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古典のコラージュ

 『万葉集』のような和歌集の場合、一首ずつが独立して作品世界を持っている。もちろん、それがどのようにできたのか、どのように読まれてきたかのかを知る必要がある。これが伝統的な古典の研究だろう。これは揺るがない。ただ、それぞれの歌の持つ世界観をうまく組み合わせて新しい読み方をすることもできる。それが古典の持つ懐の深さなのだろう。

 時代も場所も全く違う歌を組み合わせて、一連の世界を作り出すことを研究者は間違いだと断ずる。同じ作品に収められているというだけで同じ地平に位置付けるのはおかしいということだろう。そのとおりであると私も思う。ただ、それがあくまで古典研究という枠内のことであって、文学の創作という別の視点を持ち込むと意味が変わってくる。それぞれの作品がもつ背景を巧妙に重ね合わせることで新しい何かが生まれることもある。古い素材をうまく組み合わせると、素晴らしいデザインになるのと似ている。

 和歌や俳句といった短詩形文学はそれをやりやすい。もともとそれらにはより古い作品を取り込んで作るという考え方が内在しているので、他作品と組み合わせることは不自然にはならない。古典文学なり、過去の芸術なりをうまく組み合わせて独自の世界を作り出すことには可能性がある。深い伝統を持っている日本の場合、その資源はかなり多いといえる。

 新しいものを作り出すためには、あえて古いものへの再評価をすることも大事ではないか。いままでも古典をモチーフにした現代の芸術は数多いが、意識的に古典を活用するということをもっと行ってもいい。それで古典作品が傷つくことはないし、むしろ理解が深まる可能性の方が大きい。だから、古典のコラージュとでもいうべきものがもっとあってもいいような気がする。

風景の中に感じ取るもの

 風景の中に人情を感じ取ることは詩人だけの特権ではない。誰でもそれはできるのであって、心の中にしみじみと広がる感慨を覚えるのである。ただ詩人と違ってそれを言葉にできないため、感覚はたちまちのうちに移ろい保存することができない。優れた詩歌に接するとその時浮かんだ瞬間の感覚を再現してくれる。だから感動を覚えることがあるのだろう。

 自然をどのように描くのかは積年の伝統があり、それに則ればある程度は達成できる。しかし、いつでも同じ表現では新鮮味に欠けるだけではなく、その時のほかとは交換不可能な心情を表現することができない。だから詩人は新しい表現に挑戦する。あまりにも的から離れたものであると理解ができないので、この挑戦は必ずしもいつも成功はしない。それが詩作というものなのだろう。

 風景画も同じように見ることができる。ただ光学的に変換して風景を切り取っているだけではない。そこに明らかに画家の解釈が介入し、その中にはしばしば風景にまつわる人生が隠されている。自然を描きながら、実は描いているのは画家自身の心理であり、周囲の人々との交流の中から生まれた心の在り方なのだろう。

 私たちの日常は分かりやすく効率的にという暗黙のルールに支配されている。だから考えなくては何を表現しているのかわからないのは悪例となってしまう。しかし、場合によってはそのような悪を侵さなくては世界をつかむことができなくなってしまうのだろう。その試みに触れることが芸術を見るということだと考えている。難解な作品に出合うたびに、その真意を考えてみる。理解には届かなくても少なくとも考える時間を持つこと。それが貴重な体験となる。

 風景の中に何を読み取るのか。それも私たちが長年行ってきた芸術鑑賞の方法である。田園風景の中に隠れた孤独、都市の景観に隠された狂気、広大な山水、怒涛に何を感じるのか。まずは自分がそれを意識することが大切だ。言葉にできなくても、絵に描けなくてもまずは読み取ることをしてみようと思う。

古典の読み方

 かつて古典研究の真似事をしていた身にとって、古典は学問の対象であり、しかるべき手続きを読まなければ触れてはならないものという考えがあった。しかし、いまはその考えは間違っていると思う。

 古典作品をどう読むかは読者の自由だ。ただ、それが書かれた時代の言葉や価値観を知らずに読むと、作品の伝えたいメッセージを見誤る可能性がある。だから、古典の言葉を学び、文法を学習し、背景の歴史を習得する。それはしないよりした方がいい。

