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日本の器

 日本文化を独自性だけで語ることは難しい。私たちの文化は有史以前から、複数の異質の要素を受容し、それを融合する形で発展してきた。その意味ではオリジナルはほとんどないが、融合したものは唯一無二なので、すべてがオリジナルともいえる。

 ハイブリッドはこの国の特長であり、それがこの国を成り立たせていた。今日本は均一化、閉鎖性の弊害に見舞われている。自己満足が国としての活力を奪い、得るべき収穫を逃している。謙虚になる時期である。

 ネット上にはナショナリズムが溢れている。自信を持つのはいいが限度を越えれば害にしかならない。我以外皆我師の考えに立ち返るべきだ。一見、消極的に見えるが実はこれが最も強いあり方なのだ。

 日本の器に何を盛り、どういう料理を作るのか。その考え方を忘れない限り安泰であろう。

七五三

 子どもが着物を来て寺社参りをする七五三の行事は、江戸時代の武家の行事が広まったものという。11月15日をその日とするのも、由来があるとする説が普及している。恐らくこれは後づけであり、旧来の行事を分かりやすく整理し、呉服販売の促進のために関係業者が宣伝のために広めたというのが事実なのではないか。

 髪置き、袴着、紐解きといった子どもの成長過程に応じた年齢通過儀礼は、今より子どもの死亡例が高かった時代においては、祝福というより祈願の方が上位にあったはずだ。その意味が忘れられても、子どもの成長を祝うことは、本人よりも保護者たちの覚悟を確認するための機能を果たしている。

 先週末、神社に男の子を連れて行く家族に出会った。両親に祖父母が着物を着た男の子を囲んでいる。早速、どこかを汚したことを怒られていた。彼はこの先多くの保護者たち、さらには別の先輩たちの世話をすることになる。頑張ってほしい。

時代劇の効用

 いわゆる江戸物の時代劇がほぼ全滅していることは残念だ。中学生に大岡越前や遠山金四郎について尋ねたところ、ほぼ全員が知らなかった。昭和世代にしてみれば大岡捌きや金さんの双肌脱ぎの場面は当たり前だが、今の世代にはそれが通用しない。

 時代劇の価値観は決して理想的ではない。むしろ現代社会では否定されるべき要素も多い。でも、過去のモラルを比較対照の方法にするべきものとすることはできた。生活の中の古典というレベルにおいて。

 それがいまは大衆の多数派の考えに翻弄され、ようやく出てきた独自意見は個人の感想と纏められる。明らかにおかしな現実に対処できずにいる。

 時代劇の非現実性はそうした行き詰まりを打開する方法にはなっていた。正確ではないが、今の私たちの在り方もまた正解とは限らないことを明かしてくれていた。そういう役割を果たしていた時代劇が消滅していることはかなり不幸な事態ではないのか。

スポーツ界に学ぶこと

 最近日本チームや日本人選手の海外での活躍が多い。大谷翔平選手のホームラン王はその象徴的な例だが、ほかにもトップレベルで活躍する選手がたくさんいる。少し前のことを思い出すと、日本人は体格的に不利だとか、スタイルが悪いからだめだとか、様々な自虐的な自己卑下があったことを思い出す。それらはしょせん思い込みであったことになる。

 現在成功している分野では競技人口を増やしたり、将来を見据えた設備投資をしたりしたものが多い。幼少のころから少数のエリートを選抜して育成するというスタイルは日本ではとりにくい。裾野を広げることで可能性のある選手の現れるのを待つというのがこの国の在り方とみる。

 スポーツ以外でもこの方法はとらなくてはならないのではないか。科学者を育成するならば多くの科学好きを生み出すことが必要で、その中から図抜けた人材が出てくる。文学もそうだ。多くの人が創作体験をすることで達人が生まれる。かつての俳句がそうであったように、文芸のレベルを庶民にまで広げることは大事なことだ。そしてそれがこの国の底力であった。

 それなのに昨今は効率や生産性のことばかりいい、無駄な努力を嫌う傾向にある。本当に自分が好きなものを探させ、熱中させることこそ、この国のあるいは地域の未来を築くことにつながるはずなのだ。スポーツのように単純ではないが、でも世界を変えるためには決してエリート教育だけが必要なわけではない。

