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変わり続ける性質

 日本の文化は閉鎖的だと表現する人がいる。恐らく正解であり、間違いだ。結果的には大きな間違いだ。

 日本にはユニークな文化現象が数多く見られるという。独自、唯一無二というのは言いすぎかもしれない。どの地域にもそういった特徴がある。ただ、かなりユニークであるのは確かだ。その意味では閉鎖的な一面があるかのように思える。

 気をつけなくてはならないのは日本文化の特徴としてあらゆる局面で融合という過程に持ち込んでしまうことがある。有形の文物もそうだか、思想や制度にもそういう面がある。敵対的排除というのが少なく、取り込んでしまうのだ。

 変わっていくことがこの国の特徴だと評する人は多い。不易流行などという人もいるが、流行の占める範囲がかなり多いといえる。変わらない何かがあるという幻想がようやく国民性を支えている。

 だから、決して保守的ではない。また、意図的に革新を求めているのとも違う。百年後の「日本人」はいまとは姿かたちも考え方もまったく違うかもしれない。でも、相変わらず日本人論を展開しているだろう。百年前の先輩がいまの我々に対して考えたかもしれない予想と同じように。

戦争は終わっていない

 終戦記念日の今日、日本各地は大雨で非常に不安な状態にある。すでにかなりの犠牲者が出ており、これ以上の被害が出ないことを祈るばかりだ。朝から携帯電話に避難指示のエリアメールが警報音とともに届いている。

 その中でも私の住む街でも正午に太平洋戦争の犠牲者に黙祷をささげることを勧める街頭放送が流れてきた。2021年は終戦から76回目の記念日にあたる。先ほどの放送にもあったが、二度と戦争が起こらない平和を願うという文言に反して世界ではいまも戦争が続いている。日本では戦争は起きていないが、平和の価値を観念的にしか理解できない世代、ー私もその一人だー が増えている。

 ある番組で沖縄戦に向かった戦艦大和の駆逐艦雪風の元乗組員だった方の経験を知った。敵戦闘機に襲われた時の恐怖や、反撃の機銃を撃ち続けているうちに人間的な感情が消えていく経験の恐ろしさ、大和沈没後の人命救助の際の悲惨な状況など、90代のその方にはいまだ鮮明にその状況が思い浮かぶというのだ。

 終戦記念日という言葉に安心してはいけない。戦争は終わっていない。終わったと思ったときにまた始まってしまうのが戦争なのだろう。この連鎖を乗り越える叡智を身につけなくてはならない。

善意

 東京オリンピックをめぐって様々な善意の報道がある。選手同士あるいは選手とスタッフ、周辺の人との交流など様々だ。

 オリンピックは日本のおもてなしの方法を体験していただき、世界に拡散する機会だった。それがきわめて限定的なものになってしまったのは残念としか言いようがない。

 私は日本人が道徳的に優れているなどとは思っていない。ただ、原理原則よりもその場にある人を大切にしようとする心の傾きがあることは事実であり、それこそが現代社会に求められている何かの一つではあると確信する。

 国単位に考えることは間違いかもしれないが日本の文化が培ってきたことを世界に説明する意義は大きいと考えている。

オリンピックの意味

 東京オリンピックが終わった。無観客という極めて異例の大会運営はこれからのスポーツイベントに様々な影響を残すことだろう。観客がいなくてもスポーツが成立するのかという根本的な問題を考えるきっかけになる。

 オリンピックが商業主義に取り込まれている以上、無観客はあり得ない。今回はスタジアムに入る人が制限されていたのではあるが、メディアを通して観客となった人は世界中にたくさんいる。その存在があるからこそ、メディアが商業的に成立し、そこで生まれる利益がスポーツイベントの運営には欠かせない。

 もし本当の無観客、もしくは無料試合を実施したらどうなるだろう。世界的なスポーツイベントはおそらく成立しない。そこにドラマは生まれないし、感動を物語ることもできない。オリンピックは残念ながら政治や商業に取り込まれることで成立しているといえる。

 スポーツが文化として成立するするためにはやはり何らかの共同性なり、共有性を維持しなくてならない。勝手にやってくれでは文化は育たない。しかし、何でもできるわけではない。国際競技として継続するためには割り切らなくてはならない様々なものがある。東京オリンピックはこの問題を再確認させてくれるものであった。

開催国の誇り

 東京オリンピックは無観客が前提となっているため、テレビやネットを通してしか見ることができない。これならば他所の都市、他の国の開催と変わることはない。海外の方々が東京オリンピックにどれくらい関心を持っているのか分からないが、東京にいても大会が見られないことの悔しさだけはお伝えしておきたいと思う。

 開催国として日本の選手が好成績を挙げていることは喜ばしいが、他の日の記事に書いたように私はこの大会にナショナリズムを持ち込みたくはないという立場である。同じ言葉を話す選手が活躍するのはうれしいが、あくまでそれは個人の努力によるものであることは忘れてはならない。

 開催国としての誇りを持てるとしたら、様々な記録を東京大会で更新することができるということにある。世界新記録が生まれると、選手の努力に報いることができたという事実に開催国の国民として誇りを感じる。また、東京で史上初のメダルを取った国があれば、それも誇りだ。できれば日本の選手に栄冠を取ってほしいが、そうでなくてもいい。競技するための最高の環境を提供できたことを誇りとしたい。

芸術の目

 情報技術の発展により、知識やスキルはあっという間に共有され、結果として便利だがつまらない世の中を作っている。こういう状況に今の日本は対応できておらず、イノベーションも起こせない。だから、敗北感と閉塞感が募りる。考えてみよう。日本文化で世界的な評価を得ているものは独創性に富んだものであり、多くはそれ以前の伝統に根ざしていえる。アニメが江戸時代以前の日本の絵画と地続きなことは例えば浮世絵を見れば想像がつく。

