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自分事として読む

 いわゆる読解力というのは書かれていることを自分の問題として捉えられる力ではないか。単に字面を追っても意味は分からない。さらにもう少し文法的な理解ができていたとしても、結局他人ごととして捉えている限り、書かれていることの意味はつかめないということだ。

 国語が苦手という人にするアドバイスの一つに、読んだことを自分の言葉で誰かに話してみてほしいということがある。これは実はかなり難しい。筆者が書いたこと自体は複雑で多岐にわたるメッセージであり、その論述にたどり着くまでの幾多の苦難を乗り越えた結晶なのだから無理もない。ただ、難しいことをそのまま丸呑みしようとしても、結局理解できなことにはならない。

 そこで完全は無理として自分はこのように読み取ったということを自分なりの表現でまとめ直すことを進めている。私の授業ではノートのページの半分をあえて開けさせて、授業内容を聞いたあとにそれを自分の言葉に直す欄として指定している。これを繰り返すことで理解は深まる。注意しなくてはならないのは教師なり、講演者の言葉そのものを羅列したり、矢印などを使って図式として書くのではなく、あくまで文章にすることだ。できれば誰かほかの人に読んでもらい意味が通じているか確認してもらうとなおいい。

 この作業をするためには読みを自分事として行う必要がある。他者の文章なり話を自分のことばの文脈に置き換えて新たに表現し直さなくてはならないのであるから。単なるコピーアンドペーストでパッチワークのような文章を書くのとは違う。読解力を高める方法としてはこれが手っ取り早い方法だ。全く同じことが、社会人向けのノートの取り方という種類のベストセラーにはたいてい書かれている。ノートは写すものではなく、自分の考えを定着させるために文章をまとめ直すものである。

生徒は手書き、教員は…

 先日も書いたが生徒の国語力を上げるには究極的には手書きの文章作成をいかにさせるか。そして、それを継続的に実施し、指導するための評価を行うかにあると考える。デジタル機器の教育への導入で間違っているのは、特に国語教育においては「書く」ことを疎かにしたことにあると考える。

 私たちの身の回りにはもはやスマホやキーボードがなければ文章が書けないという人が少なからずいる。紙に書くという行為が億劫だからという理由以前に、考えたことを順序だてて文字にしていくことが難しくなっているのだ。デジタルであればテンプレートがあるし、語彙レベルでは予測変換もする。また人工知能を使えば文章すら組み立ててくれる。マイクロソフトは「下書き」を手伝うという設定にしているらしいが、実際にはほぼ完成形の文書とみてそのまま使う人も増えているのではないか。そうなるとますます文章が書けなくなっていく。

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 ならばどうしてもデジタル入力をせざるを得なくなる大学生になる前に、初等中等教育では徹底的に手書き文章を作成する訓練を積むべきである。これが冒頭に述べたことである。インターネットで資料を検索したり、図表を作成したりすることは機械任せにしなければならないこともあるだろう。しかし、文書作成能力に関しては譲ってはならない人間の能力である。

 そこで問題になるのが、教員側のこの教育に対する対応である。生徒から大量に提出される紙の答案にいちいちコメントを書き入れ、改善点を指摘していくのにはかなりの労力が要る。例えばそれを学期に一度やるとか、月一度は実施するといった程度でも負担感は大きい。そこで外注するという方法が出てくる。でもこれでは返却までに時間がかかることや、家庭にさらなる出費を要求することになり問題点が大きい。

 解決案として考えているのは教員側の方はデジタル化で対応するということだ。答案をスキャンし、その上にデジタルで書き込む。コメントはある程度使いまわしも許容し、観点を決めて評価する。そして、それ以外は見ないことにする。例えば、今回は主述の一致をみると決めたら、それ以外の内容的な面は多少目をつぶって採点する。逆に、表現面の工夫については問わずに着眼点だけを採点するといったようにメリハリをつけるというやり方だ。もちろん表現と内容は相関するので結局両方を評価することになるだろう。

 また例えば400字以上の作文の添削を継続的に行うのは無理だとすれば、200字以下の文章を書かせる課題を続けることも手である。目的は文章で答えることを習慣化させることなのだから、添削の正確さは実は二の次なのである。大切なのは練習を続ければ文章作成がうまくなっていくことを実感させることで、単なる点数化ではない。

 生徒にはあくまで手書きで書かせ、教員はデジタルの利便性を使う。この方法を実現するためにはスキャナーや、タッチペンで入力できるシステムなどが必要だが、生徒の国語力向上を考えればやるべき投資ではないだろうか。生徒が端末を持っているならば、教員の添削結果をデジタルで返却するのでもいい。できれば紙に出力した方がいいが。

