミズキに反映されているらしい。

 ハナミズキはアメリカからもたらされた植物である。ソメイヨシノと交換されたらしい。だが、今となっては日本の風景を彩る大切な樹木である。花の方に注目が集まるが、真っ赤になる紅葉の時期にも見どころがある。街路樹としてもよく使われるが、あまりの赤さに立ち止まる人も多いようだ。

 私にとっては通勤の道筋にあるささやかな楽しみなのだ。

色づき

 11月になって紅葉が進んできている。近隣の街路樹などのそれをみる限りではどうも色づきがよくない。感覚的なことなので正確かどうか分からないが、赤みより褐色の度合いが強いように感じた。

 紅葉の原因とされるアントシアニンという物質は秋になって葉の中で生成される。赤い色味を表現する色素である。生物学的には葉の老化の過程で太陽光から受けるダメージを軽減する働きをしているらしい。この色素の生成には光合成と寒暖差が必要とされるが、今年の場合、9月と10月の日較差が例年より小さかったために十分にアントシアニンが生成できていないのではないかというのである。

 これだけではないが今年の紅葉は色づきが足りないというのは概ね理屈は成り立つようだ。いわゆる異常気象は人体にも相当な影響を及ぼしていると考えられるが、不動のように見える樹木にもかなりの打撃であるらしい。

 それでも場所によっては綺麗な紅葉を楽しめる。余裕があれば出かけていって観賞したい。ただ、街路樹の必死な営みにもあわれを感じてみたいのである。

シロナ

富山に住んでいたころ、自炊するときによく使った野菜にシロナがある。白菜と書くと別の野菜になるが、実は近種ともいう。巻かないのがシロナであると説明する説もあるが真偽は分からない。ただとてもあっさりした味わいと、煮込むと味が染みやすいのは共通している。

とても安価で申し訳ないほどだった。これを醤油とバターで炒めると結構な美味であった。かさが少なくなるので思いきり使うことがコツだ。魚の煮物に添えたり、新鮮なときはサラダにもした。

ほうれん草は法菜と書かれていた。こちらの方がしっかりとした味があり、おいしく感じたのは言うまでもない。それでもときにシロナを食べたくなるのだが、近隣では売っていないようだ。

イヌサフランもしくはコルチカム

 イヌサフランという名前を持つ秋ごろに咲く花をかつて植えた頃がある。コルチカムというらしい。サフランに似ているがよりバリエーションがあり、秋から初冬の花壇を彩るのによい。

 かつて住んでいたところがこのコルチカムの産地で、近くの園芸店やホームセンターで袋詰めで売られていた。水耕栽培ができるほど生命力が強く、ほとんど何もしなくても開花するのは怠け者にはありがたい。

 ところがこのコルチカムには毒性があり、決して口にしてはならないものらしい。ギョウジャニンニクの芽とよく似た形なので事故例もあるという。花はけっこう綺麗なものだが、それ以上の欲を出してはならないということだ。

 イヌサフランという和名のイヌとはまがいものとか、役に立たないといった意味がある。タデに対するイヌタデのようなものだ。サフランは確かに綺麗だし、雌蕊は天然の食物染料である。ただ、サフランもまた食用になるのはそこだけらしく、他には毒性がある。本家とイヌとの差は人間の恣意的な区別に過ぎない。

 いま植えられる球根は何かを調べていたらサフランの類があると知った。馬鹿げた猛暑が去ったあと、心を慰撫してくれる鉢植えを考えている。今仕込めるのはなんだろうか。

ダチュラ

 近隣に印象的な花を庭に植えていた人がいた。調べてみたらダチュラというのだそうだ。チョウセンアサガオともいう。この異名はかなり興味深く、チョウセンといっても朝鮮とは無関係で、アサガオとは異なるナス科の植物である。植物には罪はない。迷惑な名前をつけられたものだ。

 ダチュラはインドが原産と考えられ、高い気温に適応している。日本には江戸時代に薬草としてもたらされたようだ。次第に観賞用となり、品種改良もなされるようになった。庭に植える人もいるわけだ。

 もともと生命力が強い花らしく、先にあげた近隣の庭にはすでにこの花がないが、道路脇のわずかなアスファルトの裂け目にこぼれ咲きしている。迫力ある花なので誰も雑草扱いしないのだろう。

 ところがこの植物には毒性があり、摂取量によっては死に至る。根がゴボウに似ているとか、ナスの接木として利用するとかがよくないようだ。美しいものには毒がある。

 花が初めは上に向いているのに、次第に下垂するのも面白い。大きすぎる花に進化したのはなぜなのだろう。いろいろ考えさせられる。