タグ: 教育

教員はいなくなるのか

 年の初めには過去を振り返るよりも将来を考えることが多い。ただ、私のような年齢になると未来を考える際に過去の経験を参照しすぎる傾向にある。前例にこだわりすぎてはならないと自戒するものの、やはり過去の例からものを考えなくては何も始まらない気がする。教員という仕事が将来なくなるという人がいる。AIの教育ヘの応用ができれば一斉教育をする教員という人間よりはるかに効率よく教育ができるというのである。これは半分当たっていて、半分間違っている。だから教員の未来予測については意見が分かれるのだろう。

 確かに一斉教育の弱点は個々人の能力や特性に配慮が届かないということにある。教え方の緩急も人によって調節するべきだし、少し厳しくいった方がうまくいく人と、自由にやらせた方が成果が伸びる人がいる。これは人次第なのだが、それにいちいち対応できない。いまでも優秀な教師はこのことを知っていて生徒に適切な助言をしている人もいる。でも、それがすべてうまくいっているのかといえばそうでもない。まぎれもなく生徒と教員との相性という要素もあるからだ。

 ならば柔軟にカリキュラムを個人向けに変えていくAI教師の方がうまくいくかといえばそうとも限らないから厄介だ。機械任せで学習するよりは結局、自分の力でやる方が身になる。また分からないことは教員に質問して解決したほうがはるかに理解が早いのだ。コンピューターで学習してうまくいく生徒もいるので一概には言えないが、私の経験上では大抵はうまくいっていない。私たちは大人も含めて情報機器の扱い方を習得できておらず、自分の能力を上げるための補助として使いこなせていないのである。

 この先の教員の役割はもちろん個々の生徒の精神的な補助をしたり、疑問点を先回りして考え、質問に備えるといったことがある。そして何よりも生徒の学習意欲を高めるあらゆる工夫をする必要がある。また学校という集団社会の中で個々人の役割を考えさせ、決して他人と同列になることが幸せの目的ではないということを知らせる必要がある。ある大学に入学せよというのは分かりやすい目標だが、それは多くある目標の一つにしか過ぎない。それよりも自分が何を学びたいのか、それが今後の人生にどのような意味を持つのかを個別に説明する存在であらねばなるまい。

 学習するのは個々人だが、学びに向かわせるのにはコーチがいる。それが教員の仕事なのだろう。そういう風に変わっていけば教員という仕事はなくならないだろうし、むしろこれから人材不足で積極的に求められるようになる。これから教員になる人には可能性のある仕事であること言うことを伝えたい。ただ皆さんの恩師と同じことをしていては先細りになるかもしれない。学ぶことが好きでそれを他人に伝えることができるか否かが肝要なのだ。

繊細な子供たち

 繊細な子供が増えているという。打たれ弱く挫けやすい。兄弟がいないか、いても一人で幼いころから複数の大人たちに大切に育てられてきたから、怒られる経験があまりなく、ストレスに対する耐性が育たないまま年齢を重ねている。その結果、心のコントロールができないのだ。

 ドメスティックバイオレンスのような極端な挙措は言語道断だが、ある程度の愛ある緊張感は必要だった。それが何でもストレスを与えることは悪のような風潮ができ、甘やかされた子どもが、そのまま大人になる。善悪の判断も曖昧になりがちだ。

 私はこれを他人事として語っているのではない。私自身も叱られることへの耐性や反発力のようなものが損なわれている気がしてならない。両親は溺愛タイプではなかったが、それでも理不尽に叱りつけることはなかった。そのせいなのかは分からないが、些細なことにストレスを感じ、それに押しつぶされそうになる。

 昔はよかったとは思わない。ただもう少し力強く生きることも必要ではないかとも思う。何でも合理的に整備された環境で疑問を持つことなく毎日を送るのは、理想ではあるが生きる力を削ぐことにも繋がってしまう。

 その意味で部活動やその他の集団活動を大切にすることは不可欠だ。疑似的社会集団の一員として、ときには失敗や衝突を経験することで理屈だけではどうしようもならない社会の現実を知るのは無意味ではない。

 それなのにそういった活動はいまは評価が低く、学校の場合は教員のサービス残業でようやく成立している。教育は教室の中だけで行われるのではない。

 平和な時代に逞しさを涵養することはなかなか難しい。下手に規律を強要すると全体主義への扉を開くことになるかもしれず、自由を制限する可能性もある。注意深く考えること、振る舞うことが求められる。

