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進路の複線化

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 日本の学校制度は様々な選択肢を用意してあるが、実際には大学を卒業したホワイトカラーが他を圧倒するという社会の在り方を維持するように設計されている。いわゆる「学力」で振り分けられた「エリート」が多くの利を得るというやり方だ。

 もちろんそういう方面のエリートは必要であろう。情報処理に長け、高度な判断力を持つ人材は必要だ。特にマクロ視点やメタ認知ができる人材はこれからますます必要になる。大学はもっと真剣に勉強をするところになるべきだし、そこを卒業できたものにはそれなりの報酬を用意するべきだろう。でも、それだけでいいのだろうか。

 人間の尺度は今の様な学力試験だけではないはずだ。人の価値はもっと多様に評価されるべきだということは多くの人が感じていることだろう。例えば職人といわれている人々はそれなりの評価を得るべき存在である。さまざまな技術を支えている人々にも評価すべき人がいる。そういう人が一般大学卒である必要はないし、大学を卒業することが社会的ステータスの基準になること自体が間違いなのではないか。

 もし、今までとは異なるタイプのエリートを尊重する方法を考えるならば、場合によっては職業高校の評価をもっと上げる必要があるのかもしれない。あるいは学校とは別組織の教育機関に社会的な評価を与えることが必要だろう。技術者や芸術家といった人材は大衆教育にはなじまないかもしれない。しかし、彼らの地位を上げることでそれを志す人は増え、結果的に技能の底上げができる。結果として社会全体の利益になる。

 このようなことは昔から言われている。私の独創ではない。しかし、これだけ情報化社会になり、グローバル化がすすんでも一向に人間の評価の多様化が起こらないのはなぜだろう。もしかしたら、こういうことからイノベーションは起こるのではないか。

見せ方

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 スタジオジブリの作品の世界観をテーマパークにしたジブリパークが開園したという。日本のディズニーランドとなるのか短命で終わるのかはこの後の見せ方によっている。

 愛知県長久手市の愛・地球博の会場跡地の公園に作られたジブリパークは一部の施設だけが開業した。ジブリ作品の世界を再現した施設が中心で、乗り物などの設備はないようだ。ジブリ作品を見たことがある人であれば、作品世界の中に入り込んだような錯覚を得られるならば、行く価値はある。ただ、それだけであると繰り返し訪れることはないかもしれない。

 この中にはオリジナル作品を見せるコーナーもあるという。ここだけでしか見られない短編作品だ。これが定期的に変更されるのならばリピーターを生み出す可能性はある。媒体販売やネット配信などもしない。行かなくては見られないものが必要だ。新作を作り続けることが無理ならば、過去の作品のメイキングや再編集でもいいだろう。いわゆるディレクターズカットならば意味がある。

 さらに単にかわいいキャラの並ぶ場所だけならば、やがて飽きられるかもしれない。ジブリ作品には隠されたメッセージがあるものが多い。それを分かりやすい形で示すものもいいだろう。ディズニーランドにあるスモールワールドの展示は世界平和の意味を分かりやすく示している。こうしたものはむしろジブリ作品の方が豊富だ。これをわざとらしくではなく作品世界を傷つけない範囲で示すことも忘れてはならないだろう。テーマパークは単なるモチーフ展示ではない。

 日本のテーマパークのほとんどがうまくいっていない。それにはいろいろな要因があるが、コンテンツ的には申し分ないジブリパークは成功する可能性は多分にある。世界から人を呼べる場所になる可能性もある。ただ、これまでのような単なるキャラを並べる展示とどこにでもある乗り物しかないのなら短命になるかもしれない。要は見せ方による。うまくいけばスポンサーもつく。私は一度見てみたい気がしている。

文化

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 日本では文化の日という祝日がある。そしてそれは今日だ。文化となにかを考える一日ということになっている。

 11月3日は明治天皇の誕生日としての天長節、崩御後は明治節であった。1946年のこの日に日本国憲法が公布され、憲法の精神に文化の尊重があることから1948年から文化の日となった。5月3日の憲法記念日は1947年5月3日に施行されたことによるものという。ならばこの文化とは憲法と関連する由来を持つものであることになる。