 でも、それをしなければ古典は読めないわけではない。思い切り現代風に解釈し、恐らく作者の意図とはまるで異なる読みをしたとしても、本当の古典作品は耐えられるはずだ。

 もちろん、従来の文学研究は大切であり、これからもさらに継続し、深めて行く必要がある。近年、この方面が疎かになりつつあるのではないかという危惧が、私にはある。

 しかし、過去の作品を新しい視点で捉え直すことはそれと同じくらい必要だ。古典を埃の下に眠らせない。それがこの国の持つ潜在力に繋がる。古典には多様な読みがあってしかるべきだ。

詩を読む意味

漢詩に関する本を読んだ。どの詩でもそうだが、どのように読むのかは読者の関与するところが大きい。なるべく作者の意に沿うようにと思うが、他人の気持ちは分からない。まして、過去の偉大な詩人の心となると理解が届かない。

それでも詩を読むのには意味がある。なるべく作者の創意に近づこうとすることで、心が研ぎ澄まされる。他者のことへの関心が高まることは、そのまま自分の理解にも繋がる。そういう時間があってもよい。

景をもって

 風景を歌うことで心情を表すのは俳句などでは基本の考え方だが、それ以外のジャンルにおいても、あるいはいわゆる文学的な表現が要求される場面ではなくてもそういう感性は大切だと考える。

 これには喜怒哀楽や人情の機微を景から感じ取る力が必要になる。それには感性のアンテナを高くして、いろいろな経験を積むことが必要だ。優れた叙景詩や風景画をなす人たちがしばしば高齢であったり、若くとも特殊な経験を持っていたりするのはそうしたものの見方が培われてきた結果なのだろう。

 景をもって情を写す。古来から言われてきた境地をほんの少し分かりかけてきた気がする。

悲恋の文学

 かつて万葉集を研究していたころ、相聞には悲恋もしくは不如意の恋愛模様が描かれていると諸学者が述べている著述に接した。

われはもや安見児やすみこ得たり皆人の得難えかてにすといふ安見児得たり

 のような恋愛の成就を高々と歌うのは例外で、大抵はかなわぬ恋、離別、死別、旅による遠距離恋愛の思いなどが歌われている。「孤悲」という万葉がなが使われている例もあり、確かに悲恋は文学になりやすい。

夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ

 という坂上郎女の歌のようなものが圧倒的に多いのだ。

 この伝統は時代が下っても引き継がれる。王朝和歌でもほとんどが悲恋もしくは相手の不誠実を嘆く歌が大半だ。百人一首は43首の恋歌を含むが、これもほとんどすべてが悲恋の様相である。

嘆きつつひとりる夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る

 藤原道綱母の恨みがましいほどの恋情の訴えは「蜻蛉日記」で描かれた背景を知ると一層味わい深いものになる。恋歌は読者の同情を呼びやすい。恋愛感情は人間にとって共通の思念であるからだ。でも、同時に恋愛は個々別々のものであり、きわめて個人的なものでもある。すべてが違うがその根本に共通するものがあるというのが特徴だ。

恋の行方を知るといへば 枕に問ふもつれなかりけり

 室町時代の「閑吟集」の歌謡も「つれなし」の感情を歌ったものである。こうしたことはいまだに引きずっていて、いわゆるポップスの歌詞もほとんどがうまくいかない恋を歌っている。

もう一度さ 声を聴かせてよ めくれないままでいる夏の日のカレンダー 
ただいまってさ 笑ってみせてよ 送り先もわからない忘れものばかりだ
ココロが壊れる音が聴こえてどれだけ君を愛していたか知って
もう二度とは増やせない思い出を抱いて 生きて… (「幾億光年」Omoinotake

 軽快なリズムと展開の多い楽曲に乗せて歌われる最近のヒット曲も歌詞だけ読むと未練の歌である。こういう内容の歌を私たちは自然に受け入れてしまうのだろう。古典文学を読んでいるとその深奥に本質的な要素を発見することがある。これをもっと考えることが必要だ。

変革期の作品の魅力

 激動の時代を生きた人の人生には見るべきものがある。おそらく本人は大変な苦労をしたはずだ。人間不信になったり、死を覚悟して強引に物事を進めた人もいるのだろう。そんな中でも自分の心の在りようを表現できた人は偉大である。