実用主義と基礎研究の対立

 科学者にとってノーベル賞は自分の業績を評価してもらうための大切なものらしい。特に基礎研究をしている人にとっては、一般人が何のためにやっているのか、何に役立つのかを理解するのが難しい研究領域を、一気に知らしめるきっかけになる。日本人はこの基礎研究の分野で一定の評価を受けてきたようで、多くのノーベル賞受賞者を輩出している。彼らの研究はその後の応用科学や技術を導き出している。

Photo by Meri Verbina on Pexels.com

 ところが、今後受賞者が減るのではないかというよくない予測が出ている。その原因の一つに実用主義に偏向した補助金支給の在り方にあるのではないかという批判がある。何らかの利益に結び付きそうなものには金を出すが、基礎研究は序列を下げるというものである。話を大きくしてしまうが、これは理系分野のみならず、学問、教育の分野全般に言えることではないだろうか。役に立ちそうなことはやるが、どうなるか分からない知的活動は軽視する。

 いわゆる知識人と呼ばれる人の中に、日本の教育の中にはやっても意味がないものが多すぎる、それらを止めて、もっと実用的なことをする時間を増やすべきだという人がいる。一理あるような気もするが、それでやめるべき対象として文学や古典、歴史、理科の一部分野、さらには体育や美術などの実技科目などがあげられる。その根拠は将来役には立たないからというものだが、そう言っている論者の多くは中等教育においてそれらの科目からいろいろな知識を得ているように思えてならない。

 役に立つ立たないという区分けをしてしまうこと自体が知的活動の芽を摘んでしまう。何が役に立つのかは一人の人生の範囲の中では分からない。後になって発見があるかもしれないし、極端なことを言えば人生が終了した後で、後生によって価値が発見されることもある。思うに教養にも短期的なものと中長期的なものがある。昨今の人々は教養というものをどこか古臭いものと考え、非実用とする。少々心得のあるものでも数年から十数年くらいの人生で役に立ちそうな短期的教養は尊重するが、それ以上のものはなくてもいいのではと考えているように思える。

 ノーベル賞のようなブレークスルーにつながる業績を残す人は、短期的実用主義とは縁遠い人が多い。ただ、自分の知的好奇心に沿って思考を進め、そのためには一見無駄と思われることもし続けている。また、最近注目されているのはアート分野への関心がある人が多いということだ。想像力と芸術は類似する点が多く、大変親和性が高いという。文学や歴史もそうだろう。そういったものが背景となって知的活動が成立する。だから、そういう背景となるものを取り去って、新しい何かを考えろというもは実に本末転倒なのだということになる。考える行為にまで利益を考えなくてはならないほど、精神的貧困が進んでいるということなのだろうか。

歴史の授業

 高校時代にどのような授業を受けたのか。残念なことにほとんど忘れてしまった。教員である私としてとても虚しい気がするが、おそらくほとんどの人の記憶はそんなものだろう。それでも印象的に覚えていることがいくつかある。今回は世界史の授業のことを書いておくことにする。

 その先生は年配で貫禄があった。授業は毎回、講談のようなドラマティックな話しっぷりで、高座が好きだった変な高校生の私にとっては馴染みやすいものだった。この先生の授業には賛否両論があって話が面白いという好評と、覚えるべき用語が何かについて言及がないのでテストでは役に立たないという悪評だった。他のクラスは用語を穴埋めするプリントを配り、そこに当てはまるように説明していくというありがちな授業で、結局試験に出る用語を効率よく学べるというものだった。

 私は今考えても講談調の授業を受けてよかったと思う。歴史は流れとしてあり、因果関係の中で捉えるべきものだ。その流れをいかに言葉にするかが中等教育における歴史学習の要諦だと思うのである。年号や事件名だけを点で覚えても歴史像をつかむことは難しい。

 後で思ったことだが、歴史教育は例え教科書があるにしても教員の解釈が深く影響する。何をどう捉え、結びつけるのかは語り手の裁量による。歴史の概念は極論すれば人によって異なる。そのことに気づかせていただいたのも学恩の一つなのである。

 昨今のようにすぐ答えを求めがる風潮において、歴史語りをする授業スタイルは排除の対象になるのかもしれない。ただ、目先のテストでは点が取れなくても、時代の全体像を考え、さらに他の解釈の可能性を予測できる授業は人生に必要なものであると考えるのである。

