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参院選その後

 参院選は予想通り与党の敗北に終わった。自民党が両院において少数与党になるのは初めてらしく、新たな歴史の幕開きとなりそうだ。

 新しい考え方が実現するのは大いに歓迎だが、野党側の党利主義がどこまで実行されるのかが懸念される。必要なのは国民の福祉であり、党の利益ではない。少数党の乱立は利点も欠点もある。欠点が強調されると政治的な衰退を齎す。戦国時代なら亡国の予兆だ。

 現在の日本は今すぐその事態には至らない。ただ、油断すれば何も決まらず何もできない国になり得ない。政党の構成は変わってもしたたかに生き抜く日本風だけは維持してほしいと祈るのである。

終末を意識する力

あまり芳しい話ではないが、ものごとには終わりがあるという意識が持てることは大事だと思う。有限の生を生きているという実感は意外にも持つことが難しい。今日の次に明日があり、その次もまた同じという単純な方程式を想起してしまいがちだ。

実際には今日の次に明日がある保証はない。何らかの事情で自分の生命が終わるかもしれないし、自分だけ生きていても自分を包摂する社会でいかに生き残るかは別の問題になる。まさに世界は移り変わるものであり、この変化を止めることは誰にもできない。

 終末を意識できることはメタ認知の才能のあることを示すものであり、評価すべきものなのだ。それがいつのまにか妄想なり、老害なり、不確実な言葉で非難するものがでてきたのには残念と言わざるを得ない。この時点で未来を見通す可能性を否定してしまっては何も起きない。

 自分は終わりかもしれないけれど、きっと後継者が何とかしてくれる。そういう時間認識と楽天的な他者観の末に私はいる。そのことをいつも忘れてはならない。

新しいものの考え方が生まれれば

 これからの時代はいわゆる自己責任の競争世界ではうまくいかないのかもしれない。漠然とそう考えている。個々人が切磋琢磨して自由競争を生き残るというやり方はこれまでの資本主義社会の理想であった。でも、ここまでグローバリズムが進み、高度情報社会になってしまうと、少しのことでは競争の勝者にはなれない。町で一番の人が、県で一番になる確率も低いが、それが国家レベルになり、世界レベルになると勝てるのはごく少数であり、大量の敗者ができてしまう。

 それでは皆で一定の幸福感を得るためにはどうすればいいのか。まずは才能ある人の挑戦を促進し、その足を引っ張らないことだ。成功者は自分が成功した背景に自分の才能だけがあるのではなく、社会的な様々な要因が手助けになっていることを自覚できるようにするべきなのだろう。成功したものはその利益の一部を地域、世界に還元することが当たり前のように考えられるようにすべきだ。

 こういう理想論を述べると実現不可能という批判が当然出てくる。自分ができないことができる人がいれば妬ましく思うのが人情だし、成功者はそれが自分だけの力と過信して富を独占しようとする。こういうこれまでの人間の心理をどのように克服するのか。それが教育の力なのかもしれない。また個人の力が、集団の力に寄与し、それが新たな世界を切り開くという史観も何らかの形で共有しなければならないのだろう。

 教育の力と述べたが、それは学校だけで行われるのではない。日常の会話の中でもそういう精神を口にする人が増えれば社会が変わる。文学が発生源になるか、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人の中から出てくるのか分からない。それがうまくいったときに人間の歴史は次の段階に進むのだろう。個々人の利益を奪い合う今日の現状が続けば、いずれは破滅につながるのかもしれない。

過去を取り戻すのではなく

 政治家の話を聞いていると、かつては良かった日本が今は衰退している。だから、過去の輝きを取り戻すといった内容のメッセージが多い。過去の栄光と、今の体たらくを認めた上での論調だ。

 私のような世代にはこれはある程度説得力がある。世界第二の経済大国とか、Japan as No. 1という言い回しに慣れた世代にとっては、現在の停滞とこれから予想される縮小再生産が許し難く、それでも認めざるを得ない事実は辛い事実だ。だから、過去を取り戻すという主張には惹かれてしまう。