 最近、岩波新書の高橋英夫著『西行』を読む機会があった。いわゆる日本文学研究者ではない筆者にとっては西行は単なる過去の有名歌人ではない。人が変革期に何を表現できるのか。そして、個人の開拓する表現世界は何かということに素直に関心を寄せてきたことが分かる。

 私もかつて古典文学を研究してきたことがあった。そのときには研究とは客観性を重視するもので、私自身の思いを極力排除するべきだと考えていた。また、周囲の人々もそう勧めてきた。でも、よく考えてみれば人間を評価する際に客観的という概念は成立するのだろうか。またその人間が作る文学というものを計る尺度があるのだろうか。

 いわゆる文芸評論家と言われる人の言説を読むのはかつてはあまり好きではなかった。立場によりその評価が変動することが公平ではないように感じていたのである。でもよく考えてみれば公平などありえない。自分の立場で自分の考えることを語るしかないのだ。

 西行に限らず、時代の変わり目の文学には見るべきものが多い。それは沿う感じる自分の人生があるということなのだろう。私の場合、安定した時代を生きてきたから、そういう過酷な時代を生き、なおかつ表現することを続けた人たちに素朴な尊敬の念を感じると言うことなのだろう。

虚構を味わう意味

 小説や詩といった創作を私たちが行うのはなぜか。また人の作品をときには対価を払ってまで読んだり見たりするのはなぜだろうか。演劇やドラマ、映画といったものも程度の差こそあれ人為的な虚構の世界だ。こういったものにも思えばかなり高価な代金を払っても厭わない。むしろそこから得るものに大きな期待を持っている。

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 作り話が物質的にはなにももたらさないことは事実である。小説を読んでも栄養は摂取できない。定量的な利益を測定することはできないはずだ。場合によっては生活を困難にすることすらあるかもしれない。それなのに虚構を喜んで受容するのは意味がある。

 おそらくその効用はたくさんある。しかし、私がもっとも大事だと思うことは創作を作ったり、享受したりすることを通して結局現実を考え直しているということではないだろうか。どんなにファンタジーであっても、その基本にあるのは現実世界の姿である。それを誇張したり、逆にしたり、不可能なことを可能にしたりして虚構の世界は出来上がっている。虚構を読むことをとおして実は現実を見直しているのだろう。それが直接的でない分、気づきにくい。

 現実とは乖離している作品を堪能したあと、ふと、では実際はどうなのだろうと思う瞬間がある。わざとらしくなく、ごく自然にそのような振り返りがなされる。場合によってはそれによっていままで気が付かなかった何かを発見できることもある。昔から読書は心を豊かにすると言われるが、その一つがこうした現実を見る視点を得るという効用ではないだろうか。

小学生の心

 小学生が主人公の小説を読むたびに思うのだが、果たしてこのような考え方を小学生がするのだろうか、何か根本的な間違いがあるのではないか。書いているのは大人の作家であり、大人の見方で小学生を描いている。そういった疑問が湧く。

 もちろん、これは見当違いな批判である。小学生の話は小学生でなければ書いてはならないとは言えない。過去の人物のことも同じだ。その時代に生きていないならば小説として書けないというのならかなり窮屈になる。むしろ、それらを乗り越えて別人格を作り動かすことが創作の醍醐味というものだ。

 しかし、それでも気になるのは自分が小学生のときと比較してしまうからだろう。果たしてこんなに深い考えを持てていただろうか。そう考えると違和感を禁じ得ないのだ。

 矛盾したことを言うが、小学生の頃の考え方を思い出すことがほとんどできない。どんなことをしたとか、どこに行ったというようなエピソードは記憶していても、そのとき何を考えていたのかは忘却の彼方なのだ。アルバムを開いたとしても断片的な思い出しかない。

 思うに子どもと大人は接続していながらも、どこかに越えられない境界線があるのではないか。その境界を越えられるのは一度きりであり、不可逆の流れが支配している。だから、大人になると子ども時代が急に縁遠いものになり、歳を重ねるほどに理解しがたいものになる。

 子どもを主人公とした創作をするのはそのことへの抵抗なのだろう。絵本のように本当の子どもが大人の作った作品を読むときもあるが、作者と読者が同じ境地に達している保証はない。小学生の心は神秘に富んでいる。かつては自分もそうだったのにもかかわらず。