子どもの可能性のために

 経済的な格差が徐々に表面化しつつある。可能性のある子どもの才能を伸ばすためにはやはり最低限の教育と体験の蓄積をサポートする必要があるかもしれない。贅沢なものでなくてもいい、日常から離れて見つめなおす経験を持たせる必要がある。

 生活環境の格差のために、日々の生活に追われる子どもがいる。日本では途上国のような児童労働は顕在化しないが、そのために苦しい生活をひそかに行っている家庭もある。そういう人たちは生活から離れて何かを考える余裕が失われるから、もって生まれた才能を発揮しにくい。その才能を伸ばすためには例えば学校以外の体験を補助する仕組みを作る必要があるだろう。

 例えば、短い時間でもいいのでスポーツや趣味の時間が確保できるような非営利のクラブ活動などもいる。その指導者が責任をもって指導を行えるように公的もしくは企業の社会貢献のシステムを応用すべきだ。こうした活動が結果的には社会全体の福祉、利益につながることをわかりやすく説明できる人が出てほしい。

 その指導者として、各方面の指導経験のある中高年を活用する方法がある。退職者のセカンド・サードキャリアとして活用する。給与は小さくともそれ以上に生き甲斐が得られるのならば、応募してくる人材はいるはずだ。経済的に恵まれないこどもたちを、生きがいに恵まれない大人たちが救うならば両者にとって有益なはずだ。

 これからの日本の経済は今までになかった可能性を引き出すことにかかっている。優秀な人材に投資するのは手っ取り早いが、それ以前にいままで見捨てられていた人材を見逃さないことも必要になる。だから、公共益としても社会福祉事業は貢献するのだ。社会的な影響力持つ人にはそういう視点を持ってほしい。

読解力を身につける方法

 文部科学省が今年4月に実施した2024年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果を公表した。中学校の国語の平均正答率が過去最低の成績になったという。数値にどれほどの意味があるのかは疑問がある。テストの正答率とか偏差値を教育関係者は使いたがるが、数学的な意味は果たしてあるのだろうか。テストの内容も母集団も違うものを比べても参考程度にしかならないと思っている。数学に詳しい方にはご教示いただきたい。

 最低かどうかは分からないが、読解力の低下は経験的に気になることがあることは確かだ。その原因が読書量の低下や、デジタルデバイスの長すぎる使用時間、短時間で答えを求めすぎるテストの増加などにより、子どもたちがしっかりと読み取ることをしなくなったことにあるのではないか。これも科学的な根拠があるわけではないが、可能性が高い仮説であるとは考える。

 読解力を身につけるためにはどうすればいいのか。一般的に読書をすればいいといわれるが、そもそも読解力のない人は読書をしない。日頃走ることがない人に速く走るためにはとにかく走れというのと同じような気がする。まず柔軟体操をし、ジョギングをして徐々に体を作っていく。そういうランニングと同じように読解力を身につけるためにはどうすればいいのか。

 私はまず読む前に語彙力を増やすことが必要だと考える。いわゆる書き言葉(文章言葉)で用いられる言葉は、意識的に読まなくては身につかない。新聞のコラムや、軽めの文化的な記事などを読むことで文章言葉を身につけることをしていくのがいいと考える。短い文章で行うべきだ。

 次に、それらの記事の内容を文章言葉で簡単にまとめる練習をしていく。要約というとハードルが高いが、そこまでまとめなくてもいいのでどんな内容なのかを書くといい。これによって文章の大意を掴む方法を身につけていくといい。メモ帳などに数行でまとめると達成感も生まれる。

 次は、これは誰でもできるとは限らないが、読んだ内容を他人に話すことにあると考える。読んだ内容を他人に伝えることで内容の整理ができる。他の人の話を聞けば自分が気付かなかった内容を知ることもできる。読解力は最終的には他人の考えを読み取ることにあるのだから、一人で完結する学習法よりは複数で行った方がいい。これは学校教育が最も効果的に行える段階だ。

 次は、自分で読んだ内容を記録していくことだろう。書評までいかなくてもいい。簡単な読書感想文で構わない。それをとにかくためていくのがいい。インターネットの読書記録サイトも有益だ。私の場合はブクログという読書記録サイトを使用しているが、こういうサービスを利用して読書をする励みにすることは大切だろう。