 ちなみに私も手書きの文章能力の衰えを実感するものとして、ブログを書く前にノートに書きたいことを殴り書きすることがある。この記事もその末に書いたものだが、原型とは全く違う内容になっている。でも、自分の脳と手だけで書くことを先行することには意味があると確信する。

日本語の文章の可能性

 日本語の文法構造上、文末の形が固定化しやすい。です、ますを使えばほとんどが「す」音で終わるし、過去が絡むと「た」音が並ぶことになる。それを単調と考えるのか、押韻のような美しさと考えるのかは感性の違いだ。

 私自身は何も考えていないつもりだったが、これまで書いてきた文章を見ると、文末の音の繰り返しを避けている。繰り返しがいけないわけではない。ただ、変化をつけると文が書きやすい気がするのだ。ほとんど気のせいである。

 日本語の文章は音韻的な単純さと引き換えに、表現方法、表記方法などが他言語と比較して可能性が高い。複雑なニュアンスも表しやすいのではないか。文章を書きながら、その可能性をもっと活用してもいいと考えている。

結論後出し: 日本の伝統と現代の需要を考える

 具体的な話から始めて最後に結論を述べるという方法は現在ではあまり推奨されていない。まず、主張したいことを述べ、それについて論証していくという方法が良いとされているからだ。欧米の文章の多くがそのようなスタイルで書かれているので、その影響を受けた近代以降の日本の知識人の悪文章は概ねそれに習っている。私のブログの文章もその形を取るものが多い。

 古典作品を読むと大抵は具体的な話や例え話が前置きなしに始まる。何の話なのか明かされないまま話が展開して、最後にだからこういうことはやってはいけない、やらなくてはならないといった教訓が加わる。結論や主張があとに出てくるのが日本の古典作品の特徴と言えるのかもしれない。論理の展開の型を知っているだけで文章の理解力が上がる。

 それでは、結論後出しは時代遅れの良くないものだろうか。確かに情報が横溢する現代において、メッセージは迅速に把握する方がいいのだろう。長い具体例を目標なく読んだあとでようやく主張があるという文章を読むのには忍耐力と寛大さ、そしてもちろん読解力が必要だ。だから、結論先出しの文体が推奨されるのには意味がある。しかし、じっくりと話し自体を味わいたいときもある。また、筆者の持ち出す結論を批判的に読むには先に答えを明かされないほうがいいこともあるかもしれない。

 最後まで読んでようやく筆者が言いたかったことが分かるというのは、迂遠のようだが、あるいは冷静に深く読解するためには必要な手順なのかもしれない。読者の積極的な読解が求められる方法であるので、この方法を取るにはさまざまな制約があることだけは忘れてはならないが。

手書き原稿

 とある文学館で脚本家の草稿を見ることがあった。また、箱書きと呼ばれるストーリーを作るための原稿を見た。手書きから感じ取れるものは数多くあった。

 ものを考えるとき、やはり思考の跡を具現化するのには、紙と筆記用具とが適している。コンピューターで書くのはいろいろ楽だが、創作的な作業においてはやはり手書きの段階があった方がよさそうだ。

 デジタルにもアイデアを系統化して表示できるアプリはいくつもあって、使いこなせれば便利だが、気軽さや曖昧さに対応できるのは手書きがよい。しかも紙面に記すことでいつでも取り出せるものとなる。整理できていればだが。

 原稿用紙に文字を書くことが少なくなった現代人は、そのためにクリエイティブでなくなっている、というのは極論だが、そういう面もあるかもしれない。

道具として

 実は結構AIを使っている。AIに乗っ取られるなというのは私の持論だが、そう言いながら結構使っている。

 生成型AIは簡単な指示で文章を書いてくれるのでそれを使ってアイデアを練ることがある。しかし、それをコピーはしないというの゙が私の最後の抵抗だ。WordPressにはAIが自分の書いた文章を批評してくれる機能がある。なぜか英語のコメントだが、それなりに参考になる。具体例を挙げよ。反証の要素が足りない。結論が曖昧だ。ごもっともである。身近な批評家はいてくれて助かる。

 あくまでAIは道具として使おうと決めている。最終的には不格好でも時間をかけても自分で仕上げる。それがこだわりだ。そんな啖呵を切るから、私のブログは誤字脱字、論理矛盾だらけでアクセスも伸びない。でもそれでいいのだ。ここは譲れない。