能登万葉

 大伴家持が越中国守だったとき能登を巡行したことがあった。天平20(748)年のことあった。当時、越中の国は現在の富山県にあたる地域に加え、現在は石川県に所属する能登地方の羽咋・能登・鳳至・珠洲4郡を含めた地域であった。家持は国守の務めとして国内の視察を行ったのである。

 どのような行程をとったのかはおおむね推定されている。越中の国府は現在の富山県高岡市伏木にあった。ここから志乎路(しをぢ)を通って羽咋に向かっている。

志乎路からただ越え来れば羽咋の海朝凪したり舟梶もがも(巻17・4025)

 家持らは能登半島の付け根部分を西に横断してまず羽咋の郡衙を目指したのだろう。それほど急峻ではないが山道を抜けるのには労力が必要だったはずだ。家持は馬上にあったのだろうか。日本海側に出ると羽咋の海は朝凪で舟遊びをしたいほどの素晴らしい光景が広がっていた。

 次に能登郡を目指す。郡衙はいまの七尾市あたりにあったと考えられている。

とぶさ立て船木伐(き)るといふ能登の島山 今日見れば木立(こだち)繁しも幾代(いくよ)神(かむ)びそ(4026)
香島より熊来をさして漕ぐ船の梶取る間なく都し思ほゆ(4027)

 4026番は旋頭歌という形式の歌で作られている。古風な雰囲気を表現するのに使ったのだろうか。能登の島山が能登島のことならば、その島陰には神を感じさせる何かがあったことになる。4027番歌は七尾市あたりの香島から現在は鹿島郡中島町に比定されている熊来を目指して航路で旅したことを伝える。「梶取る間なく」はおそらく常套的な表現だろうが、辺境の地に身を置く奈良の貴族の旅愁は伝わる。

 次に鳳至郡を目指す。現在の輪島市にあたる場所だ。万葉集には次の歌がある。

妹に逢はず久しくなりぬ饒石川(にぎしがは)清き瀬ごとに水占(みなうら)延(は)へてな(4027)

 現在、仁岸川という川は河口が門前町剱地というところにある川で、熊来から鳳至に向かう街道から考えれば遠回りをすることになる。水占がどのようなものであったのかは分からないが題詞を信じるのならばこの地に赴いての作だ。水占が「延ふ」ものであることが分かるが、何かを流してその状態で占うのだろうかおそらく珍しい地域信仰に触発されて作った歌なのだろう。

 そしておそらく鳳至の郡司の接待をうけたあと、能登半島の先端部の珠洲郡を目指す。珠洲の郡家は現在の珠洲市役所の付近にあったと推定される。富山湾側にあたる。能登の4郡をめぐり終えた家持一行はここから水路で一気に越中国庁を目指したようだ。

珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり(4029)

 珠洲の海岸を朝に船出し、往路で見た能登の島山をもう一度みながら富山湾を南下して当時は渋谿(しぶたに)と呼ばれた伏木付近の海岸に到着したころには月が出ていたというのだろう。当時の旅がどれほど大変であったのかは分からないが、国守巡行は任務として行うべきものであった。この職務があったせいで奈良時代の能登の風景が残されたのである。大伴家持の作品の半数は越中国守時代のものであるが、その中に能登の地名が残されたのは様々な偶然の結果である。

 この巡行とは別に万葉集には能登の国の歌として、

梯立の 熊来のやらに 新羅斧 落し入れ わし
かけてかけて な泣かしそね 浮き出づるやと見む わし(3878)

梯立の 熊来酒屋に まぬらる奴 わし
さすひ立て 率て来なましを まぬらる奴 わし(3879)

香島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち つつき破り 速川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて 母にまつりつや 愛づ児の刀自 父にまつりつや 愛づ児の刀自(3880)

 という古体を残す歌謡のような作品が残っている。能登は万葉歌人にとってひと時代まえの雰囲気を持った地であったのかもしれない。

 私はこれらの作品の比定されている場所を何度か尋ねたことがある。最初に行ったときはバスで廻った。かなりの長旅だったが奈良時代の旅に比べればはるかに快適だったはずだ。富山県に務めていたころは自家用車で尋ねた。珠洲の灯台に行ったときには不思議な達成感があった。この万葉の歌枕のある土地が今回の大地震で多大な被害にあったことに心を痛めている。旅の途中でお世話になった方々のことが思いやられる。皆さんのご無事をお祈りしたい。

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