 でもよく考えれば過去を取り戻すという考えは現実的ではない。あの頃のような人口増加はないし、劣悪な労働環境に耐える心性もない。豊かな状態を知ってしまった人に、レベルダウンは耐えられない。できなければ効率化を目指すべきだということになり、それができないのは個々人の才能によるという自己責任論になる。

 発展段階にある国家、組織は個々人が幸福の追求に貪欲で、多少の自己犠牲を厭わない傾向にある。当然競争や軋轢もある。それを避けているうちはブレークスルーは生まれにくい。

 だから過去を取り戻すのではなく、新たな挑戦の時代に局面を移すというのが、指導者の言うべきものなのだろう。これには多数の敗者が発生する。過去の歴史では一度敗れると浮かび上がるのは大変だった。もし可能であれば、敗者復活のシステムを確立すべきなのだろう。

 リーダーがこのことを言うのは難しい。挑戦しなさい。うまくいけば社会的成功があります。ただ、失敗することもあります。その可能性の方が多いのですが、それでも再挑戦するのです。いつか成功するまで続けるのです。そんなことを真面目に言えるリーダーが出ればまだこの国は何とかなるのかもしれない。そもそもこんなことを言うリーダーに支持が集まるとは思えないが。

 学歴社会に生きてきた私にとって、過去の栄光は絶対的な財産であり、獲得すれば上に行き、しそこなえば浮上は不可能という思い込みがある。ただ、若い世代は違うだろう。過去の栄光がない代わりに危機感がある。そこに上昇志向が加わればいい。

 年配者は後生に余計なことを言わず、個人の可能性を信じ引き出すことに意識を向けるべきだ。それが私たちのできる1つ目、そして、もう一つ、自分もまた挑戦する立場を捨てないことなのだろう。

努力の概念

 芸術やスポーツに長けている人は影で大変な努力をしているという。ただ、少し複雑なことに本人には努力している自覚がさほど強くない。練習することを含めて楽しめてしまっているのだ。

 楽しいと思うことをやることは効率がよい。嫌なことを無理矢理やる1時間と、本当に好きなことをやる1分では単に時間の長さで優劣を測れないのだ。

 人に学ばせることを目的にするのならば、このことを考えるべきなのだ。いかに学ぶことが楽しいと思わせるかが教員の要諦とでもいうべきものなのだ。何を楽しいと思うかは人それぞれであるが、好きになるきっかけは与えるべきだ。それを実現できるのが本当の教育の目的であろう。

いいお知らせと悪いお知らせ

 読書感想文の宿題が出てうんざりしている皆さんにいいお知らせがある。みんなの苦労をもしかしたら数分で肩代わりしてくれる便利なものがある。ChatGPTというサービスを使おう。例えば「私は中学2年です。『坊っちゃん』の読書感想文を800字くらいで書いて」と入力すればすぐさま、それらしい文章が画面に現れる。それを写せばいい。文章自体は自然なので先生も気づかないかもしれない。

 悪いお知らせもある。こうやって作った文章は内容が間違っていることがある。いもしない人物が出てきたり、ストーリーが違ったりするかもしれない。君の先生がきちんと文章を点検するまじめな先生ならば、そして先生も小説を読んだことがあるならば、その矛盾に気づき、君の悪だくみを見破ることになる。きっとものすごく怒られることになる。

 もっと悪いお知らせもある。宿題を出せたとしてもあなた自身の文章力は一向に上がらない。文章が書けない人は読解も苦手だろう。結果としてあなたは文章が苦手な人になり、文章が上手な人たちに将来丸めこまれることになるだろう。色々な不利な条件を巧みに突きつけられるがあなたはそれに気づかない。そんなことは許さないと叫んでも遅い。彼らは言うだろう。説明はしましたよ。文書でもお渡ししました。あなたのサインもあります。お読みいただきましたか。あなたは心のなかでこういうことになる。読んでもさっぱり分からなかったんだと。