 入試の現代文のテストは読書量がなくても高得点を取る人がいる。いわゆるテストの答え方にはコツがあり、博学な知識は必ずしも必要ではない。出題形式も型があるので、それらを覚えていけばある程度通用する。このようなテストで点を取ることを読解力と考えるのならば、入試参考書を繰り返し学ぶ方がいいだろう。私としてはあまりお勧めしないが。

 読解力の低下は個人の読書経験の減少という問題が大きいが、そもそも読書にさほどの価値を見出さなくなった現今の風潮も大きく影響を与えていると考えられる。検索によって断片的な知識を得られればよいとか、生成AIが導く答えで満足しているとますます読解力を得る機会は減っていかざるを得ないだろう。残念ながら世の中の動きは人の読解力を奪う方に流れている。だからせめて初等中等教育では読解力の基礎を固めることに注力していくべきだと考えるのだ。

伴走様々

 視覚障がい者などがマラソンなどのコースが不定形なレースに参加するとき、ガイドする人を伴走者ということがある。ランナーの目となるためにはその心理を察し、様々な配慮をする必要があるという。視覚障がい者は歩幅が自然に小さくなるが、アスリート級になるとそれもなく、伴走する人もそれと同等もしくはそれ以上の走力が求められる。

 この伴走という概念は比喩的にいろいろな場面に使われるようになっている。私の業界では教員は生徒の伴走者であるべきだという表現が理想として語られる。走るのは生徒であり教員は牽引するのではなく、あくまで伴走するのだということだ。instructorやteacherではなくfacilitatorであれというのと同じような比喩であるといえる。

 理想としては素晴らしいのだが現実には伴走はかなり難しい。本人がやる気を出さない限りそもそもスタートしないし、その人の気持ちを察することは困難だ。それができると言う人は多いが実は自分の考えを押し付けていることが多い。伴走には徒労が多く、効率とか生産性といった物差しでは測れない。

 私はそろそろ引退するから好き勝手にいうが、伴走者になるなら覚悟しなければならないと思う。ランナーが成果を発揮できなくても、それは仕方がない。伴走者としてやるべきことをやったならそれで満足すべきなのだ。ただレース後にランナーにいうべきことがある。今日のレースの結果は途中経過に過ぎない。次のためにまた練習しようと。ランナーにエンディングを見せないことこそ伴走者の務めなのだろう。

最後に語らせる過程を

 学習の成果を上げるためには言語化という作業が欠かせない。知り得たことを言葉に変換するということである。もちろん学んだことをすべて言葉にはできない。私たちが目にし、感じ取ることは非常に複雑であり、言葉で言い尽くすことは難しい。それでもたとえ断片的なものであっても、自分なりに言葉に写し取ることは必要な作業なのだ。

 学校での学習、とりわけ受験勉強や資格取得の学習などはもともと目的が限定されているものであるから言語化はし易い。そういったものの教育自体が言語を通して行われているのであるからハードルはかなり低いはずだ。でも大切なのは人の説明をそのまま暗記することではなく、自分なりのことばに変換し自分なりに説明できるということなのだ。結果的にそれが問題集の解説や教師の説明よりも劣ったものでもいい。とにかく自分の言葉で語ることが理解を深める。

 普段の学校の授業にこれを当てはめてみよう。例えば歴史を勉強する際に、教科書の記述に沿って多くの教員は説明し、重要語を板書(黒板に書くこと)したり印刷物にまとめて配布したりするだろう。生徒はそれを必死に写し、空欄を埋めたりして学習したことにする。赤いペンで書いて赤いシートで隠してテストに備える。直後の試験ではこれで対応できるので高得点をとると安心してしまう。ところが少し時間を置いて模試などで同じことを聞かれたり、教科書とは別の方向から質問されると答えが出てこない。こうした経験は多くの人がしているはずだ。

 おそらく教科書の丸暗記の方法は短期的な記憶には向いているが、忘却するのも早い。それはおそらく情報を単なる記号としてのみ取り込んでいるだけで、意味づけがなされていないからだろう。一つ一つの情報は軽量なのですぐに覚えられるが剥がれるのも容易だ。対して自分なりに定義づけされた情報は獲得に手間と時間が掛かるが重みをもつため、簡単には忘れにくくなる。ついでに覚えた関連情報も相互作用して忘れにくくしてくれるのだろう。