 憲法第25条には、
(1)すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(2)国は、すべて の生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 とあって、文化的なという言葉がある。この条文は生存権と分類されるものであり、最低限度、つまりここまでは死守しなければならないという枠組みに文化が使われていることになる。

 換言すればただ生きているだけではなく、衣食住が足りている身体的安全が確保され、なおかつ精神的な豊かさもなければならないというのだろう。ここでいう文化は芸術、レジャーという範囲だけを指すものではなさそうだ。もと切羽詰まった問題も含む。例えば個人の生きる価値を見い出せるかとか、多様性を認められるかといったことも含まれそうである。生存権の規定は第2項の社会保障の問題と深く関連しており、しばしば訴訟の根拠とされている。

 文化という言葉の持つ幅広さはいろいろな解釈を生み出す。もともとの漢語の語義としては教養に近い概念である。それが西洋の概念である精神向上のような側面を融合したことで複雑になった。今使われている文化とは一定の社会集団のなかで共有されている知識や行動様式、生活様式などのことを指している。地域文化のように場所で、また若者文化のように世代で共有する場合もある。江戸文化というときは時代に関わる。様々なくくりがあってそれらが複合することもある。

 共有されていることすら気づかないことも文化と称されることもある。食文化などは同じ集団の中ではほとんど気づかれないが、旅をするとそれが文化であることが表面化する。その他の要素もほかの集団にであって意識される。カルチャーショックという言葉がそのとき使われる。

 生存に欠かせない文化とは何か。これらを組み合わせると、ただ生きているというだけではなく、自分の属する集団の中で当たり前だと思われることができることになる。自分とは異なるやり方をしている人たちがいることも知り、それを寛容する。それらが果たされなくては生存していることにならないということなのだろう。

軍艦

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 子どものころ軍艦のプラモデルを組み立てるのが好きだった。ウォーターラインズという喫水線以上の部分でできているモデルで旧日本海軍の戦艦や巡洋艦、駆逐艦をいくつも作った。いまではなぜそんなことに小遣いを費やしたのかと思うこともある。

 昭和の代表的なアニメの宇宙戦艦ヤマトも、その前の特撮ものに出てくるさまざまな「艦隊」も子供の時はあこがれの的であった。絵にかいたりプラモデルがあれば作り、高くて買えないものは紙や木でまがい物を作った。それが最終的に誰かを殺すための兵器であるという事実を格好よさは簡単に跳躍した。

 幸いにも私が生まれてから軍事的な戦争はなく、軍艦の出撃することもない。ウクライナ戦争でロシアの巡洋艦モスクワが戦没したというニュースを聞いてからまだ軍艦というものが実際に機能しているということを再確認するほどである。

 軍艦は人間の負の部分の塊のような気がしてならない。何のために巨大な殺人兵器を作らなくてはならないのか。それが人間の限界を見事に具現化してしまっている気がするからだ。戦わなくては自分を維持できないという残念な現実からそんなに簡単に解脱できることはないと思い知らされるのだ。

 横須賀や横浜で自衛艦や護衛艦をみると昔のように素直に興奮できない。もちろんその艦船に乗って最前線で国の安全のために命を懸けている自衛官や海上保安官の皆さんには心から感謝を申し上げたい。その心身にかかる圧力に耐えて責務を果たしていることに敬意を表したい。

 それはそれとしてやはり兵器を積んだ巨大な武器から私たちが解放されていないということに悲しさを感じてしまう。正直に言うと今でも護衛艦はかっこよく感じるが、その中にはかなりの哀調が含まれる。

芸能の海外展開

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 日本の芸能界は国内では有名でも海外では通用しないということが多い。これは日本国内で十分な市場があり、満足できる成果が出ていたからに相違ない。それはそれで幸せなことだと思う。しかし、今後のことを考えれば海外展開を考えるべきではないか。