支えとなるもの

 何かに行き詰ったときに特定の神にすがるということを日本人はしない。一神教ではないからだ。それでは人間を超越した存在を信じていないのかといえばそれは違う。日本人は結構いろいろなものに神性を見出す。多神教かつ自然崇拝の日本型の信仰形態は世界的には珍しいのかもしれない。

 このような風土を培ってきた背景には過酷な自然条件がある。四季のはっきりした気候は恵みを多くもたらすが、反面災害も多く発生する。さらに地震や津波被害、火山活動など他の地域には少ない条件も加わり、常に崩壊の危機を感じて生きることに慣れている。現代のわれわれも東南海トラフ崩壊型の大地震の非常に高い確率を知っても冷静に日常生活を営んでいる。

 そういう風土に住むものとしては支えとなるものは一柱の神だけでは足りないのかもしれない。神もまた人間と同様に相互に関係を持ち合う多神教こそが複雑な現実の説明には適している。このような精神風土になったのは意味があったのだ。学生の頃にこのような内容の書籍をいくつか読んでそうかもしれないと思ったが、最近は実感として覚えるようになっている。

伝統文化

 伝統文化の多くは後継者不足に悩んでいる。高齢化も大きな要因だが、それ以上に文化継承の方法に問題があることが多い。

 どんなに価値あると評されるものでも、現在の私たちに何らかの価値を感じさせるものでなければ人生を傾けることはできない。それは実用性とか生産性などとは無縁でもいいが、他者を感動させられるか否かは大きな分かれ目になる。

 伝統文化を継承する人を育成するためにはこの感動経験が欠かせない。だから文化を守ることではなく、よく見せることの方が結果的に目標を達成することになる。そのためにも、多くの伝統文化に接する機会を儲けることが大切だ。

地産地消の再構築を

 福島第一原発の処理水の海洋放出をめぐって中国が日本の水産物の全面禁輸に乗り出したことがニュースになっている。日本側としては放出した処理水の放射性物質が極めて希薄なものであり、健康への懸念がないということを繰り返し説明するしかあるまい。こうした高度な科学的知見に関しては一般人にとってはブラックボックスになっている。海外の人にはもちろんだが、まず日本人に事実説明を行うべきだろう。

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 中国の対日環境については政府の意向が大きくかかわっている。おそらく核汚染が世界的な大問題であるということを繰り返し報じているに違いない。為政者がそのようなことをするのは国内の政策が行き詰っているとき、国民の関心を他にそらすための常套手段である。一般人としては言われたことを信じるほかはない。科学的な情報に関するリテラシーがなければいわれるがままである。それは程度の差こそあれ日本も変わらない。中国の場合はとにかく格差が激しいため、世界的な科学者もいれば何も知らない庶民も多い。それが日本の何倍もいる。情報統制がどれほどなされているのかは分からないが、とにかく説明を試みるほかあるまい。

海産物の中国への輸出が消滅することは大きな痛手になるが、実は日本にとっては大きなチャンスでもある。この際、日本国内で消費できる販路を確立し地産地消を実現しておく必要がある。日本人がまず海産物を消費できるようにすれば、世界的にも食の安全を保障できるし、何よりも食料や肥料などの生産サイクルを堅固なものにできるのである。今回の国際問題はその契機として活用するべきだろう。

今日は旧暦の七夕

 今日は旧暦の七夕である。歴史上、旧暦で七夕の儀礼が行われてきたほうがはるかに長い。今朝は雨だが、夜に牽牛と織女の星は見られるだろうか。

 七夕というと今では新暦の7月7日に行われるか、月遅れの8月7日のどちらかである。7月7日では梅雨の只中であるので、分かりやすいひと月遅れの8月7日の行事が生まれのだろう。しかし、実際の太陽太陰暦は年によって対応関係が変化し、今年の場合は8月下旬になった。

 七夕の星と言われるヴェガとアルタイルを含む夏の大三角形は今のほうが遥かに見やすい。東京ではよほど条件が揃わないと難しいが、天の川もこれらの星を頼りにして見つけることができる。

 七夕は他の節句と同じように元は中国の行事に遠因を持つ。それを日本の宮廷が行事化したものがさらに民間行事へと変化したものと考えられる。日本の場合は古事記や万葉集などに見られる棚機津女(たなばたつめ)との関係もあるとする説もある。もとは神を迎える巫女が関与する行事だった可能性もあるというのだ。さらに、禊の要素も含まれ、天の川を禊の川と考える地域もあるようだ。笹の葉を飾り、時期が終わればそれを捨てるという行いももともとはこれに由来するという。どの行事にもいえることだが、歴史ともに意味や位置づけが重層化していくのだ。