 では、自分の言葉に直すために何をすればいいのだろう。学習者の立場で考えれば学習後に自分の言葉でまとめ直す作業をいれる方法がある。講演などを聞くときその場でメモを取ることが多い。上手く取れると安心してしまうがこれが板書を写す学習と同じだ。大事なのは事後にそのメモをできるだけ見ないで講演の要旨を自分の言葉で書くことだろう。専門用語は使わなくてもいいので自分の言葉で説明できるかである。こうすることで学びが自分のものになる。最近の私のノートはこの自分なりのまとめを必ずつけるようにしている。

 教師の立場でできる方法は何があるのか。授業の最後に今日学んだことは何であったのかを語らせる時間を作らせることではないだろうか。教師が板書することは重要事項の箇条書きや記号による図示にとどまる。これをそのまま写しても後で読み直したときなんのことか分からない。そこで、授業の最後に私が今日話したのはどんなことだったのか、何が大切なことだったのかを短文でまとめさせ、生徒間で確認させるのである。自分の言葉でまとめられなければ理解ができていないことになる。生徒同士でまとめの交換をすることで見落とし、聞き落としを防ぐことになる。私はノートを使って隣の生徒に教師のように説明するという場面を作りたいと考えている。果たして効果は出るだろうか。

後で書くのがノートの奥義

巷のノート術を読んでわかったこと

 講演などのノートをとるとき、多くの場合スライドや板書(黒板などに書くこと)された文字や図だけを移すことになる。書かれなかったことでも大切だと感じたとことはメモをとることが多い。ただ筆記に熱中しすぎると肝心の話の内容が理解できなくなる。ノートの目的はあとで思い出せるようにするための鍵となる言葉や図を書いておくことなのだ。

 さまざまなノート術の本やサイトを巡覧するに、ノートには次の3つの記入欄をつくり、一覧できるようにレイアウトするのがいいらしい。

  • ① 講演を聞きながらメモを取る欄
  • ② ①を読み返しながら、その見出しを作る欄
  • ③ ②の整理に基づき、自分の言葉で内容をまとめ直す欄

見出しをつけて内容を整理する

 ②は雑然ととったメモにまとまりをつけるための作業である。つまりあとから見出しをつけることだといえる。先述したノート術指南書のなかにはここを質問形式にしてみるといいとあった。例えば「もっとも効果的なノートのサイズは?」の様に書いて、①の欄を隠して再現できるのかをチェックするのだという。それもいいが、私はそれぞれの話のエッセンスを俳句くらいの長さ(つまり17音)くらいにまとめる方がいいのではないかと考える。たとえば「書きやすく持ち運ぶにはB5メモ」とか「ノートのサイズはA4がいい」などである。これは話の要素を短くまとめる作業だ。

自分の言葉でまとめ直す

 ③が実は一番大切で、ほかは実は何でもいい。聞いた内容を自分の言葉でまとめ直すのは知識を内在化し知恵に深めることの手助けになる。この際大切なのは教師なり講師の話し方や用語そのものに拘らず、あくまで自分の持っている言葉でどんな内容だったのかを記すことだ。この方法だと正確な記録にはならない。ただ、個人がもつノートは公式記録である必要はない。自分勝手なまとめであるべきだ。逆に言えばこの自分なりの言語化ができなければノートを取る意味は半減する。

Photo by Karolina Grabowska on Pexels.com

 ビジネス用途の場合は、もともと識者の見解を正確に覚えることよりも、それを自分の仕事の中でどのように応用するかという方に関心があるはずだ。偉い先生が何を考えていようと構わない。要するにそれは使える考え方なのか、使えるならば使ってやろうというのが目的のはずだ。ならば、この欄は自分ならばこう使うという視点でまとめればいい。学問の世界とこの点は違う。

ノートの取り方は誰に習う

 学校でノートの取り方を習ったことはあるだろうか。ノートの大きさや大体のレイアウトは教えられても、どのように書くのかは教えられない。まして何を書けばいいのかとか、そのように書くのはどんな意味があるのかといったことも習わない。せいぜい字はきれいにとか、落書きするなとか、板書したことは書きなさいとかだろう。実はわたしはこれらを今は言わないようにしている。