 便利なものができると失うものもある。車ができて人々は歩く力を失った。交通事故で命さえ奪われている。作文を書く機械はあなたから大切な未来を奪うかもしれない。

自動運転車

 現在の日本が必要としているのは自動運転車であることに間違いはない。高齢者の引き起こす悲惨な事故は運動機能の低下がもたらしている。運転は無理になる年齢が来てしまうのは残念ながら不可避である。

 ならば車に自動運転してもらうしかない。その技術はすでに実用化されつつある。日本は規制が厳密なので公道での自動運転は実現化しにくい。しかし、そうは言っていられなくなっている。各国が自動運転車両の開発に力を入れており、このままでは日本の技術が遅れをとり、外国が規定したモノサシに従わざるを得なくなる。

 自動運転車が山村を走るようになったとき、地方の風景は少し変わるかもしれない。運転者はいないがとても安全なバスが街まで連れて行ってくれる。買い物も病院も思うがままだとなれば、どうして都会に住む必要があるだろうか?

 やはり日本が求めているのは自動運転車だということになる。

今日は真夏日

 予報によると東京の最高気温は31℃の予報が出ている。いわゆる真夏日になるかもしれない。

 子どもの頃、真夏日というと非常事態のような気がしていた。記録によると過去30年間の真夏日の年間平均日数は2.5日だという。ところが昨年は14日もあった。真夏日といえば7月末か8月と思っていたら、去年は6月に36.2℃を記録している。そういえばと思うが、あまりに暑い日が続くとかえって記憶が曖昧になる。

 ここ十数年が気温が高い傾向にあることは間違いない。気候変動が人為的要因によるものなのかは知識がつくほど分からなくなるが一つの仮説がある限り対策はすべきなのだろう。

 科学的な証明はわからないがとにかく異常に暑い日が連続するという事実は事実だ。これに何とか対応しなくてはならない。私の人生は後半の後半にさしかかったが、後生の皆さんのために少しでも役立ちたいとは思っている。

19位

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 持続可能な開発目標(SDGs)の達成度を示す指数のランキングが発表され、日本は19位だった。昨年から1位下げており、徐々に落ちていく傾向にある。これをどのように考えたらよいのだろう。

 日本より上位の国はすべてヨーロッパの国である。欧州以外の国を拾ってみると26位にニュージーランド、27位に大韓民国、28位にチリ、29位にカナダであり、再び欧州の国が並ぶ。どうもこれはヨーロッパ各国に有利な指数のようだ。欧州を除けば日本は最もランキングが高いということになる。

 しかし、そもそもSDGsの考え方自体に問題があるようにも感じる。一つ一つの理想は高邁なものだが、結果的に「開発」を第一に考えるものであることには変わりない。現在起きている気候変動などの深刻な問題を「開発」で切り抜けることができるのかは大いに議論の余地がある。結局、何もしないことが最もサスティナブルではないかという皮肉な意見もよく聞く。

 太陽光や風力などのエネルギー開発に関してはかえって環境破壊につながるという批判が多い。今の技術ではその瞬間にはカーボンニュートラルを達成していても、製造過程や廃棄過程で今より深刻な環境問題を引き起こす可能性が高いというのだ。森林を伐採して太陽光発電システムを置いている例を見たことがあるが、これなどはサスティナブルとは思えない。

 ランキングで一喜一憂するのは読み物としては面白いが、本質を考えておかないと間違いを犯す。19位はどのような意味なのかをもう少し考えてみたい。

顔パス

 とある外食業界で支払い時の顔認証システム導入の報道があった。今のところ希望者が企業の認証システムに自分の顔を登録し、商品の支払いに顔認証を選択するとクレジットカードやバーコード提示をしなくても決済まで可能ということだ。未来社会構想に近づいた感がある。

 顔がマイナンバーなどと結びつけられ、それが金融機関に提供されるようになると、方方で顔認証決済がなされるかもしれない。顔パス時代になる。レジ係はいらなくなるか、客を気分よくしてくれるウルトラ会計担当しか残らなくなる。あとは梱包を手早く美しく安全にやるサッカーが必要だ。それも機械に乗っ取られる可能性がある。

 顔バスが実現するためには個人情報保護が問題だ。しかし、この流れではプライバシーの問題は後まわしになる気がする。