作文力

 どんなに拙くても自分の言葉で意見を書く練習は必要だ。AIの時代だからこそ作文力がものをいう。

 じっくりと自分の意見を温めて整理してから文章にするという経験が生活から失われてきている。予め用意された型を組み合わせ、それなりの文書を作ることはできても、型のない新たな局面における文章はなかなか書けない。

 ChatGPTの生成する見た目はいいが内容がおかしい文章を冷笑する前に、己の文章力を反省しなくてはならない。コンピューターのように潔く変な文書を書く方がやはり遥かに勝っていると言わざるを得ない。

 私は人に作文を教える立場にあるが、まずは自身の文章を見直さなくてはなるまい。このブログは20分あまりの通勤電車のつり革に捉まりながら書いているので、熟慮がなされていない。これでは真の文章力は上達しないのだろう。

 どうしたら文章の作成力を向上に貢献できるか。それが私の課題の一つである。

ナンバリングとラベリング

 レポートの書き方の手法にナンバリングとラベリングというものがある。外来語で書くとことごとしいが、要するに番号づけと要点を先に述べるということだ。これはかなり前から作文教育で使われてきた。またディベートなどの口頭発表においても定番の技術だ。

 わかりやすく伝えるための誰でもできる方法で、特に作文が苦手な人におすすめしたいやり方なのだが、教えても定着しなかった。ところがその状況が変わりつつある。

 現在、この手法を活用しているのはAIによる文章生成プログラムだ。質問に対して答えの要素を内容ごとに箇条書きしてくる。さらにそれぞれの文章のはじめにトピックセンテンスが置かれ、読者にとって理解しやすい。すべてが同じ型なので味わいはないが、答えを知るという目的には叶っている。

 作文が苦手な人にはこのコンピューターが生成した文章を示すと、ナンバリングやラベリングのよさを実感してもらえるだろう。

 実はこうした文章には欠点もある。ナンバリングする際のまとめ方が思ったより整然とはいかない。同じことを何度も述べてしまったり、別の要素にしたほうがよいものを無理に結びつけたりする。この矛盾が分かりやすくなるのだ。AIの作る文章でもしばしば見られる。

 作文の指導にAIを使い、良い手本にも悪い手本にもなってもらう。これならばいいのではないか。

GPTを超えろ

 教育現場においてChatGPTをどのように扱うのかは大きな問題になっている。現時点でもかなり自然な文章作成ができるレベルにあり、本人作なのか生成された文章なのかを見分けることは難しい。

 恐らく始めは使用禁止という指導で済むのかもしれないが、その縛りは長くは続くまい。見破るための方法も開発されるだろうが、文章作成能力を育成するのならばそういうことをやっても埒が明かない。むしろ積極的に活用せよという局面はすぐに来るだろう。

 その場合、大切なのは何が理想的な文章であるのかを見抜く評価力だろう。コンピューターが書いたのだから正しいに違いないなどと考えていると大きな間違いに陥る。次の文章教育は何が理想的な文章なのかを判断する能力の育成ということになるだろう。

 そのためには手本となる文章を徹底的に読み込むことが必要になる。これは機械ではできない。まだ国語教師がやることはたくさんある。

ネット記事の基本型

 文章読解力の低下が懸念されています。PISAの試験は子どもに対して行われましたが大人も例外ではありません。低下した読みの力に対応するかのようにネットにあがる記事も劣化しているように感じます。

 コラム風の文章には明らかに基本型ともいうべきものがあります。まずセンセーショナルなタイトルは字数制限で途中で切れてもいいように肝心なことは後半に書きます。切れたところに何があるのか関心を惹きます。

 文章の前半は具体例です。多くの場合、筆者が目にした事例やデータを点描するもので、よく読めばいくらでも反例が上がりそうな緩い事例紹介です。これがいくつもあがり、文章の大半を占めることもあります。

 結末の少し前に識者の意見などが紹介されます。インタビューの体裁で済ませてしまうこともあります。そして「いかがだったでしょうか」などで括り、読者に注意を促すといったものです。

 こうした基本形に沿った記事はあまり集中して読まないネット読者を意識して書かれているのでしょう。型はあるので一見文章として成立しているかのように思えます。気になるのは多くの場合、内実が少なく、最後まで読んでも印象に残るものが少ないのです。結局何が言いたいのだろうとか、それならもう少し短く述べられるのではないかといいた感想を持ってしまうのです。

 ソーシャルメディアの短い文しか読まないから読解力が落ちるという人がいますが、字数制限がない文章の世界にも読解力不足の影響が出てきているような気がするのです。文章表現力と読解力は表裏のものですので、書き手側の問題も考えていいのではないでしょうか。