 ゲームの世界の背景にある漫画やアニメの世界は、組織的なくびきから逃れてきたアウトロー的な存在であり、その中には反社会的なものやエログロ、ナンセンスも許容されてきた。その寛容性から新しいものが生まれたのだ。こういう風土は作ろうと思って作れるものではない。管理しようとすればますますつまらないものになる。多様性の中に可能性を見出すことをしていかなくてはならない。多くの駄作の中に光るものが出てくるのだ。駄作に分類したものも実はそうではない可能性もある。

 情報技術は芸術の世界にもさまざまな利益をもたらしているが、逆に大切な要素を削ぎ落としつつある。作品はこうあるべきだという価値観を共有することは、逆に言えばそれ以外の可能性を見えなくしてしまうのだ。そのためには芸術活動をしている皆さんには自分の創作を信じていただきたい。また多くの人が芸術家を、それができなくても創作活動を目指すべきだ。芸術の目をもつことが今後の世界を救う方法だと確信している。

スケボー

 オリンピックで日本人選手がメダルを取ったことでスケートボードが注目されている。以前から公園の階段を曲芸のように降りていく若者はいたが、それが国際競技になっていたとは知らなかった。子どもの遊びかと思っていた。

 バックトゥザフューチャーという映画に未来のスケートボードの様子が特撮で撮られていた。未来と言ったが映画の中では2015年の設定で、すでに過去のことになる。映画のスケートボードは空中を浮遊し、ホバーボードという名で登場する。路面はわずかな足の動きで前進するが、水面では推進力がなくなるという設定であった。もう6年も過ぎてしまったが、ホバーボートが水上で立ち往生したというニュースはまだ聞かない。

 オリンピックの競技を見ると階段の手すりにボードを当ててどのように降りるのかを競うものであった。さすがに重力に抗うことはできない。着地までにどのように振舞うのかで見せるスポーツになっている。もはやおもちゃではない。

 この先のオリンピックではホバーボードの競技が行われるのだろうか。それはそれで見てみたい気がする。私は間に合わないかもしれないが。

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スポーツの境界線

主に女子のユニホームを巡って論争が起きている。露出度の高いユニホームをなぜ着なくてはならないのかということで、差別問題にも発展しそうな勢いもある。

ビーチバレーのユニホームがビキニスタイルなのはその方が競技にとって好都合だからかと思っていたが、どうもそうではないらしい。規定がありそれ以外の選択はできないと聞いた。体操ではドイツチームが長袖タイプのユニホームで登場した。これには規定はなく、奇抜でなければ長さは無関係とのこと。身体の美しさを競う芸術性競技においては見せ方はかなり大きな問題になる。今回の選択はチームとして大きな決断だろう。

 陸上競技とりわけ短距離や跳躍系のスポーツではかなり露出度が高いユニホームが使われている。空気抵抗の低減のためという。おそらく何も着用しないのが記録上は良いのかもしれない。

 スポーツが純粋に競技性を追求すると、ユニホームのあり方は無関係となる。それをある方面に固定するのは文化的な問題だろう。日本の国技の中には文化的な要素を強く持っているのものが多い。だから、柔道では礼儀や整容が重んじられ、青い道着には抵抗感を持つ人が多い。大相撲では女性は土俵に触れることすら許されない。

 国技がスポーツ化してさらに国際化したとき、文化的拘束は少しずつ解放される必要がある。何を着るかと言うことに関しても変わらねばならない段階があるのかもしれない。

非国別対抗

 オリンピックで選手の活躍が報じられるとさすがに心躍るものがある。劣悪な環境の中、努力を重ねた成果を出せた選手は素晴らしい。また、たとえ勝負では負けても大きな試合に出られる事自体が称賛すべきだと考える。

 その上で、最近しばしば考えるのはオリンピックはもはや国別対抗にする必要はないのではないかということだ。メダルをいくつ獲ったかということに国力を重ね合わせる時代は終わっている。そうでなくても一部の恵まれた環境の国や地域の選手が勝利しても感動は半減する。

 ならば、もう国対抗はやめて別の枠組みを考えるべきではないか。クラブチームのような形態も考えるが、これも商業的な力関係に左右される。多くのプロスポーツで力の不均衡が起きてしまっているのはそのためだ。ならば、何がいいだろう。原則として個人の自由でチームを組めるといい。もしくは皆で金を出し合い、ほぼ同じ条件でチームを作って公平性を担保するのもいい。

 実際はそうかんたんには行かないだろう。それでは誰がスポンサーになるのだ。選手やチームにどのように思い入れを持つのか。帰属意識のないスポーツなどそもそも存在するのか。難問は色々あるが、非国別対抗の枠組みを考えてもいいのではないか。例えば7月生まれチームのようなものを考えている。笑うことなかれ。

親切と不寛容と

 日本人は親切だという意見と不寛容だという意見がある。これはどちらも正しく、また間違っている。人には他人に優しくなれるときとそうでないときがある。まして日本人などという人はいないのであり、人それぞれ考え方や行動様式が異なる。

 日本の文化に他人との寛容と不寛容を際立たせる要素があるとは言えるかもしれない。思いやりやおもてなしを美徳として繰り返し教えられるからそういうこともあるかもしれない。また、自分とは直接関係しない集団に対する不寛容さは黙認される。

 だから、親切かそうでないかの線引きは容易ではない、隣人愛のような風土はないが、仲間とみなせば助け合える気質が備わっているようだから、仲間意識を膨らましていくのが幸せへの近道だろう。