 字はきれいな方がいいがノートの場合は自分が読めればいい。人に提出するものは別だ。落書きは関係がないものはだめだが、授業を聞きながら思いついたものなら絵でも漫画でもなんでも書けばいい。ただし、熱中しすぎると肝心なことを聞き落とすので細かく描くのはお勧めしない。板書したことを全部書く必要はない。それも話し手の思考整理のために書いているのに過ぎない。自分があとで思い出すために必要だと感じるだけ書けばいいし、足りなければ書いてなくても付け足す。

 ただし、復習の際に書くのは日本語(自分の一番使える言語)の文章でまとめるようにする。図表にだけにするとわかったつもりになってしまっていることもあるので、きちんと言語化したい。その際に自分の感想を付け加えてもいいが、まずは話されたことは何かをまとめてから、それとは別に「以上の話を聞いて」とか「以下は私の感想だが」などで書き始めるようにする。こういったことは中高生のうちに学校で教えるべきだろう。

まとめ

 以上から考えるとノートを取るにあたって復習ということがいかに大切かということだ。話を聞きっぱなしにせず、今日はどんな話をきいたのかを思い出し、それを自分の言葉でまとめ直す。その作業をどれだけ繰り返すかが学びの成果に大きく関わる。そしてこういうノートの使い方は学校で教える必要がある。

学校で使うデジタルデバイスはレンタルでいいのではないか

 一人一台のパソコンなりタブレットを小学校や中高生に使わせる教育方法の推進は、昨今の主流であるが、様々な障害を抱えていることも確かだ。その一つが購入させたデバイスの故障が多く、授業で使えなかったり、保護者の負担が増えたりすることがある。故障については機器そのものの問題もあるが、子どもの機器の扱い方の問題もある。子どもの中には機器を乱暴に扱ったり、意図しなくても落としたり水没させたりして故障させてしまう事例が多いと思われる。もともと使いたくて買ったのではないし、子どもが使うにはあまりにもやわなのである。

 そこで私はいくつかの提案をしたい。まずは機器のメーカーについてである。デジタルデバイスはすっかり海外勢に席巻されて、日本の個人向けコンピュータは風前の灯といってもよい。安価でそこそこの性能がある中国などのパソコンは個人で使うのには十分な性能がある。かつては高級品であったがいまは家電としてコモディティとなっている。ただ、教育用に特化した機器があるのかといえば十分ではないと考えている。最高のスペックや突出した処理能力はいらない。求められるのは第一に堅牢性であり、故障の少なさだ。バッテリーも6時間程度持てば良い。後述するように私案ではモバイルとしての軽さや、特殊なインタフェースもいらない。壊れにくく、授業のある時間は充電が不要ということが満たされていれば十分だ。

 次に流通業者に提言したい。学校に絞ったビジネスプランを提示し、安定的かつ恒常的な契約を取り付けるべきだ。学校へは機器をレンタルするかたちとし、故障機は交換できるようにする。学校には保証費を提示し、故障時に一部負担をしてもらえるようにしておく。これを年度更新していくことで、安定した収入を確保できる。少子化が進んでいるとはいえ、学校はなくなることはない。契約を取り付けられれば心強い収入源になるはずだ。

 学校関係者へは次のように言いたい。デジタルデバイスは学校でレンタルし、家に持って帰らせないようにすべきだ。デジタル機器による授業やその他の学習は確かにいろいろな利便性があるが、子どもの学習成果を阻害することも多い。家庭学習はデジタル機器ではなく、紙と鉛筆でおこなわせることをおすすめしたい。

 学校には生徒個々人のデジタル機器を保管でき、充電もできるラックのようなものを用意することを提言したい。家庭学習の宿題はデジタル機器を使わなくてもいいものにすべきだ。生徒が登校したら決められたデジタル棚から取り出して授業で使用し、放課後はまた同じ棚にもどす。充電にかかるコストなどはあらかじめ保護者に示し、負担をお願いする。

 保護者にお願いしたいのはデジタル機器はあくまで学習の道具であるという理解をしていただきたいということに尽きる。レンタル料ばかりを請求され、家庭では使えないとなると負担を渋る家庭もあるはずだ。

 授業でのみ使うレンタル制のデジタル機器ならば故障のリスクも家庭への負担も減らせる。日本の学校の実態に合わせ、教育的効果を配慮した使用制度を確立すれば、当初の理想に近づける。