 短冊に願いを書く習慣は江戸時代から始まったと言われ、本来、詩歌や裁縫といった芸能や技能の上達を祈るものであったようだ。最近は学業の向上だけではなく、恋愛成就や平和祈願、果ては推しに会えますようになど牽牛織女の専門外の願い事まで書かれる。このスターフェスティバルとなった七夕はこれからも変化していくのだろう。今日はその本来の日であることを記しておく。

道具を大切に扱うことの意味

 海外でプレーしたスポーツ選手が驚くのは、日本のように道具を大切にする国は少ないということだそうだ。日本では道具を大切に扱うことを幼い頃から教えられる。それは道具の値段が高かった時代の習慣が残ったのものともいうがそれだけではなかろう。どうも私たちは道具に特別の意味を見出そうとする伝統を持っているようだ。

 すべてのものに霊性が宿るという多神教の考え方には、日本人の考え方の基底となるものがある。道具を大切な扱うのはその道具にも霊性を感じているからというのは言い過ぎだが、少なくとも自分の大切な道具は単なる物質ではない。そこに何かを感じるからこそ、愛着も湧き感謝の心も起きる。針供養をする文化は細部に亘って様々な価値観を創出している。

 現代でも私たちはロボットに名前をつけ大切にする。そこに人間的要素を見つけようとする。道具に霊性を見出そうとする行動様式は現代も継続している。

 最近、ファミレスなどで動き回っている配膳ロボットの中には猫のような言葉を使うものがある。自動運転式移動ワゴンに動物的な要素を付け加えたのだ。このロボットには一見無駄かと思われる機能がある。機械の一番上のあたりを撫でると喜んだり、怒ったりするというものだ。配膳作業には無関係だが、ロボットに親しみを感じさせる役割を果たしている。霊性を感じさせるための余計なしかし大切な機能だ。

 私たちが道具を大切に扱うことをごく自然に行えるのはこうした民俗が影響している。大量生産大量消費を前提とした西洋文化に批判がなされ、持続可能性が強調されている今、この考え方は見直されてしかるべきだ。

群集心理

 人命に関わる大事故は絶対に避けなくてはならない。コロナ開けで様々なイベントが再開する中で、中断期間にリスク回避の方法がどれだけ継承されているか、人件費削除のために警備に割く人員を減らしていないか懸念される。最近の日本人の心理として人件費削減のためのサービス低下は仕方がないと諦める傾向があるが、これは譲れないものである。

花火の季節

 各地で花火大会が復活し、かなりの人を集めているという。そこで問題になるのは群集心理による事件や事故が発生しないかということだ。2001年の明石市の事故は花火大会の報道とともにいつも想起される。群衆事故として世界的にはソウルの梨泰院のハロウィンでの大惨事が思い出される。その他エンターテーメントや、スポーツイベントなどで数多くの事故が起きてきた。

 参加する側のモラルも低下していないか。世界のスポーツイベントで清掃をして帰る選手と観客に称賛が送られるのは誇りになろうが、ゴミを勝手に捨てていく近隣の人々のいる現実との齟齬が大きすぎる。恐らく私たちには二面性がある。注目されているときには礼儀正しいが、自分と無関係の人々が周囲にいると認識したとき傍若無人になる。かつて中根千枝が指摘したほどであるかはわからないが、我々は余所者に対しては無礼になりがちだ。その意味で日本人は民度が高いとかモラル意識の高い国民と評する人がいるときに疑問を感じるのだ。

 花火大会ではまずは自分だけいい場所を取ろうなどと考えないことだ。そして花火は空中に飛び散る火薬の燃焼の集合体だけでできているのではなく、それを見る人達の感動とか幸福感と複合してできているということを思い出すべきだ。その場にいる人が不愉快になるようならばそれは花火ではないということだ。その場を共有しているという思いが持てれば焦ることはない。事故も起きにくい。モラル違反も起きないだろう。

 群衆事故の悲劇は犠牲者もその周りにいる人にも大抵の場合は悪意はなかったということだ。ただ、後から考えればちょっとした配慮が欠けていたということになる。これから人が集まる行事が増えてくるが、これだけは考えなくてはなるまい。人間の脳はある程度の人数を超えてからは行動の方法が分からないようだ。対応できないという事実を知っていれば、少しは悲劇は防げる。