 いわゆるシティポップと呼ばれる日本の歌謡曲が海外で評価されているらしい。日本の音楽は海外の様々な要素が取り込まれており、その上に日本テイストが盛られているため独自の楽曲になっているという。それが海外では目新しく感じられ、評価される原因となっている。さらにアニメに関連する音楽やファッションなどはユニークな日本文化と認識されている。ならば、これらを海外でパフォーマンスするアーティストがもっと出てもいいのではないだろうか。

 韓国は芸能界が一定の成功を収めている。国家の補助も奏功しているかもしれないが、背景には国内だけでは十分な利益を上げられないというという制約がある。だから、海外で売る。グループに必ず、英語や日本語、中国語ができるメンバーを入れる。初めから海外展開を前提とした活動をしているのだ。この考え方は日本には今まではなかった。外国語ができる芸能人は特別扱いされ、できすぎると親近感がない存在になることさえあった。実は中国語ができても、フランス語が話せてもそれを武器として活動するという者は少なく、そうしたスキルは隠し持つものであった。日本には十分なファンの数がおり、利益を上げるのにリスクをとって海外展開する必要はなかったのだ。

 これからはわが国も海外に展開せざるをえない。人口減や経済の低成長による購買力の減退は、生活必需品以外の製品は手に入れようとしないことにもつながる。そんな中でアーティストが生き残る策としてユニークさを維持しながらグローバル展開をすることにある。少数ながらそういうアーティストが現れつつある。彼らのことをもっと知るべきだろう。

もてなししたくても

Welcome to Japan. Your choice is good.
But, just moment, please.

 外国人受け入れに舵を切り、なおかつ歴史的な円安にあって、観光業は活気づくはずなのだが、どうも簡単には行かないようだ。もてなししたくてもできない事情がある。

 コロナ騒ぎの中にあって国内の観光業はかなり疲弊してしまった。人員削減や店舗の閉鎖などを行い延命しているのが現状だ。そこに外国人が戻ってきてももはやそれを受け入れる受け皿がないのだ。

 観光客の本格的に戻ってくる前に少しずつ営業をもとに戻していく必要がある。これはうまくやったほうが利益が上がるから競争になるのかもしれない。観光業の弱点を知ってしまった労働者をどれだけ呼び戻せるのか。あらたな商機はないのかを探るべきだろう。

 もてなししたくてもできないという状況を打破して、できることから始めるべきだ。この際、新規参入者も出てくるのではないか。

カワイイ効果

Cute

 現代日本の価値観に可愛さというものがある。これは世界に通用する一種の美意識とも言えるかもしれない。

 無骨な機械を作ってきた職人たちもなぜか完成した機械に名前をつける。それも可愛らしい人の名前だ。名付けすることで高性能なマシンが親しみやすいものになる。こんなことを繰り返してきた。

 デザインにも可愛らしさを強調する。暖かい原色の多い配色や、大きな目をつけるといったことはいろいろな製品に見られるものだ。これは趣味という領域を超えた文化のようなものかもしれない。皆さんの身近にもカワイイ品物はきっとあるはずだ。

 可愛さは幼児性を伴うのでやめたほうがいいという考えもある。しかし、可愛いデザインが狙っているのは実は別にあるのは明らかだ。これは使いやすさを高めるための機能的目的で施されている。高性能なマシンでも使いにくければ意味がない。まずは心理的な親和性が大事なのである。この戦略は利用しない道はあるまい。

 可愛らしさの基準は人によって異なる。だから、誰もがアニメのキャラのようにする必要はない。どこかに取っつきやすい柔らかなデザインを施すのが、日本のものづくりの重要な方策ではないか。

立場逆転

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 外国人の入国制限が緩和されて再び海外からの観光客が増えることになる。日本を訪れる人はきっと驚くだろう。物価が安いと。思わず衝動買いに走る人もいるかもしれない。いや、買い物をする目的で日本に来る人も増えるはずだ。

 アメリカなどで起きているインフレは生活に深刻な影響を及ぼしているという。さらにドルの価値が上がり、円がやすくなる傾向は継続中である。海外に旅行する余裕がある人は日本に来れば金持ちになったかのような錯覚を持つことができる。いろいろなものが安い。品質もそう悪くはないはずだ。6.86ドル(約1000円)でおなか一杯になりますよ。大衆食堂ならばだが。

 食料、衣料だけではなく不動産を物色する外国人も増えているという。つまり、なにもかもが割安感があり、外国人の所有欲を刺激するのだ。これはかつて日本人が海外で様々なものを買収したことの裏返しではないか。残念ながら今は買う側には回りにくい。買われるばかりだ。いまはそういう局面にあるのかもしれないが、いつまでもこの状態は続けられない。

 次なる手を考えよう。若い同胞たち。

近江鉄道無料の1日

近江鉄道

 10月16日、琵琶湖東岸を走る近江鉄道が1日運賃を無料にすると発表して話題になっている。他聞に漏れず赤字経営の地方鉄道である。まさに出血覚悟のサービスであるが、目的は乗車体験者を一人でも増やすことにあるらしい。

 地方で生活をするとすぐにわかるが、鉄道はあるとありがたいがめったに乗らない。車があるので駅までわざわざ行くのは面倒であり、一時間に数本しかない便を待つことができないのだ。乗らないから経営は苦しくなり、さらに便数が減る。悪循環である。独自経営ができずに第三セクターとなって命脈をようやく保っている路線が大半だ。

 1日無料とは大胆だが、損して得取れの商人の心意気が感じられる。とにかく、鉄道の存在の知名度を上げ、乗車経験から客に戻ってきてほしいということなのだろう。継続的な効果があるか否かはなかなか実証的できないが、やる意味はある。

 鉄道やバスは路線を新設するのは非常にたくさんの手続きがいる。失ってしまうと取り戻すのはかなり難しい。維持するのにも莫大な資金がいる。あまり効率的な商売ではないのかもしれない。ただ、地域の利便性を確保することは計り知れない利益がある。交通会社のみに任せず、受益者が様々な形で支援ができる方法を考えなくてはならない。銚子鉄道のように鉄道業務以外で収益を狙う方法もある。大都市圏ではなく、しかも観光資源に乏しい地域の鉄道は苦しい。しかし、廃線になると多大なる不利益が出るという鉄道はいくつもある。


 それぞれの鉄道がどのように生き残るのかを考えることはこれからの日本の在り方を考えるうえで非常に参考になる。また、我々は部外者ではなくあくまでステークホルダーとして参加すべきなのだ。

国内生産

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 身の回りにある衣料、電化製品などの多くは中国や東南アジアなどの工場で生産されていることは周知のとおりだ。かつては1ドルが75円くらいまで上がったために国内で製造しても採算が取れないというので海外に生産拠点を移したからだ。

 結果的にこの方法は国内のサプライチェーンを弱体化した。さらに様々な技術が海外に流出し、いまでは日本製以上の性能の製品が作られているものも多い。利益重視で動いてきた各企業と、それを監督できなかった政府や関係機関の失敗である。

 コロナウイルス流行で貿易不可能もしくは制限がされる状況となり、ウクライナの戦争で原料確保が難しい状況が生まれ、さらには歴史的な円安が進行する中で、改めて国内生産の意味が問い直されている。日本で作っても利益が上げられるかもしれないと考える企業が増えたようだ。

 エネルギー資源がない我が国にとって、円安の影響は大きい。単に日本で作ればよいということにはならない。ただ、生産拠点を日本に戻せばそれに関係する雇用は生まれる。農業資源なども国産に切り替える方法で新しい可能性が生まれるかもしれない。環境汚染などの問題にも直面することになるが、昭和のような惨状は再現されないはずだ。ものづくりの在り方が変わるかもしれない。

 おそらく、大量生産大量消費の方法ではなく、高品質長期使用、修理による継続使用のビジネスモデルが日本には向いている。ある程度、国内で循環させていけば為替相場のよくないときはそれで対応できるのではないか。さらに、かつての日本がそうであったように独自の進化がなされていけばかえって世界的に評価されるものもできるかもしれない。